2003年1月5日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書エペソ1章20節〜23節より
牧師 吉田耕三
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(20〜23節)
新年になって初めての聖日礼拝です。新しい年を迎え、教会とはどのような使命や目的を持ち、どのように歩むべきかを、ご一緒にしばらくの間学ばせていただきたいと思います。
神様に従う群れ
教会はギリシヤ語で「エクレシア」と言います。「教会」で皆さんは何を思いおこしますか?多くの方は、教会の建物や十字架、またはその場所を思い浮かべるかもしれません。しかし「エクレシア」を直訳すると、「呼び集められて来た人々」という意味です。イエス・キリストの救いにあずかり、導かれ集められた人々。これが教会なのです。「建物」ではなく「自分」が既に教会なのです。キリストが頭であり、私たちがその体でなのです。そしてこれはイエス様が言っているように、教会を通して全世界に命があふれ流れるようになるためと語っているのです。このことを聖書では奥義と言っています。奥義とは知られていなかった事柄を神様が特別に啓示して下さったことです。教会は、神様が呼び集めて下さった集団であること。教会は神様が計画し、神様が願っていくものになっていくことが大切なのです。私たちの「自分勝手な教会」ではなく、神様の御心に適う教会を建て上げていくと、そこに神様の業が現われてくるのです。使徒の時代はすごいことがたくさん起きました。教会を通して神の業が成されるはずなのです。
それでは教会はいつから始まったのでしょうか?普通はペンテコステ(聖霊降臨)からと言えるでしょう。イエス・キリストの十字架の贖いの故に全ての罪が赦され、キリストを信じた人に神の霊(聖霊)が降ったのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第1コリント5章17節)
教会とは新しい命をいただいた者の集まりです。形や形式ではないのです。ですからそこには神の御心に喜んで従っていきたいという思いが与えられています。そしてこの思いがひとつにされ、神に従っていく群れとして整え導こうとしておられるのです。そのために神様が教会をこの地に打ち建てられたのです。というわけで御霊が与えられた時からですが、厳密には教会は創造の初めからと言ってもいいですね。
「 すなわち、神は私たちを世界の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1章4節)
神様が私たちを選ばれたのは天地創造の前からです。『父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。(第1ペテロ1章2節)』とも書かれています。
そして私たちを『神は私たちを世界の置かれる前からキリストのうちに選び』ということは創造の初めから教会はあったということになります。神に召された者の集まりが教会です。それは地の基の置かれる前からです。こうなりますと教会は、人間の集団や組織ではないことが分かると思います。これは神様が創設し、神様が召し出して下さった集まりなのです。私たちは自分で「ここに来ている」と思っていますが、神様が私たちを召し出して下さり保たれているということなのです。
群れに入るために・・・キリストを受け入れる
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15章16節)
ある方は「私がイエス様を信じた」と思うかもしれません。実は私たちがイエス様を信じると同時にイエス様もまた掴んで下さったのです。私たちはこの手が疲れて離れてしまい「もう信じられない。信じ続けられない」と思うことがあるかもしれません。ですが離れていないのです。イエス様が選んで下さり、掴んで下さっているからです。教会に入れるポイントはキリストにあってです。イエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じるのが必須条件なのです。教会に長い年月来ているからとか、献金をたくさんしているから奉仕をするからクリスチャンであり、教会の一員なのでしょうか?そうではありません。その人が自分の罪をはっきりと認めて、罪の身代わりとしてイエス様が死んで下さったこと、「イエス・キリストは私の罪からの救い主。人生の主として信じます」との決断をした人は、その信仰によりキリストの物とされ、神の教会の一員ということなのです。そういうわけで教会に属するとは、人前で誉められたり、さまざまな奉仕をすることとは関係ありません。自分の罪を認め自分が赦され、聖められなければならない者であることを認めているかどうか。
次にその救い主として、「私の身代わりとなり十字架に掛かり死んで下さったことを信じます。私も罪を赦していただきたいと思います」とイエス様に救いを求めたかどうかです。そうするならば、イエス様とともに十字架に掛けられた強盗と同じく、彼は十字架上で3つのことだけをしました。第1は同じく十字架に掛けられている別の強盗に向い『お前は神をも恐れないのか(ルカ23章40節)』と神の存在を認めました。2番目には『われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。(同41節)』と自分の罪を認めました。3番目に『イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。(同42節)』と救いを求めた時に、イエス様は『まことにあなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(同43節)』。彼には何か良き事をする時間、素晴らしい人間になる時間はありませんでした。でも3つの事をしたのです。1、神を信じ、2、罪を認め悔い改め、3、イエス様を信じた。その時に私たちも同じく神の教会の一員とされるわけです。
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(20〜23節)
ですからキリストを信じなければ、教会は教会の意味がないのです。私たちはイエス・キリストを信じて教会の一員になるのです。そして完全な力強いお方が教会に与えられているのです。私たちはこの現実をもっとしっかりと認識する必要があります。教会には『いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられる』、本来は教会を通してものすごい神の御業が流れ溢れていくのです。もし教会があるべき姿になるならば、教会を通して神の御力は全世界に伝えられます。しるしと業、御言葉を通して全世界に宣べ伝えられていくはずなのです。
今私たちにそれができていないとするならば、私たちに欠けがあるからです。罪に対する悔い改めがきちんとできていない事柄があるのではないかと思います。教会を通して全世界に神の命が流れ溢れるのです。その命の交わりの中に、力強い命の営みをいただくことができますし、神様の恵みに与っていくことができるのです。『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』、こうなっていく事が必要ですが、そうなるためにはどうしたら良いのでしょうか?私たちは自分に与えられている目指すべき場所(ゴール)をしっかりと認識する必要があります。先程も読みましたが・・・
悔い改めから生み出される神様の力
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1章4節)
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」(エペソ4章13節)
神様は私たちひとりひとりを染みも皺もない者として建て上げようとして下さっています。『キリストの満ち満ちた背たけにまで』、これが私たちのめざす所です。自分の問題が解決されることを願い、『キリストの満ち満ちた背たけにまで』変えられていくことをめざしていたでしょうか。めざすと悔い改めが始まります。自分が神様の基準と比べると「あーダメだな。遠く離れているな」となり、「神様ごめんなさい。私には愛がありません。高慢な者でした。」とへりくだりが出て来ます。もし自分が「あまあ良い」と人より少し上だと思ったなら悔い改めの気持は出てきません。神様が私たちを『傷のない者』にしようとされ日々導いて下さっていることを覚えたいと思います。そのために神様があえて私たちに「嫌だ」と思う試練を置いておられることがあります。ですからその事柄を通して「神様何を学ぶべきですか?何をへりくだるべきですか?何を悔い改めるべきですか?」と告白するのです。そして間違えないで下さい。悔い改めは責めではなく「罪があるからそれをイエス様にお任せしなさい。自分ではどうにもならない。神様助けて下さい」というようになるのを待っているのです。私たちが本当に自分では、どうしようもなく両手を上げる時に、神様は救って下さるのです。私たちに必要なのは「これは私の問題です。私の罪です」と告白することなのです。そうすると神様がそこから救い出して下さります。私たちはこのように神様により変えられていくひとりひとりであることをせひ知っていただきたいと思います。そればかりでなく教会の使命として何が与えられているか?
「 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1章6節)
「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」(エペソ1章12節)
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1章14節)
この救いと恵みに与かったのは神の栄光が褒め称えられるためです。神の栄光を褒め称えるよりも神様は「ケチくさい」とか「意地悪だ」とか不平や文句の方がはるかに多くはないでしょうか?
そういう時もあるでしょう。しかし最終的にはそんな私をも赦して下さり愛して下さるという神の栄光を褒め称える者となっていくことが大切であるのです。そして神様はそのために御霊を下さっているのです。もしあなたがイエス・キリストを個人的に救い主として受け入れるならば、あなたの中に聖霊が宿り神様を褒め称えることができるようになります。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103編)
私たちは神様が良くして下さったことをその時には喜びますが、すぐに忘れてしまっていると思いませんか?本当にひとつひとつ感謝を捧げるならば、きりがないほどあるのではないでしょうか?聖霊をいただいている私たちは神様を褒め称える事ができるのです。ですからもっともっと主を褒め称えていきたいと思います。
「それはあとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2章7節〜10節)
自分の力ではできませんが、神様の御霊の力によって私たちは良き業ができるし、そのことに進むべきなのです。初代教会の時代に驚くべき勢いで教会が増え広がっていった理由は彼らが本当に愛し合う者となっていったからです。それは人々が否定しようもない力であり、神様の知恵であり、神様の業でした。私たちがそうなっていく事ができたならもっとすごい勢いで人々に浸透していくのではないかと思うのです。
「こういうわけで、あなたがは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2章19節〜22節)
私たちが神の家族である事を知っていますか?神の御霊により生まれ変わり、同じ志、同じ願いを持つ事ができるのです。聖書では「一致しなさい」とは言わずに『平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい(エペソ4章3節)』と言います。私たちは御霊により既に神の家族とされているのです。それだけではなく神の御住まいとして、私たちが歩むその中に神様がおられるのです。私たちはもっとしっかりとこのことを知っていきたいと思います。御霊は私たちの内に住んで下さるだけではなく教会に住んで下さるのです。交わりの中に住んで下さるのです。私たちが自己中心を止めてイエス様を心の王座に迎える時に、私たちを通しても神の御業が初代教会のように流れ溢れるようになっていくのです。