2003年2月2日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書エペソ4章1節〜16節より
牧師 吉田耕三
私たちはエペソ書を通して、「教会」について学んでおります。第1回は『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。エペソ1章23節』と学ばせていただきました。教会は神様の優れた祝福がたくさんあり、神様の恵みが注がれていくということです。ですから私たちはともに集いキリストにある交わりを大切にしていきたいと思います。さらに私たちは『神の家族』とされています。先週も読みましたが、『天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。エペソ3章15節』という言葉があります。天にあっても地にあっても教会であります。そして私たちはそのように「家族」として歩むことが期待され、教会を本物の家族となっていくように神様が導いておられるのです。そのために必要なのは、前回の『人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。エペソ3章19節』です。私たちの愛は、普通は条件付きの愛です。でも、私たちがボロボロで誰も受けとめることができないような所にいたっても、なお見捨てないのが神様の愛です。この人知を越えた「アガペー」の愛により自分が赦し愛され、受け入れられていることを知っていく時に力が出てくるということです。そして「神の家族」として歩めるようになると学んだわけです。では本日の4章からは具体的にどのように歩むのか?第1の事柄としては『一致を熱心に保ちなさい。』です。
神の御霊が私たちを一致に導く
「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(1〜6節)
神様の奥義として教会が機能していくための大切な真理の1つは、「教会は1つ」ということです。ここで大事なのは「一致を築きあげなさい」ではなく『御霊の一致を熱心に保ちなさい。』と書いてあるのです。『保ちなさい』ということは元々あり、その一致を乱すものを取り除くようにということです。どういうことかと言いますと、私たちが主イエス・キリストを信じ自分が罪人であると認め「イエス様、どうぞ私の罪を赦して下さい」と祈り、救いを求めると、その人の罪は完全に赦され神の御霊が宿るということです。そして神の御霊にあって1つとされるのです。「血のつながり」以上である神の御霊により家族とされるのです。御霊が1人1人に注がれていることにより、一致が既にあるのです。価値観や同じ願いが湧き出る者になっているのです。
「ですから、私はあなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語るものはだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(第1コリント12章3節)
「イエス様は主だ。救い主だ。神様だ」と思うのであれば、皆様の内には聖霊が来られているのです。御霊により、私たちは考えや思いも共通のものが既に与えられているのです。ですからその『一致を保ちなさい』というのです。クリスチャンたちが1つとなって働いたならすごい力を発揮し始めるのです。ですから何とかして一致を妨げようとする力があるのです。
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6章11節〜12節)
私たちの戦いは実は「人」ではないのです。私たちはつい「あの人が」「この人が」「あの問題」「この問題」がと考えてしまいます。騙されてしまっているのです。一致を妨げようとする者は、いさかいが起こるようにと、さまざまな問題を入れるのです。ですから私たちはそれらを排除していくことが大切なのです。実はその妨げの原因は「私たちの肉」なのです。どこまで自分の正当性を主張しているのです。ですから人の意見に本当に耳を傾けることができないのです。結果として私たちは「一致できない」と感じるのです。
ではどうしたなら一致できるのでしょうか?『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて』一致を保つのです。第1は「謙遜」です。当時の謙遜の意味は「ペコペコする」とか弱々しい感覚の言葉で使われていたようです。聖書はその言葉をもって、私たちが一番に目指すべきこととして置いたのです。謙遜であるためには2つのことが必要であると思います。1つは自分が本当に弱く小さな被造物にすぎず、限界ある者と認めることです。その時に私たちに謙遜の姿勢が現われてくるのです。忘れてしまうと「自分の方が偉く正しい」という思ってしまうのです。
もう1つは自分と他人を比べるから高慢になるのです。本来はイエス様と比べるべきなのです。イエス様と比べたら私たちは「私のやっていることは全然なっていない」とへりくだることができるでしょう。どんなに私たちが「一生懸命している」と言ってもイエス様のなさったことは比較になりません。私たちの「自分が一番」という思いを砕いていただくことが必要です。そうして肉の思いが砕かれていくならば、自然に御霊の一致に導かれていくのです。そして兄弟姉妹として分かち合い、祈り合い、支え合い、赦し合うことができるのです。私たちは『謙遜と柔和の限り』。この『柔和』は「なよなよしている」という意味ではありません。全ての面にわたり、「神の考え、神様の主権こそ正しい」と明け渡した人です。ですから神様に喜んで従うことができるし、『寛容』により赦し合うことができますし、最終的には『愛をもって互いに忍び合いなさい』です。そのようにして『御霊の一致を保つ』ことができるのです。
『からだは一つ、御霊は一つ』『主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ』と「1つ」を強調しています。私たちは1つとなることがどんなに大切であるかを知りましょう。「分派の心」「裁く心」「不信感」などが入ったならば切り捨て、アガペーの愛により、互いに愛し赦し合い、受け入れ合うのです。いつもここに立ち一致を保つ者たちになっていきたいと思います。これが教会なのです。これが正しく「神の家族」です。『いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ』になっていく秘訣です。この様な一致が起きて来るときに神の御業は著しい勢いで働き始めるのです。私たちもこれを目指していきたいです。その私たちにもう1つのことを教えます。
異なる部分が生かされ一致していく
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師または教師としてお立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(11〜13節)
「キリストによって、からだ全体は、一つ、一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(16節)
神様は私たちが教会にあり、それぞれの任務を果せるように賜物を下さっているのです。第1の賜物は「御霊」です。イエス・キリストを信じた人には、神の御霊を宿して下さっているのです。イエス様を信じていること自体がそれを表しています。先ほど読みましたが『御霊によるのでなければ、だれも、「イエスを主です。」と言うことはできません。』ということは、皆さんの内に聖霊が来て下さっているのです。もし確信がないのであれば、自分の罪を認め「イエス様を救い主として信じます。私の罪を赦して下さい」とお願いするならば、間違いなくあなたのうちには神の御霊が宿ります。神の御霊が宿った人には、御霊の賜物を下さっているのです。
「さて、御霊の賜物にはいろいろな種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われがあたえられているのです。」(第1コリント12章4節〜7節)
「しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分けて与えてくださるのです。」(第1コリント12章11節)
イエス様を信じている人には必ず聖霊が与えられ、聖霊を受けた人には必ず賜物が与えられています。そしてその賜物が生かされていくときに、それぞれの働きが生かされて教会が教会として立っていくのです。ですからそれぞれが賜物をよく理解し生かされるようにしていくことが大事なのです。私たちの身体には手、足、目、耳があります。それと同様に私たちはそれぞれの役割があるのです。先ほどは「一致」と言いましたが、賜物により「多様性」であるのです。この賜物とは才能とは違い、イエス様を信じた時から与えられていく特別な神様からの力です。それをきちんと知っていくことが大事です。1人1人の賜物が生かされていく時に喜びがあるのです。与えられていない人はいません。ただ問題は、私たちは他人のものをうらやみ「あの人のようになりたい」とか「この賜物が欲しい」となります。そうではなく1人1人がそれぞれに用いられていけばよいのです。手の働き、足の働き、目の働き・・・。ですから教会には「必要のない人」はひとりもいないのです。神様はそれぞれが働けるようにと御霊を注ぎ、賜物を与えて下さっています。それが生かされていくことが大事なのです。そうすると教会全体が元気になっていくのです。教会はキリストの身体のごとく、「教会に行くとイエス様に会ったようだ」と言えるようになったなら良いと思いませんか?そのために、神様は1人1人に御霊の賜物を下さっているのですから発揮しないとだめです。発揮する時に自分も喜びに満たされていくのです。そのよう1人1人の賜物が生かされ合う中で教会は教会としての機能を果していくのです。「自分みたいな者はいらない」と思う方がいるのですが、これは絶対間違いです。神様の下さった御霊を無視していることになるのです。賜物が生かされることにより、バラエティーに富み、多くの方々を教会は迎えることができますし、力強く前進していく群れになっていくことができるのです。
「神の家族」となるために「一致」が必要です。それを妨げるものがありますから、正直に主に申し上げて取り除いていただきましょう。ですが教会は神の御霊によりそれを乗り越えることができることも幸いです。この恵みに与り、一致をいただいていく者になっていきたいと思います。そしてまた自分に与えられている賜物を出し惜しみせずに、他人のまねをする必要はありません。互いがユニークになって全体で「教会にイエス様に会いに行けるみたいだ」となっていければと思います。