2003年2月9日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書コロサイ1章1節〜8節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義執事
コロサイの町は現在のトルコの一部にありました。この町は紀元前4世紀から5世紀ごろ、当時の政治と商業の中心地でした。しかしローマの時代には衰退し小さな町となりました。この町には土着のフルキヤ人とともにギリシヤ人も多く住んでいました。また紀元前2世紀から3世紀頃にユダヤ人が移り住み、彼らは非常に富んだのです。それを見て多くのユダヤ人がコロサイに移住して来るようになったのです。パウロがコロサイの町で伝道したという記事は使徒の働きには記されておりません。恐らくパウロは第3回の伝道旅行でエペソに滞在していた3年間に、エパフラスがパウロの伝える福音を聞き信仰に入ったのではないかと思われます。
「これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」(使徒19章10節)
エペソからコロサイは約160km離れておりました。エパフラスはエペソの町を出てコロサイの町でパウロから教えられた福音を伝えたのです。その結果コロサイの町に教会が建てられたのです。コロサイの教会は異邦人が中心でした。そこにユダヤ人も加えられていきました。教会が祝され成長する中にあった時に、偏ったユダヤ教的な教え、あるいは金欲主義、ギリシヤの思弁的哲学が入りこんできたのです。そこでエパフラスはパウロに助けを求め訪ねて来ます。しかしそのときパウロは牢獄につながれておりました。それだけではなく、エパフラス自身もローマによって捕らえられてしまいます。そこでパウロはエパフラスから聞いた問題を解決するべく、手紙を書きテキコに持たせコロサイに送ります。これがこの「コロサイ人への手紙」です。
天にたくわえられた望み
「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(1〜2節)
パウロから福音を聞いた彼は、福音を語りながらパウロのことを人々にも話したであろうことは想像ができると思います。そしてそのパウロから手紙が届いたのです。教会は恐らく兄弟姉妹たちに、「教会に集まるように」と連絡を取り、皆が集まった時に手紙を読み上げたのではないかと思います。パウロは初めに自分が神の御心により使徒とされたことを語ります。初めて手紙を書く相手に自分の立場を語ったわけです。それは誇るためではなく、神様に選ばれたのは自分に能力や才能があったわけではなく、あくまでも神様の一方的な恵みであることを覚えるためでした。そしてパウロは彼らも神様に選ばれた民である自覚をうながすために『コロサイにいる聖徒たち』と呼んでいます。さらに『キリストにある忠実な兄弟たち』と呼ぶことにより、コロサイにおける働きが覚えられていることを示したのです。面識はないが噂で聞いていた人から、手紙をもらい、自分たちのことを『聖徒』あるいは『忠実な兄弟たち』と呼ばれたらとても嬉しいでしょう。場所は離れていても神にある兄弟姉妹の幸いを、その言葉の中に彼らは感じとったのではないかと思うのです。次にパウロはエパフラスから聞いたコロサイ教会の神様への働きを感謝するとともにコロサイ教会を誉めているのです。
「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。」(3〜4節)
彼らのキリストに対する信仰は現実の生活の中で、生き生きと働いていたようです。恐らくキリストとの交わりが生き生きとしていたのでしょう。キリストとの交わりを通し神様の愛を味わい、それが原動力となり全ての聖徒に対する愛となっていったのではないでしょうか?この所では『あなたがたが抱いている愛』と書かれていますが、これは「持っている」とか「所有している」という意味でもあるのです。彼らはそのように愛の実践が行われていたのです。ではその彼らの原動力は具体的に何なのでしょうか?
「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」(5〜6節)
この『天にたくわえられてある望み』とは何なのでしょうか?
「神は私たちを暗やみの圧制から救い出し、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(コロサイ1章13節〜14節)
『天にたくわえられてある』のは「救い」のことです。その救いを自分たちが得ていることをはっきりと彼らが自覚していました。ペテロは救いについてこう語ります。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(第1ペテロ1章3節〜5節)
この救いは『朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない』とはっきりと語られています。この救いが与えられ、天にたくわえられているのです。「“希望”とはある事柄を成就させようと願い望むことである」だそうです。もしもこの救いが何らかの事情により無くなってしまうのであれば、「希望」とは言えません。あるいはまた何らかの条件が満たされなければ得ることができないならば、果して自分の全生涯をかけて求めるでしょうか?確実に保証されている希望だからこそ安心していられるのです。コロサイの兄弟姉妹たちはこの救いをしっかりもって歩んでいたということです。では彼らは救いの確かさをどのようにして知ったのでしょうか?彼らはエパフラスを通して福音を聞きました。6節に戻りますが『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、』とあるように、『理解』とは「識別する」「見分ける」「はっきりと知る」という意味です。彼らは聞いた福音を鵜呑みにして信じたのではなく、彼ら自身が本当かどうか見分け、識別しハッキリと知ったわけです。救いの確かさが分かったからこそ彼らは信じ自分のものになったので、福音を人々に語ることができたわけです。今朝私たちは6節の御言葉に注目したいのです。
その苦しみが神に近づく秘訣
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10章17節)
コロサイの兄弟姉妹たちはエパフラスから福音を聞きました。そして今その同じ福音は私たちにも届けられています。そしてイエス様は福音を聞いた人々がどのような反応をするのから種蒔きの例えを通して語っておられます。
「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ13章3節〜8節)
「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13章18節〜23節)
御言葉に聞き従おうとするとき、そこにはさまざまな困難が待ち受けていること、この世に対する未練が生じることははっきりと記されています。「信じたからといって全てが順調にいくことはない」とイエス様自身が語られています。すると必ず「こんなはずではなかった」と誰もが思うのではないでしょうか?そう感じた時が実は大切なのです。というのは、福音に対する理解がその時にはっきりとするからです。たとえ困難が起った、あるいはこの世に対する未練のゆえに心がぐらつくことがあったとしても、救いの喜びの方がはるかに勝っていることをコロサイの人々は実感していたのです。ですからキリストに対する信仰をしっかりと持ち、すべての聖徒に対する愛を持っていたのです。その時に御言葉が自分のものになり、自発的に御言葉に従う者になっていったのではないでしょうか?これこそが御言葉の受肉といえると思います。
すべての人は自分の思い描く計画を持っています。福音を信じ信仰生活を始めても、自分の思い描く計画を捨てたわけではありません。信仰生活と自分の計画との衝突なのです。だから「こんなはずではなかった」と思うのです。しかしこの衝突の時に、「信仰を捨てる道を選ぶのか?それとも御言葉が語る人生を追い求めて信仰に生きる道を選ぶのか?」と決断の時が来るのです。何も無ければ御言葉は「良いことを言っている」とサラっと過ぎてしまうでしょう。でも「こんなはずではない」からこそ私たちは御言葉に真剣に聞き「そう言っているのは本当に正しいのか?間違っているのか?」と見分け識別するのです。そのようにして御言葉が自分の中に入っていく良いチャンスでもあるのです。でもそれを拒否し自分の思い描く道に歩んでしまうのであれば、その御言葉は自分のものになることはできないと思います。御言葉の歩みと自分の描く道とは明らかに違うわけです。衝突したから「自分の信仰生活はだめだ」と思わないで下さい。衝突が起こった時にこそ、御言葉の言っている意味を初めて問うことになるからです。
「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。」(ヘブル4章2節)
信仰に生きる者は昔も今も大きな困難の中で戦いながら生きているのです。困難のただ中でも戦いながら信仰の歩みをするかしないか?その決断に全てが掛かっているのです。初めて福音を聞いたときに、むしろほとんど分からないままに信じた方が多いでしょう。そしていろいろな困難に出会った時に、「こんなはずではなかった」と思いながら歩んでいるのです。ですけれどもその迷いや衝突はあるかもしれませんが『私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださった』のは事実なのです。この御子のうちにあり、私たちは贖われ救いの赦しを得て救われたわけです。これが自分の中で確かなものとして受け入れられた時、御言葉が自分のものとなっていくのです。同時にその福音は全世界に広がり実を結ぶのです。救いは神様が保証しております。「自分の行ないがここまでできたから、救いが確かなものとなる」のではないのです。あるいは逆に「これでも自分はクリスチャンなのだろうか」と思ってもその感情ではないのです。とするならば安心して御言葉に聞くだけの者ではなく、むしろ悟り実行する者になりたいものです。実際にこのように戦ったもう1人の信仰者は語ります。
「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119編71節)
迫害や困難は決して喜ばしいものではありません。しかしその『苦しみにあったことは私にとってしあわせで』あるというのです。それにより『あなたのおきて』=御言葉を学んだのです。御言葉の確かさを味わったのです。そのようにして私たちが1つ、1つ御言葉を自分の物としていくことにより確かなものとなっていくのではないでしょうか?今あなたがどんな苦しみにあっているのか神様はご存知です。その試練を通してあなたに語る御言葉があることをぜひ覚えて下さい。それは神様の願いとして、あなたが御言葉に生きる歩みをすることにより、本当に豊かな実を結ぶ人となることを切実に願っているからです。懲らしめて喜んでいるのではないということです。それを通して私たちに御言葉の確かさ、真実さを教えようとしていることをぜひこの朝覚えたいと思います。