2003年3月2日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書エペソ5章22節〜6章9節より
牧師 吉田耕三
今日の箇所は結婚式の時によく聞く御言葉ではないかと思います。これは当時の人々が考えていた考え方や秩序とは全く違う、夫婦の心構えや歩む姿を教えられているのです。神様が私たちのために、お造りになった秩序をご一緒に学ばせていただきたいと思います。 今まで「教会」について学んできましたが、教会とはこの世とは違う秩序を持っている所であり、教会とは世がどんどんと闇の中を歩む中にあっても、光をさんさんと輝かせる所であり、こういう基準にあって歩むのですと語られている箇所なのです。 神の基準とこの世の基準の違い
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」(22〜24節)
「なぜ“女性差別”が聖書には横行するのだろうか」と思われる方もいるかもしれません。これは当時の状況が分かれば理解できると思います。当時の女性は酷い扱いを受けていました。この時代は、自分の快楽のために情婦を持ち、一緒に住むために同棲する妾を持ち、家庭を管理し守るために妻を持つ、これがごく当然のことであったようです。また結婚関係自体が乱れており、「ある女性は5年間に8度の結婚をしているし、またある妻は自分は夫の23番目の妻であり、その夫は自分にとって21番目の夫である」という混乱した状況があったようであります。現代はこの時代に近いものがあるかもしれません。ですから神様は、「クリスチャンであるあなた方はこの基準で歩みなさい」と教えているのです。
まず、『妻たちよ。』とありますが、創世記3章ではこのように記されています。
「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あんたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」(創世記3章16節)
この『恋い慕う』と言う言葉はくせ者です。4章ではこうも書いてあります。
「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。」(創世記4章7節)
この箇所の『恋い慕う』と全く同じ言葉が使われているのです。ここでの意味は「誘惑する」という意味です。夫婦喧嘩の原因は「どちらが家庭の主権を握るか」男性は力で勝ち取ろうとし、女性は巧妙な手口、例えば涙とかで支配しようとするのです。しかし神様は地上における夫婦関係は、「夫がかしらであり妻がそれに従う」秩序を定めたわけです。しかしこれだけ聞くと「やはり女性が不利だ」と思うかもしれません。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(25節)
キリストは教会を愛し、教会のために十字架に掛かり命を捨てたのです。妻に対しては『夫に従いなさい。』と定めましたが、一方夫に対して「キリストがしたようにしなさい。」つまり「妻のために死になさい。」と命じているのです。「夫は命がけで妻を愛し、妻はその夫に従いなさい」これが神様の秩序です。どちらが上か下かではなく両方が仕え合いなさいということです。さらに続きます。
「キリストがそうされたのは、御言葉により、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。」(26〜30節)
イエス様が十字架に掛かり私たちの全ての罪を負って下さったので、私たちは神様の前に出た時に何のしみもなく一点の非もない者として立つことができるわけです。自分の行ないではなく、イエス様がなして下さった御業のゆえです。夫の役割として妻を愛し「一点のしみもない者に養い育てあげなさい」というのです。これは大変なことですが、この夫婦関係をもって家庭を築きあげなさいというのが聖書の教えです。キリストと教会の関係が夫婦の関係であれば、理想的な家庭も、教会の中にも創設されていくでしょう。世がどんなに乱れようともどんなに違うことを言おうとも私たちはこの基準を目指すべきです。「相手がそうしたらね」ではなく、まず自分から始めなさいということです。第1ペテロ3章1節には同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。とあります。
ここも妻に対しての言葉ですが、夫がクリスチャンであり妻がそうでないならば神を信じている夫がまずそのようにしなさいということでもあります。そのように無言の振舞いで家庭が神様により勝ち取られていくべきですというのです。私たちにはこのような基準が神様により定められているのです。
基準に従えない時に主を見上げる
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。」(6章1〜3節)
神様がモーセを通してイスラエルに与えられた十の戒めがあります。神様に対する戒めが始めに出てきます。人間に対する事柄として最初に出て来るのが、『あなたの父と母を敬え。』です。『殺してはならない。』という戒めの前に『父と母を敬え。』と言われているのです。人間として一番守らなければならないのは「殺してはならない」ではないかと思ってしまいますが、神様はまず父と母を敬えと言われるのです。「たとえどんな親であったとしてもあなたが今この地上に生み出された父と母を敬え。」この絶対的な基準を私たちに語るのです。これが神様によって生み出された新しい基準です。そして同時に
「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(4節)
これは怖気づかせて従わせるのではありません。「自分の気持ちを親は全部汲み取ってくれている」と感じるように愛をもって育てなさいという意味です。私たちは感情的になり怒ってしまうことがあります。そうではあってはいけないのです。これは大変難しい基準です。
「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて、真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれの報いを受けることをあなたがたは知っています。」(5〜8節)
奴隷である人たちは、「表面的にではなくキリストに従う様に、悪い主人に対しても良い主人に喜んで従うように仕えていきなさい。」というのです。これも難しいと思いませんか?素晴らしい主人(経営者)であるならば、喜んで犠牲を払っていこうと思うかもしれません。しかし普段から自分をいじめ、ないがしろにする人に従っていこうとは思わないですね。でもその人に対しても主に従うように従いなさいというのです。
「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対しては同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですからです。」(9節)
当時奴隷は「言葉を話す道具」と見なされていました。機械が壊れたなら捨てます。奴隷が年を取ったなら捨てることが当然のようにまかり通っていたのです。ローマには当時6千万の奴隷がいたと言われています。彼らは使い捨てのように扱われていました。しかしあなたがたはそうではなく彼らが心を込めて主人に仕えるように、あなた方は奴隷に仕えなさいというのです。今の私たちならば人間なのだから「当然」と思うのですが、当時の人たちにすれば「受け入れなれない。聞き入れられない」と思うほどのことです。ですから夫婦、親子、主人と奴隷のこれらの基準は革命的な内容なのです。現在の私たちには結婚式に読まれる箇所ですが、彼らにとっては「どうしてこんなことをしなければならないのか」と思える内容であったのです。でもこの基準こそが神様が「新しくされた者たちへの基準」として与えたものです。そして教会はこの世の基準に甘んじてしまうのではなく、それよりも「高い基準」、人々が麗しいと思える基準に歩むようにしなさいというのです。
そして私たちがこの基準に歩むことができない時に「神様、この私を赦して下さい。聖めて下さい」と祈る必要が出てくるのです。
前回私たちは「御霊に満たされなさい」と学びました。1つ1つの基準を「これならできる」「これならやっている」と思っている方もいるかもしれません。しかし「できている」と思っていることが「錯覚」である場合もあるのです。ある所までは我慢、自分は大丈夫だと思っていても、限度を越えれば「もう嫌だ。もうできない」となるのではないでしょうか。私たちは神の御霊に満たされることなくして、これらの基準に歩むこ事は不可能なのです。でも私たちが神の御霊に満たされなら、変えられていく事ができるのです。昨日は「リカバリー・ミニストリー」の研修に行かせていただきました。講師の方はアルコール中毒のご両親から暴力と性的虐待を受け、自分自身もアルコール中毒、薬物中毒、摂食障害も抱え全く生活ができない状態であった方です。しかしその人が「神様は私にこのようにして下さったのです。神様を褒め称えます。」と証して下さっているのです。私たちの内にも、そのような命が与えられていることを忘れてはなりません。私たちにはものすごい力が与えられているのです。そのキーポイントは「キリスト」です。イエス・キリストによる救い、神の御言葉による回復なのです。私たちはこれらの力ある御言葉を受けとる時に変わっていきます。
第1に必要なことは、「自分がずれている」との自己認識から始まるのです。「仕方がなかった」とか「あの人のせい。この人せい」と言っている時は回復しないのです。「自分はずれている。回復されなければならない」と認識することが出発点だということです。
第2には、「それは自分にはできない」ことを知ることです。アルコール中毒であれ、薬物中毒であれ、心の傷であれ「自分は回復されなければならないが、その力は自分には全くないことを認める」ことです。
第3には、「私たちを超えた大いなる力がある。その力により私たちは変っていくことができる」『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。第2コリント5章17節』、キリストにより新しくされていくことができることを受けとめ信じることが大切なのです。
4番目にはそのキリストに一切を委ねていく、その時にその方々の人生にも神の業が起き始めるのです。もちろん簡単ではありません。しかし多くの問題を抱えていたその方が、今こうして日本に来て講師としてお話しをして下さっているのです。このキリストの内にそのような力、命があることを認識していくことが必要なのです。その時に私たちもこの命に生きていくことができるようになるのです。
ただし、注意して欲しいことがあります。それは『妻たちよ。』という箇所は妻が読むべきで、夫ではありません。反対に『夫たちよ。』という箇所は夫が読むべきで、妻ではありません。これを逆転して読むと大変なことになります。相手を非難する箇所として用いてしまいます。親が子供に『父と母を敬え』と言ってはなりません。これでは御言葉を全く逆に使うことになります。私たちが御霊によって歩むなら、これらができるようにされています。もしできないならば「主よ。私にはできません。御霊によってできるようにさせて下さい」と求めていくことが大切です。そうする時に私たちは人から「私もあのようになりたいな。やはりあれが正しいのだ」と思ってもらえる者になっていくのです。『あなたがたの光を輝かせなさい。マタイ5章16節』。どんなに違う教えがあろうとも、何を言われようとも私たちはこの基準をしっかりと持ちここに向って歩んでいくことが大切です。そして自分にはできないことを認め、それをさせていただける方を見上げ、とも共に歩み、主に栄光を帰す者にならせていただきましょう。