2003年3月9日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書コロサイ1章9〜12節より
メッセンジャー高橋勝義執事
ソロモン王は、父ダビデ王の後を継いで、王になりましたが、心の中は、どうすればイスラエルの民を抑えられるのか、思い悩み、苦しんでいました。そこで神様は、ソロモン王を気遣い、直接声を掛けられました。
神の知恵と知識を求める
「その夜、神がソロモンに現われて、彼に仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」ソロモンは神に言った。「あなたは私の父ダビデに大いなる恵みを施されましたが、今度は父に代わって私を王とされました。そこで今、神、主よ、私の父ダビデになさったあなたの約束を堅く守ってください。あなたは、地のちりのようにおびただしい民の上に、私を王とされたからです。今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出はいりいたします。さもなければ、だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」(第2歴代史1章7〜10節)
ソロモン王は、自分の心の内を正直に神様に打ち明けているのです。このおびただしい民を、どうしたら収めることのできるのか、知恵と知識を求められたのであります。これは、この世の知恵と知識というよりは、神の御心が行われる、そのような知恵と知識です。そしてこの求めに応じて、
「神はソロモンに仰せられた。「そのようなことがあなたの心にあり、あなたが富をも、財宝をも、誉れをも、あなたを憎む者たちのいのちをも求めず、さらに長寿をも求めず、むしろ、私があなたを立てて私の民の王としたその民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、私はあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」こうして、ソロモンはギブオンにある高き所から出て行き、会見の天幕の前を去ってエルサレムに行き、イスラエルの王となった。」(第2歴代史1章11〜13節)
とあります。ソロモン王は、今にも押しつぶされそうな重圧に苦しみながら、王としての立場から逃げませんでした。むしろ、王様としての使命を果たせるように、正しくさばくことのできる、知恵と知識を求めたのであります。神様は、ソロモン王の願いを聞きました。それどころか、彼が全く願わなかった、富と、財宝と誉れを与えると約束されたのです。しかもそれは、『あなたの前の、また後の王たちにもないほど』に、すなわち、もうこれ以上ないものを与えると、約束されたわけであります。ソロモン王は、自分の願いが神によって聞き届けられたことを確認したとき、自信を持って、王としての歩みをはじめたのです。
今日の箇所に戻りますが、パウロは、エパフラスから、コロサイの教会に、誤ったユダヤ教的な教えや、禁欲主義、あるいはギリシアの至便的哲学が入り込んできたために、教会を混乱させていることを聞きました。パウロは、すぐこの問題の解決に入る前に、ソロモン王が神に知恵と知識を求めたように、コロサイの兄弟姉妹たちが、正しく理解できる『知恵と知識』が与えられるようにと、神様にまず祈り求めたのです。この祈りは、私たちがさまざまな試練や困難に直面したときに、神様に、何を祈り求めたらよいのかを示している、良い示唆を与えております。
「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」(9〜10節)
と、最初に祈りました。聖書は、救われる前は、この世の肉的なことに支配されている、救われて後は、神の御霊のご支配にあると、ハッキリ語っております。パウロは、この違いをまず、コロサイの兄弟姉妹に気づかせようとしたのです。ですから、『あらゆる霊的な』と、最初にいっています。そうでないと、今、教会に起こっている問題を、この世の方法で解決しようとするからです。この世の方法は、神様を求めません。求められないのです。なぜならば、それは、常に自己中心であり、自分の考えが正しい、とするからです。当然、神様の御心よりも、自分の思いを優先させてしまうからであります。
救われる前の人間
では聖書は、救われる前の人間について、何といっているのでしょうか。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2章1〜3節)
ここに『肉と心の望むままを行ない』とあります。自己中心であり、わがままな歩みをしていたと、ハッキリと言っているわけであります。しかもそれは、この世の支配者、いわゆるサタンの支配の中にあったと言うわけであります。そしてその結果、私たちの心はいったいどうなったのでしょうか。つまり、救われる前の、私たち心の状態はどうなのかということを、聖書はまた、別の角度からいっています。
「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3章14〜17節)
と書かれています。私たちは常に、自分と自分の家族について、人の学歴や、あるいはその人の家族構成、また、容貌とか仕事、また、ご主人の役職など、いろいろ比較していることはないでしょうか。人それぞれ、人には言えないさまざまな戦いがあるにもかかわらず、その人の置かれている状況を、少しも理解しないのです。
あるいはまた、自分にあの人にこうした、ある人はこんな風にした、そして自分はこんな風に傷ついた、悲しんだ、そういうことばかりを心に留めやすくなり、そこから恨み心が出てくることもあります。しかし、考えてみるならば、実は自分も同じことをしているのです。ですが不思議に、自分がしていることは見えないのです。そのうち、悪意が芽生えてきます。
これが救われる前の私たちの姿なのです。ですから、苦い妬みと敵対心、その中に支配されているときは、そこには赦しがないのです。
しかし、イエス様はどうでしょう。十字架の上で、自分を十字架に掛けた人々に向かって、何と言ったでしょうか。イエス様は、十字架の上で『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23章34節)』と言われました。イエス様は、自分を十字架に付けた人々を赦しています。彼らは何をしているのか分からない、そんな状態にあるからこそ、イエス様は、それを受け止め、赦されたのです。まさに、苦い妬みと敵対心に満ちている心の状態というのは、実は、何をしているのか分からない状態にあるということです。
健全な信仰生活を目指して
今度は、生活面はどうでしょう。生活面も聖書は語っています。
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(第1ヨハネ2章16〜17節)
とあります。私は質屋を利用したことがありませんが、昔の人は、他人に知られないように、隠れながら入っていったと聞いております。しかし今はどうでしょう。堂々と質屋にはいるのです。そこに若い人々が入っていきます。今は生活のためではなくて、衝動買いしてしまったブランド品を売りに行く、そういうことが報道されていました。そしてたくさんのブランド品を持ち込んで、売るのです。売った後、またそのお金でブランド品を買うようです。まさに、肉の欲、目の欲に支配されているということができないでしょうか。そのような生活の中に、私たちはどっぷり浸かっているわけであります。『肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など』に奔走している、すなわち救われる前の状態というのは、そのようだと、ここではハッキリと言っているのであります。苦い妬みと敵対心、『肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など』は、この世に属するものであり、肉的なことだ、ということであります。
これに対して、救われた者に宿る霊とは、どのようなものでしょうか。それは、先ほどのヤコブ3章17節にありますように、『しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。』ということです。しかし、救われた者は、このような知恵が与えられていることを知らないこともあります。知らなければ求めることができません。だからパウロは、あらゆる霊的な知恵と理解力が、神様から与えられるようにと、祈ったのであります。問題を解決するときには、確かに教理的な問題もあるかもしれませんが、しかし人間的な問題もそこに潜んでいることがあるのです。ですから、まず神様から与えられるものは何なのかを、パウロは祈り求めたのであります。イエス様ご自身も、ヨハネ6章38節で『わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。』と語っています。イエス様は、自分の心を行うためではなく、私を遣わした方の御心を行うために来たのだ、と、言っています。
神様の御心を知るようになれば、信仰生活は変わっていくのです。なぜならば、信仰者として目指すべき歩みがハッキリするからです。そこで、パウロはその目指すべき道とは何なのかを、具体的に示すために、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますようにと祈ったのです。知識は、必ず生活の中で生かされてこそ意味がありますね。信仰も同じではないでしょうか。生活の中で生かされてこそ、信仰者になりうるわけであります。
主にかなった歩み
あなたの歩みは、救われる前と後で変わったでしょうか?神様の御心を求める歩みになっているでしょうか?自分の心が求めるままの歩みになっていないでしょうか?では、どのようにして生活の中に、信仰を生かすのでしょうか。そこでパウロは、信仰の姿勢について語ります。
「また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」(11〜12節)
と、パウロは祈りました。ここには、信仰の姿勢について具体的に語られています。最初に大切なのは、『神の栄光ある権能に従』う、ということです。つまり、神の主権とご支配がすべての領域に及んでいることを認めて従う、ということなのです。神様はどこにでもおられる、そのことを本当にもう一度、その通りに受け取るということです。イエス様が、父なる神に対して、全き従順をもって従ったように、私たちもイエス様を見習って歩むことです。それが、主にかなった歩みになる、ということでもあるのです。
次に、神の力によって強くされ、さまざまな試練や困難に直面しても、慌てることなく、です。ここにもハッキリと『忍耐と寛容を尽くし』と書いてありますが、どのように忍耐や寛容を尽くすのか、それは、困難や試練にあったときに「慌てることがなく」忍耐しつつ、そしてまた、自分を中傷し、あざける人に対して、言葉はもちろん、行動においても報復せず、寛容をもって受け取ることです。
ここで重要なのは、自分には、忍耐と寛容がないことを自覚し、認めることです。そうでないと、私たちはどこまでも、自分の力で頑張ろうとします。もしも、自分の力ですべてができるならば、信仰など必要ありません。神様を求めないのではないでしょうか。神の力、すなわち信仰の力によって、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結ぶ歩みへと、私たちを導いてくれるのです。
そして、パウロは、このことを感謝するようにと言ったわけであります。『光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。』とパウロは祈りました。恵みをいただく資格が無いにもかかわらず、自分たちがそのような恵みをいただいていることもパウロは忘れずに祈りました。喜びをもって、本当に心から神様に感謝を捧げましょう、というわけであります。
ソロモンは、自分の力では、どうすることもできないことが分かっていたので、神様に、知恵と知識を求めました。またパウロは、問題の解決に入る前に、コロサイの兄弟姉妹たちが、本物を見上げることができる、知恵と理解力が与えられるように祈りました。もしもあなたが、試練や困難の中にあったとするならば、ぜひ、パウロの祈りを覚えてください。この箇所をぜひ覚えてください。『あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされ(コロサイ1章9節)』るように、お祈り下さい。また、信仰者としての歩みが分からなければ、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに主を結び、神を知る知識を増し加えられますようにと、お祈りしましょう。もしも、苦い妬みと敵対心が自分の心にあるならば、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされ、忍耐と寛容を尽くせるようにと、ぜひお祈り下さい。私たちは、神様の愛と恵みによって、素晴らしい救いをいただいているわけですから、ぜひ、感謝も忘れないようにしたいです。