2003年3月16日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書エペソ6章10節〜24節より
牧師 吉田耕三
「教会」についてエペソ書から学んできましたが最後の箇所にきました。
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1章23節)
神様はこのように大いなる祝福と勝利をお与え下さいました。しかしながら現在の教会は正直この勝利を体験しているかと言いますと「そうではない」ことを認めざるをえないと思います。「そんなに素晴らしいものであるならば、もっとすごいことが起きても良いのではないか?」と思います。勝利の体験をできていない理由は、すなわち、私たちが「本当の戦い」を、戦うべき相手と戦わずに、戦う必要のない相手と戦っている事に1つの理由があると思います。私たちは戦うべき相手と戦っていくことが大切です。そういうわけで本日は「本当の敵」を知り、戦いに打ち勝っていく術をご一緒に学ばせていただきたいと思います。
敵を認識する
「終りに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神の全ての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(10〜13節)
私たちは知らずに悪霊の策略に乗ってしまっていることがあります。その結果、私たちが頂くべき勝利を頂けず、敗北して落ち込んでいる事が多いのです。私たちには経済的戦い、人間関係の戦い、実際の問題への対処等、いろいろな戦いがあると思います。しかし本当の戦いは悪魔との戦いであるということを認識する必要があると思います。『天にいるもろもろの悪霊』と聖書には書かれていますが、私たちの本当の敵はこの世のものではないのです。私たちが「霊的戦い」と認識するならば、そのための備えをする必要があることに気付かれると思います。そしてその時、『主にあって、その大能の力によって強められなさい。』、これがまず第1のメッセージだということに気づかされるのです。
私たちは体力、健康も大切です。しかし神様の力により強められることなしには、悪魔との戦いに勝っていくことはできません。どんなに筋肉をつけ健康を守っても負けてしまうのです。私たちは魂の鍛錬と筋力を養っていただくことが必要なのです。それは具体的には『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。』ということなのです。「悪魔の策略」にはさまざまなものがあります。皆さんの周りにこの人は自分の敵だと思う人はいませんか?でも本当の「敵」はその人ではなく、その人を後ろで操る「悪魔」であることに思いを馳せていただきたいと思うのです。あなたに敵意を生じさせ、神の御心である愛を取り去り、敵対させるように仕向けているのが誰かということなのです。
あなたは誰かを見た瞬間に、その人が「自分を陥れようとしているのではないか」と実際は違うのに誘惑され、自分から敵対心を持ってしまった経験はなかったでしょうか?
また何か良い事をしようとします。すると「明日から」とか「1回だけだから」とかいう誘惑を経験してはいませんか?そしてその時にはいかにもそれが麗しく見えるのです。そんな時には創世記3章6節を読んで識別してみて下さい。『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。』
私たちの周りにはあらゆる誘惑と策略がいつもあるのです。悪魔にとって私たちを騙すのは簡単なことなのです。もし私たちが神様の光、知恵をいただかなかったなら、これらに立ち向かうのは不可能と言えるでしょう。ではその神の武具と何でしょうか?それこそ私たちが「敵は誰か」ということを知ることなのです。私たちは「敵はあの人。この人。あの問題。この問題」と人や物に責任を置くわけですが、本当の敵はそれを支配する者だという事を弁えましょう。
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(ガラテヤ6章1節)
その際に、私たちも全く同じ弱さを持っていることを忘れないようにしましょう。たまたまその方は誘惑を受ける場にいたからそのことをしてしまっているのかもしれません。その人が皆さんに大変な攻撃を仕掛けてきたとしても、悪魔の誘惑に負けてしまったのだから「この人も被害者なのだ」という見方ができるならば、既に「本当の敵」を見抜いているわけです。現実に私たちの中に妬みや敵対心が現れる時に、物事を悪く受け取り攻撃をしかけていく様になります。そして自分でコントロールできないような怒りが込み上げてくるのです。
「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみや敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」(ヤコブ3章14節〜15節)
妬みや敵対心が入ってくる時、私たち自身が悪魔の手下になってしまっているのです。ですからいかにしてその人を苦しめ困らせるかというような悪い策略が心に浮かび上ることがあるわけです。ではどうしたら良いのでしょうか?
「悪霊の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」(11節)
神様の力、御霊の力により自分が覆われ、御霊の支配の中に置かれるということです。御霊の支配の中でこそ私たちはこの力をいただくことができるのです。具体的には、私たちが自分の罪を認め、告白し罪を赦していただく時に神様が御霊を満たして下さるのです。このことを信じる時に今までの考え方とガラッと変る経験をすると思います。神様の御霊は私たちに新しい考え方や行動を取らせて下さいます。もう少し細かく見ていきましょう。
戦いの備え
「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受けなさい。」(14〜17節)
私たちは戦いの中に置かれているのです。ですから備えをすることが大切です。まずはしっかりと立つ、戦いの中に自分が置かれている事を自覚することです。
次に『腰には真理の帯を締め』ることです。真理の中に自分が歩んでいるという確信は強い力を与えます。罪があれば告白すればいいのですが、私たちはそれを誤魔化してしまいやすいのです。自分の正直な姿を認めて神様の光の中を歩むということが大切です。
そして『胸には正義の胸当てを着け』です。「神の義」があなたを覆っていますか?イエス様は私たちをしみもしわも傷もない全き花嫁として立たせて下さるのです。イエス様は完全な方です。そして私たちはその「花嫁」なのです。十字架により私たちの罪を全部赦し、私たちの上に義の衣を着せて下さっているのです。自分の罪と汚れが出たら「主よ。赦して下さい。十字架により聖めて下さっている事を感謝します」と祈ることが大事です。私たちはその時に『正義の胸当て』を着ける事ができます。
次に『平和の福音をはきなさい』です。神様との平和を結ぶ、そして平和の福音を人々にもたらす者。『平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5章9節)』とありますが、皆さんは今神様の前に出られますか?神様の前に出て、全き平和と平安の関係の中に生きておられるでしょうか?そのようにして私たち自身が絶えず神様の前に整えられることが大事なのです。
そしてそれらの上に『信仰の大盾を取りなさい。』です。これは『神は愛であり、善を行って下さる』という信仰です。悪魔がアダムとエバを誘惑した時にどのように誘惑をしたか覚えていますか?第1に神様の言葉を信じられなくしました。第2に「神様はあなたの味方ではない」と思わせたのです。そして「そうか。かえって神に従うよりも自分自身の道を歩むことの方がはるかに素晴らしい。自分の欲望に従う方が良い事なのだ」と感じさせられ、誘惑されてしまったのです。私たちはしっかりと『神は愛であり善であると』と認めることが大切なのです。文語訳ですが「神は善にして善をなしたもうなり」との御言葉もあります。私たちの神様は本当に善なるお方であり、善をなして下さる、「これは私の目には今は辛いことであると思えるけれども、神様はよいことをして下さっている」と信じるということです。
「私たちにすべてのために、ご自身の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8章32節)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)
神様は善であり愛であることをしっかりと受けとっていきましょう。そして私たちに『すべてのことを働かせて益としてくださる』ことを信じましょう。そして絶望の中からも私たちを引き上げ、そこに神の祝福を置くことができるお方である事を信じていきましょう。その時に悪い者が放つ火矢「神は愛ではない。いつまでもこの苦しみは続くのだ。何も期待するな」というような神様に対する不信仰な思いを、私たちは打ち壊していく信仰に立っていきたいと思います。
そういうわけで「悪魔との戦い」の勝利の作戦第1は「信仰による勝利」です。別の言い方をしますと御言葉の約束に立つということです。何があっても御言葉を思い出して下さい。「神様はこう語っている」その信仰に立って下さい。それにより私たちは悪者の放つ火矢を打ち壊すことができるのです。しかし悪魔はときどき御言葉も使います。「神様は厳しい」と思わせるような御言葉を使ってくることもあります。それに揺るがせられてはなりません。神様は守って下さいます。また悪魔はあなた以上にあなたの弱さを知っています。ある人には金銭的な事、ある人には人間関係、ある人は欲望かもしれません。さまざまなその隙を狙ってきます。私たちはそれに対して『救いのかぶと』をずれないように深くかぶることが必要です。「私は救われて神の子供とされている。神様に期待されている人物なのだ。神様の前に高価で尊いのだ」としっかりとかぶっていきたいと思います。そして、『御霊の与える剣である神のことばを受け取り』ましょう。あなたは聖書の言葉にどれくらい親しんでいますか。御言葉が皆さんの生活を導き力づけていますか。そうなるように御言葉を学び受け取って下さい。人それぞれ学び方も違うと思います。自分にあった方法を見つけて下さい。御言葉が生活に根付くような学び方をお勧めします。その御言葉をしっかりと握り体験していく時に、「私もこの御言葉で、このように変りました。」と自分の体験を人に話すことができ、他の人を励ましたり力つけたりすることができるのです。ぜひ御言葉を握ってください。
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには、絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(18節)
最後は「祈り」です。祈りこそ私たちに力を与えるものです。祈りの祭壇はきちんと立っていますか?祈りの祭壇は徐々に崩れていくのです。聖書がないがしろになっていないですか?気が付くと神様に祈る力も残っていない、神様に戻ろうにもどうやって戻っていいのか分からない、「こんな私は神様から見捨てられたのではないか」、聖書の言葉よりも誘惑の言葉の方が心の中に入ってきてしまうことがあります。私たちはいつも祈りの祭壇を建て直し、主の前にしっかりと出る習慣を身につけさせていただきましょう。そして自分だけのためでなく、他の人のためにも祈る者でありましょう。私たちはしっかりと神の武具を着け、神様の力をいただき、御霊に満たされましょう。
具体的にはどうすればいいのでしょうか?信仰の大盾を取り、御言葉を握り締めて祈りましょう。もし祈れない時には、「祈りを導いて下さい。祈らせて下さい。」と祈って下さい。祈りは御霊によるのです。どうぞそのようにして自分のためにも他の人のためにも祈っていきましょう。そしてこの戦いに打ち勝って神様の勝利を体験していくお互いにならせていただきましょう。