2003年4月6日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書詩篇32篇1節〜11節より
牧師 吉田耕三
本日は素晴らしいゲスト本田路津子さんをお迎えして、午後にコンサートを持つことができることを本当に嬉しく思います。神様がこの1年間を豊かに祝福して下さっているとそんな風に思います。昨年は「恵みによる信仰」を年間目標に致しました。私たちが神様の恵みを十分に知り、御霊によって生かされていくことの大切さを学びました。今年の目標は「御霊による歩み」としました。毎月小目標を掲げております。4月は「悔い改めと信仰を明確に」です。自分の信仰または悔い改めが明確になることが御霊により歩めるかどうかの大切なキーポイントであると思います。今日は詩篇32篇から学ばせていただきます。この32篇はダビデが愚かしい罪を犯した時のことです。偉大な信仰者、素晴らしい勇士であった彼が「なぜこんな事を?」と思います。しかしこれは私たちに対する大きな警告であると思います。
罪を告白する
信仰に歩んだあのダビデが姦淫の罪を犯してしまった、それだけではなく、殺人の罪も犯しました、簡単に説明をします。ダビデはそれまで勇ましく群れの先頭に立ち犠牲を払い謙遜な歩みをしていた彼はでしたが、年齢や地位と共に少しづつ変わっていったのです。
「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女がからだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。」(第2サムエル11章2節)
それまでは誰よりも早く起き祈り、戦闘の備えをしていた彼が王となり安定すると、だらけた生活になってしまったようです。『ひとりの女が、からだを洗っている』のを見てダビデは欲情を燃やし、彼女を招き入れ姦淫の罪を犯したのです。彼女は忠実なしもべウリヤの妻バテ・シェバでした。彼女はダビデの子を宿します。それ誤魔化すために戦場のウリヤを呼び戻し家に帰るように命じます。ウリヤは忠実なしもべでしたので、『神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営をしています。それなのに、私だけが帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。(第2サムエル11章11節)』と答えます。誤魔化しもできないと知ったダビデは、ウリヤを戦場の最前線に送り、彼を戦死させます。そしてウリヤが死ぬとバテ・シェバを妾として迎え入れます。しばらくは姦淫の罪も、ばれずに過ごせました。
しかしその罪が表沙汰になる時が来ます。神様が預言者ナタンをダビデの元に遣わし例え話を語ります。「1人の裕福な者が多くの羊と牛を持っていた。それに対し1人の貧しい者は1頭の小さな子羊の他は何も持っていなかった。ある日裕福な者の所に1人の客が訪れます。彼は自分の羊と牛を惜しみ、貧しい人の子羊を取り上げそれを客に出したのです。その例え話を聞いたダビデは『主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男はあわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。(第2サムエル12章5節)』と激怒するとナタンは『あなたがその男です。(7節)』と答えたのです。その時にダビデは『私は主に対して罪を犯しました。(13節)』と告白し、『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。(13節)』とナタンがダビデに言いました。その後に書いたのが詩篇の32篇と51篇と言われています。
「幸いなことよ。そのそむきの罪を赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(1〜2節)
大罪を犯し「それでもお前は神のしもべか?」と言われるようなダビデが自分のことを『幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれたひとは。』と歌う事ができたのはなぜでしょうか? それは神の赦しの完全さを現していると思います。私たちも神の全き赦しをいただき歩む必要があります。『幸いなことよ。』、これは「祝福されている」という言葉です。私たちはともにこの恵みと祝福に与っていきたいと思うのです。しかし彼は一直線にそうなったのかと言いますと違います。
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(3〜4節)
絶望の底に落ちている姿、生きる生気のない姿が現わされていると思います。私たちも裏切られ行き詰まり絶望してどうやって生きていけば良いのか分からない、「こんな私は生きる価値もないのではないか」と思える時もあるかもしれません。ダビデもそうでした。実は彼は1年間も隠していたのです。しかし神様は全部ご存知でした。でもダビデは言わなければ「誤魔化せている。大丈夫」という間違った感覚を持っていたのかもしれません。でも預言者ナタンを通して罪の告白を導かれました。
「私は自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(5節)
神様はあなたの咎めを赦して下さるのです。それをいい加減にしてはなりません。神様との透き通った関係に生かしていただきましょう。その時に私たちは、
「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼のところには届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」(6〜7節)
正直に罪を告白する時に赦されない罪はありません。私たちは「赦されないのではないか」と思う時があるかもしれない。でも聖書は『あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。』と言っています。
あなたは『救いの歓声』に取り囲まれ、あなたの内に喜びが満ちていますか?もしそうでないならば、ダビデに習って行きたいと思いたいと思います。そして私たちもこの罪の赦しをしっかりと受けとり『救いの歓声』に取り囲まれるクリスチャン生活になっていきたいと思います。
「わたしはあなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。」(8〜9節)
『悟りのない馬や騾馬』は言う事を聞きません。神様は「わたしについて来なさい。共に歩みましょう。」と言います。でも私たちはすぐに「嫌だ。こちらに行きたい」と言うのです。一緒に行けば楽なのに「嫌だ」と座りこみますから、神様が引っ張って連れていかざるを得ないのです。こういう生活をしていませんか?罪を放っておくとこうなってしまうのです。御霊に満たされていくならば喜んで主に従う、主と共に歩む事ができるのです。私たちはその意味でこの言葉にしっかりと聞く必要があると思います。
「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべての心のすぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」(10〜11節)
『悪者』とは神を信じず、神を否定する者という意味です。その人は心が痛み、憂いがあるのです。表面的には幸せそうに見えても、寂しく虚しく孤独で恐怖に満ちた人生となってしまいます。ある時は良くてもあっという間にそこから滑り落ちるわけです。『しかし、主に信頼する者には、恵みがその人を取り囲む。』、この人はどんな中にあっても、どんな状況にあっても守られる。6節に『大水の濁流も、彼のところには届きません。』、決して問題がないわけではないのです。クリスチャンになれば問題が消えるとか困難が無くなるとは言っていません。困難はあるのですがそのことをコントロールすることができるのです。「主はこの事をも益とする事ができる。主はこのことを勝利に導くことができる。マイナスをプラスに変える事ができる。『神はすべてのことを働かせて益としてくださる』」と信じる事ができますから、問題が、さほど大きくは見えないのです。神様と共に歩む時に、問題に右往左往せずコントロールできるのです。そこから学んだり、訓練をいただいたりできる者となっていくのです。ぜひともその恵みに導かれていきたいと思います。
『正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべてのすぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。』あなたは今喜びの声を上げていますか?救いの歓声の取り囲まれていますか?これがクリスチャン生活の標準です。そうでなければずれているのです。「ずれ」とは罪のことです。ずれていると喜びがなくなってしまうのです。私たちは「ずれ」を正し、喜びを私たちに返していただく生き方に歩んでいきたいと思います。それではそうなるために何をしたら良いのでしょうか?その秘訣は5節にあります。
赦しを受け取る
「私は自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(5節)
キーポイントは「私の罪」です。多くの場合は「私の罪」ではなく「あの人の罪や問題」と言ってしまうのです。ダビデも『「そんなことした男は死刑だ。」』と他の人のことであれば言えるのに、ナタンに『「あなたがその男です。」』と言われた時にドキッとするのです。アダムとエバが罪を犯した時にどういうことが起きたか覚えていますか?2人が善悪の木の実を食べた時に、
「すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは食べてはならないと、命じておいた木から食べたのか。人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3章11節〜13節)
この意味する所は「私は悪くありません。この女が問題なんだ。この女が出さなければ自分は食べなかった。」、さらに言うには「この女はあなた(神)がここに置いたのです」と神様にまで責任転嫁するのです。私たちは人のせいにするという根深い性質があることをしっかりと認識していく事が必要だと思います。
具体的に言いますと、Aさんがあなたの悪口を言った。あなたはAさんに言い返したとします。そういう時は「Aさんが悪い」と言います。Aさんが悪口を言わなければ自分も言い返すことはなかったのですから。確かに酷い事を言ったAさんには問題がありますが、でもその問題はAさんと神様の問題です。自分はそこに立ち入るべきではありません。私たちが神様の前に必要なことは「私がした事」です。怒ったのは誰ですか?酷い言葉を言ったのは誰ですか?それは「私です。私の問題なのです。」「それは私の罪です。」と祈ることが大事なのです。しかし自分の罪を告白しようとする時に、私たちの中に反抗心があることに気が付くと思います。私たちは肉によって歩んでいる時、神様に対する反抗心・反逆心は生き生きしているのです。神様の願う道よりも自分の願う道に行きたいのです。御霊によって歩ませて頂いている時にだけ私たちはそれらの思いから解放され「本当に主に喜ばれる者になりたい」と思えるのです。大事なのは「自分には罪がある」ことを認めることなのです。毒蛇は人を噛んだ時に毒蛇になるのではありません。毒蛇は元から毒蛇です。私たちは罪を犯したから罪人ではなく、私たちの中には罪の毒が流れているのです。私たちは神様によって新しくされない限り罪の毒の中にしか生きる術がないことをもっと認識する必要があると思います。そしてこの認識が深まれば深まるほど、恵み深く味わえるようになっていくのです。
ルカの福音書には家を建てた人の話が出てきます。例え話は『掘り下げた』と書かれています。同じ砂地なのですが、岩盤が出るまで掘り下げ、そこに土台を据えたその家は雨が来ても、風が来ても簡単には揺るぎません。私たちも自分の罪をあまり簡単に見ないことが大切です。例えば私がAさんを妬み嫉妬したとします。たまたまAさんが極端であったから私はそういう感情を持ってしまったのです。その罪の赦し主としてイエス様を信じるならば赦して下さり、清めて下さいます。でもあまり深くないです。でも何人も憎む人が出て来るならば「私は人を妬む者だな。憎む者だな。裁く者だな」と思ってくるでしょう。前よりは少し深まったかもしれません。でももっと知るべきは「私は状況が揃えばいつでもどこでも誰でも妬むのだ。嫉妬するのだ。私=妬む人私=嫉妬する人私=恨む人」と認識出来たなら幸いです。その身代わりとしてイエス様は死んで下さったのです。そしてそこに命を下さった。何と素晴らしい事でしょうか。その喜びは深い物となります。正しくダビデが『救いの歓声で取り囲まれます。』というように「こんな私を救って下さった。この喜びは本当に驚くものだ」と思うでしょう。
どんな罪でもイエス様は赦して下さいます。しかし私たちは自分の罪を軽く見ずに、その罪がどんなに深いものであるかを認識させていただくことが大事だと思います。それにより私たちはその深さが分かってくるのです。同時に『私は主に告白しよう』と書いてあります。私たちは人に対する罪は結構気が付くのです。「あの人を傷つけた。」とか「あの人に失礼な事をしてしまった」とか、それが神様を悲しませているという事に気が付かないものです。神様は私たちを尊く天使たちよりも素晴らしい者として造られました。人間は神よりいくらか劣る者として神の形を宿し、互いに愛し合う存在として造られたのに、私たちのしている事は人を恨み、妬み、嫉妬し、他の人を引きずり下ろしたり。これでは創造主である神を悲しませているのです。人に対する罪だけではなく、神に対する罪ということもしっかりと認識して告白させていただくことが必要でしょう。同時にダビデははっきりとは見ていなかったと思いますが『救いの歓声』をいただくために後の日のイエス・キリストの十字架もあったからです。
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにはありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章7〜9節)
『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』と書かれています。キリストは本当に血を流し、十字架に掛かってて死んで下さった、ということはあなたの罪を背負い死にきって下さったのです。もう裁きは処理されたのです。その証拠としてイエス・キリストは蘇られたのです。イエス・キリストの蘇りとは私たちの罪が赦されたことを証拠づけるものなのです。私たちが告白した罪は既に赦されていると信じる事もとても大切です。真面目に「神様どうか赦して下さい。」と祈るのですがそこで終ってしまうのです。こういう方は中々救いの確信が来ないのです。それは十字架によって赦されたことを受けとっていないからなのです。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1章4節)
この御言葉からすれば、キリストが十字架に掛かった時に、私たちもその中に置かれていたということになるのです、ということはキリストが蘇ったその内に私たちもあずかっているわけです。この真理を受け取る時に「ハレルヤ!主よ感謝します。こんな私でも赦されるのですか。こんな私でも良いのですか?」と言えるのです。私たちはこの主に立ち返っていくことが大切であります。
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ55章6節〜7節)
神様のこの赦しをしっかりと受け取り、「『救いの歓声で取り囲』まれています」とともに告白しながらこの1年間ともに歩んでいきたいと思います。