2003年4月13日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書コロサイ1章13節〜23節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義執事
日本書紀の冒頭に「昔まだ天と地が定まっておらず陰と陽がまだ分かれていなかった時、この世界は混沌として鶏の卵のように形も定まっていなかった」と記されています。この文章を見た時に、創世記の1章2節を思い出しました。
「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」(創世記1章2節)
しかし聖書はこれが冒頭ではなく、
「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1章1節)
このように始まっています。また人の創造を
「 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。」(創世記1章26節〜27節)
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2章7節)
聖書はこのようにしてこの世が神様によって造られたとはっきりと語ります。いにしえから今日に至るまで世界の成り立ちについてはいろいろと考えられて参りました。パウロはユダヤ人ですから当然聖書の語る天地万物を造られた神様を信じていました。けれども彼の生きていた時代は民族ごとに神々が存在し、人々はギリシヤ哲学の影響を強く受けていました。コロサイ教会はこの状況下に置かれていたわけです。よく考えるならばこの状況は現代も全く変らないように思うのです。日本には800万の神がありますし、今もなおギリシヤ哲学を学んでおります。宗教や哲学の分野はどんなに科学が進んでも昔のままのように思います。なぜならば人はどこから来てどこに行くのか、また何のために生きるのかという問いは過去、現在、恐らく未来においても変わりなく人類が探求し続けていくからです。この状況の中で当時このような考えがありました。「霊は善であり、物質は悪である」。この考えに従うならば、「善である神が悪である物質を造るわけはなく、創造の業は神よりも一段低い存在である造物社によって成された」と考えました。また人間は肉体の中に魂が閉じ込められていると考えたのです。だから直接神様と交わることができないとされたのです。そこで肉体から魂が解放されることを求めこれが当時の「救い」と考えられたのです。この救いは人間の鍛錬や修行により得られるのではなく肉体から魂を解放してくれる知識により救われる、その知識を与えてくれるのがイエス・キリストであると考えていたのです。
この間違った考えが教会に入りこんできたのです。ですからパウロはこの教えが福音の本質を歪め、信仰の土台を根底から覆してしまう事を感じたからこそコロサイの兄弟姉妹達にイエス・キリストが真の神であり、天地万物を造られた方であると語ったのです。
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれたかたです。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に、存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうしてご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」(15〜18節)
この世の考えではなく、キリストこそが真の神であり宇宙の創造者であること、今もなお主権と権威を持って保っておられること。何よりも、この方が教会の頭であるとコロサイの兄弟姉妹たちにはっきりと明言をしたのです。ヨハネもこのように証言しております。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1章1節〜3節)
創世記の冒頭にある『初めに、神は天と地を創造した。』その『神』ご自身はイエス様であるとヨハネも語るのです。そしてパウロは最も重要な事として、イエス・キリストは肉体から魂を解放するために来たのではなく、罪からの解放のために来たのだとこの世に来られた目的をはっきりと示したのです。
「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(13〜14節)
パウロはこの世の人々が考える救いと、イエス様によってもたらされる救いの違いを明確にしていたのです。イエス様は知識を与えるためではなく、暗闇の圧制から救い出し、御子の支配に移し罪の赦しを与えるために来たことを明確にしなければ、混乱が生じ、間違った教えをそのまま取ってしまうならば、キリストは歪められた「キリスト」になってしまうからです。また誰も神様を見た者はいませんでした。しかしパウロはキリストが見えない神の形を現わしていると語ったのです。イエス様と共に歩んだヨハネは福音書の中で
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1章18節)
イエス様ご自身もこのように語ります。
「イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14章9節)
ピリポは「神様を見せて下さい。そうすれば満足します。」と言うのです。誰でも「神様を見てみたい。会いたい」という思いになりますね。それに対してイエス様は「私が父を現わしているのだ。だから私を見た者は父を見たのです」と語るのです。
イエス様を知ることが、すなわち父なる神様を知ることですから、「神様の事を分からない」とは、逆に言えばイエス様をよく分かっていないということです。果してあなたはどれだけイエス様を知っているのでしょうか? イエス様を知ることこそが神様を知ることです。パウロはさらに詳しく述べております。
「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質をみこのうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕えるものとなったのです。」(19〜23節)
見えない神の形であるキリストは大勢の人が見ている目の前で十字架に掛かり死にました。この十字架は神様が私たちのために備えて下さった和解のしるしだというのです。「和解」という言葉は“アラセン”「形を変える、外形を変える」です。一般のギリシヤ語では「両替をする」という意味で多く使われました。それが1つの物を他の物に交換するという意味に発展していき、さらに「相手を敵として感じるその心が変えられる」という意味になっていったのです。ここから「和解」を意味する言葉として使われるようになっていったのです。また1度見捨てられた人を再び元に戻すことを意味する特色ある用語にもなっていきました。パウロはこの言葉を用いて説明したのです。聖書の語る和解とは、イエス様が成された十字架の御業により、神様と人間の失われた関係が回復され、神様と人間が友達になり交わりが再び保たれることを意味するようになったのです。人間の不従順と反逆により神様と敵対関係に陥ってしまいましたが、イエス様がこの敵意を取り去り人間の罪により破られた友好関係を回復したのです。人間は罪を犯し続けてきたのに、その人間を愛し続けてこられたのが神様です。神様への悔い改めと神様の愛に向って心動かされる必要があるのは私たちです。神様が人間に敵対心を持っている訳ではなく、人間が神様に対して敵対しているのです。その敵対している私たちに神様が『背信の子らよ、帰れ』と待っているのです。敵対する心を変えるのは私たち自身です。神様は敵対しているのではなく、むしろ愛を持って逆らう子供たちをずっと待っていて下さっているでのす。パウロはすでに聞いた福音の望みからはずれることのない様にしっかりと土台を置いて堅く立ち、間違った教えに惑わされる事のないようにと戒めつつ励ましたのです。
あなたは神様が備えて下さった和解を受け入れているでしょうか?またなぜ神様と和解をしなければならないのでしょうか?
「あなたがたはかつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、」(21節)
これが以前の私たちの姿であるとはっきりと語ります。
「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6章5節)
これが私たちの心の奥底にあるもの、これが私たちの姿であるのです。この現実をご覧になった神様はとても悲しまれ心痛めて和解の道を備えようとされたのです。さらに聖書は私たちの「真の姿」、心の奥底にある姿を浮き彫りにするため
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17章9節)
これが私たちの奥底にある「悪」だと語るのです。陰険な心とは「表面は何気なくしていながら、心の中において悪意を隠している」状態の心です。しかし私たちはいつまでもその悪意を隠しておくことはできないのです。必ずどこかで爆発する時が来ます。その悪意は意地悪な言葉や行動をもって相手を攻撃するのです。悪意は憎しみ、妬み、嫉妬から生じてきます。悪意に満ちた心は直らないと聖書は言いきっています。中には「自分に限ってそんなことはない。自分は少なくとも人の事を考えながら思いやりを持ちながら歩んでいる。そんな悪意などない」と思う人がいるかもしれません。でも現実には人間関係に悩み苦しんでいるのではないでしょうか? もしお互いに思いやりの心があるならば、問題は起きず人間関係に悩む必要はないわけです。しかし私たちは自分の物にならなかったり、自分の思い通りにならなかったりする時に、争ったり、怒ったりするわけです。また自分のプライドが傷つけられたと言っては些細なことであっても、怒り憎しみ嫉妬しているのです。するとすぐに心の中には悪意が芽生えてくるのです。このような状態の時に人を思いやる気持が出て来るでしょうか? だからこそ神様の和解が必要になってくるのです。和解とはあなたが自発的に神様を敵と思う気持を変えることなのです。そうした時に神様がどのようなことをしてくれるのかと言いますと、
「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」(22節)
悪い行いに満ちた私たちを聖く傷がなく非難されるものがない者として、受けとって下さるということなのです。ですから正々堂々と神様の前に出ることができるのです。神様との和解を実現した者は人との和解もできるようになっていきます。なぜならばキリストのご支配の中に移され見えない神の形であるキリストを通して本物の愛を味わうからです。そして何よりも赦すことの意味を知るからなのです。ですから神との和解は同時に人との和解を成すことのできる力を私たちに与えて下さるのです。
あなたは悪い行いの中に生き続けるでしょうか?また陰険な心のままに歩み続け様としているでしょうか?十字架があなたを神様との和解に導くものであることを今朝しっかりと覚えていきましょう。あなたが神様の用意して下さった十字架の和解を受け入れて歩む時に、神様はあなたを聖く傷なく非難されるところのない者にして下さる素晴らしい約束をも覚えたいのです。