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「復活信仰に生きる」

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2003年4月20日 イースター礼拝 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ24章1節〜8節より
牧師 吉田耕三

この教会が始まって14回目のイースターを迎えました。毎年私たちはイースターをお祝いするわけですが、どれくらい私たちは「イースター」の意味を受け取っているでしょうか?復活は本当に驚くべきことですが、「あまり大した事ではない」と考えてしまっていることはないでしょうか。この朝もう一度「復活の信仰」を持ちこの信仰に生きる者とならせていただきたいと思います。

復活は事実である

聖書を読みますと、人々は簡単に復活の信仰を持つのではないことを見ることができます。

「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って、墓についた。見ると、石がわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちは請う言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」女たちはイエスのみことばを思い出した。」(1〜8節)

彼らは復活の出来事を天使の言葉を聞くまではほとんど信じていなかったのです。驚きませんか?イエス様は直々に彼らに語られたのです。

「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイ16章21節)

このように言われていたにも関わらず、空の墓を見ても全然思い出しませんでした。「あら、これでは私たちよりもひどいじゃない」と思うかもしれません。弟子たちも私たちと同じく不信仰なのです。そのためにせっかくの喜びの時が闇に包まれてしまいました。イエス様が神様の御栄を現わして下さった時なのですが、彼らは「どうしよう」と途方に暮れてしまったのです。私たちも正しい復活信仰に立たせていただかなくては、神様が成してくれた素晴らしい祝福を無にしてしまい、悲しみと不安に慄く者になってしまうのです。そうではなく私たちは復活の喜びに満たされていくクリスチャンになっていくために、今日は大きく2つのこと、「復活の事実」と「復活の信仰に立って歩むこと」を学ばせていただきたいと思います。

復活の意味についてははっきりと知っていますか?「十字架と復活」この両方で私たちの救いは確かなものになっていくのです。

十字架は大体意味が分かっていると思います。神様は愛の方ではありますが同時に正しい神様ですから罪と汚れを持った人間をそのまま赦すわけにはいきません。当然裁きは受けなければならないのです。正しい神様ならば優しく包むとともに裁きも免れないのです。ですから『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(ヘブル9章27節)』と聖書には書かれています。けれども愛の神様は何とかして人間を救い出そうとしました。それが「十字架」です。その十字架に罪なき神の一人子イエス・キリストを掛け、罪の裁きとのろいを完全に滅ぼす、そうすることにより今ここに集まっている人の罪だけではなく、全世界、全時代における全ての人の罪を負われたのです。なぜ神の一人子でなければならなかったのか?それほど多くの人を救うためには真の神の一人子でなければ十分ではなかったからです。ですから尊い神の子がこの地に来て身代わりの死を遂げて下さったのです。どうやってこの身代わりの死により私たちの罪が赦されたことが分かるのでしょう。イエス様は「人の手に渡され十字架で死にます」と言い、同時に「わたしは3日目によみがえります。」とも話していました。蘇る事により本当に救いを成し遂げたことを証しすることができるからです。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、蘇られたからです。」(ローマ4章25節)

イエス様は私たちが義と認められることを証しするために蘇られたのです。罪のない神の一人子が十字架で死にました。聖書には『罪からくる報酬は死です。』と書かれています。ならば罪のないイエス様は死なないはずですが死んだのです。「私たちが知らないだけでイエス様をこそっそりと罪を犯していたかもしれない。だから死んだんだ」と考えるかもしれません。そうしたら身代わりとしては成り立たないのです。本当にご自身は純粋に1度も罪を犯したことがなかったから、キリストは蘇らされたのです。それにより真にキリストが罪の身代わりとなってくれたことが分かります。そればかりか、その罪は死んで蘇られたことにより「処理された」ことを現わしています。もう私たちは自分の罪を赦していただくために一生懸命に頑張る必要はないのです。ある方は、「赦してもらうために」と一生懸命に教会に通い、「赦してもらうために」神様にご奉仕する方がいるのですが、そうではありません。イエス・キリストは既に十字架に掛かり赦してくれたのです。私たちが教会に集い、祈り合い、奉仕したりするのは、その神様への感謝としてそれらをしているのであって、救われるため、赦されるためにするのではありません。

イエス様が私たちの罪を全部背負って下さった、そして裁かれて地に落ちて蘇った、そうであれば私たちの罪は処理済みです。私たちは過去の罪も現在の罪も、将来やってしまう罪も全部含めてイエス様は十字架で裁きを受けて下さったのです。ですからその業が成されたことを証しするために蘇って下さったのです。このことは「イエス様は蘇られた。私の罪は処理され赦されている。私は神の子供とされている」ことを証ししているのです。この考えられないことが既に成されたのですが、さてこの事実はなかなか受け取り難いということなのです。

イエス様の復活を直々に彼らは聞いています。ある意味私たちよりもひどいですね。私たちは間接的に聞いています。彼らはイエス様から直接聞いているにも関わらずイエス様の蘇りを信じなかったのです。マルコの福音書を見ますと、彼女たちが墓に向う道で墓のふたをしてある大きな石をどうやって動かすのかと話しながら進んで行きます。蘇るとは少しも思っていないのです。イエス様があれだけ「蘇ります」と繰り返し語られていても彼ら、彼女たちは信じていなかったのです。彼女たちは墓が開いているのを目にして途方に暮れてしまったのです。「やはり蘇られたのだ」と受けとめるのが本来であるはずですが、彼女たちはそうではなかった。彼女たちは天使の声を聞きます。『「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」』、ここまで言われて初めて『女たちはイエスのみことばを思い出した。』のです。私たちはここに警告を受けたいと思います。私たちはすぐに疑ってしまい信じきれない者であることをしっかりと覚え、そこから立ち上がっていく者となっていきたいと思うのです。

いくつか彼らの不信仰の様を見てみたいと思います。

神の御業を妨げる私たちの不信仰

「ところが使徒たちはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」(11節)

先ほどの女性たちは墓が開いているのを見て途方に暮れましたが、御使いの言葉を聞いて信じられたのですね。ところが弟子たちはその出来事を聞いた時に『たわごと』だと思ったんです。16節には『しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。』とあります。これはエルサレムからエマオという町に行く途中の2人の弟子に復活したイエス様が現れたのですが、彼らにはそれがイエス様だとは分からなかったのです。まさかイエス様が蘇られると思っていませんから、似ている人がいるなとだけ思ったのですね。こんなにも鈍いのです。「私はそんなに鈍くない」と思うかもしれませんが同じ資質を私たちも持っているのです。さらに24章37〜39節には『彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起すのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわってよく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」』、彼らは復活したイエス様を見てもまだ信じないのです。これが私たちの不信仰の姿であります。その結果として私たちは喜びに生きることができないのです。イエス様は蘇り勝利して下さり彼らに祝福を与えることができるのですが、ところが彼らは悲しみ中に沈んでいたのです。考えてみると私たちもそういう信仰生活を歩んでいると思いませんか?イエス様は蘇り勝利されているのに「いくら神様にだってできないのではないか」と思っていることはないでしょうか?

その不信仰な姿を見ることができる場面があります。イエス様が不在の時に、父親と悪霊に取りつかれた息子が弟子たちの所に来て、弟子たちに霊を追い出してくれるように頼んだが、弟子たちにはできなかったという場面です。

「イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになったから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。この霊は彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。するとイエスは言われた。「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9章21節〜25節)

信じきっていないことが彼に平安をもたらしませんし、神様の祝福を与らせないのです。イエス様は『不信仰な世だ』と嘆いています。これはこの父親だけではなく、弟子たちも含まれますし、言い換えれば現在の私たちの不信仰を嘆いてもいるのです。神様の御業を、私たちが不信仰になっているために、見ることができなくなってしまっているのです。イエス様は蘇られたのです。あなたの信仰は不可能を可能にする信仰になっておられるでしょうか?

「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19章26節)

皆さんこの確信に立っていますか?この確信をいただいていますか?復活の主はこのようなことを私たちにさせようとして下さっているのです。そしてそれを信じた人を通して今の時代も大いなることをなさっているのです。どうしたらこうなっていけるでしょうか?先ほどのマルコ伝に秘訣があると思います。『するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」』。

まず1つは「信じます」と不信仰を切り捨てる思いを持つことです。同時に不信仰を悔い改めるのです。「神様はどんなことでもできる」と信じない心が神様の御業を妨げ復活の信仰に歩むことを妨げているのです。私たちもこの信仰に立っていくならば、大いなる神様の祝福が信じる者たちを通してもっと現れていくのではないかと思います。

ヨハネ伝にラザロが病に掛かり、姉妹であるマルタとマリアがイエス様に早く自分たちの元に来て下さいと使いを出しましたが、イエス様はわざと遅れて到着した出来事が書かれています。実際にその場所に着いた時には既に死んで何日かが経過していました。

マリヤは『「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」』と過去にいてくれたのなら大丈夫であったのにという信仰はあったのですが、今現在という信仰は持てませんでした。イエス様はマルタに向い『「あなたの兄弟はよみがえります。」』というのに対しマルタは『「私は、終りの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」』と将来においての蘇りは信じているのです。でもイエス様は今この時に『「よみがえります。」』と言ったのです。ところが彼女たちは今現在働いて下さるイエス様を信じようとはしないのです。私たちは過去については、「こうであっただろう」とか「将来はこうであろう」と言うかもしれません。でも「現在」に関しては復活の主に信頼し「主にはできないことはない」という信仰に中々立てません。イエス様はその後にラザロの墓に向い、墓石をどかすように命じます。マルタは『「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」』と言いました。イエス様は今の今『「よみがえります。」』と言ったのに、その言葉をまともに信じようとしないのです。自分勝手に解釈して、将来において蘇るのであろうと割り引きして聞いてしまうのです。しかしイエス様は『「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」』と答え『「ラザロよ。出て来なさい。」』と言いますと彼は布にくるまれて本当に墓から出てきました。そこに驚くべき奇蹟が起きたのです。

 私たちも御言葉をそのままに受けとめないという不信仰がありませんか? 弟子たちと同じようにイエス様が語っていて下さるのに、それを真剣に受けとめようとしないのです。そのために神様の力を味わえないことが多いのではないかと思います。イースターのこの朝に私たちも不信仰を悔い改め「信じます。あなたにできないことはありません」とともに信仰に立ち上がらせていただきたいと思います。ゼカリヤの妻エリサベツがイエス様の母親マリヤに会った時に『「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1章45節)』と言いました。神の言葉を割り引いたり自分勝手に解釈するのではなく、そのまま受けとっていく信仰、そしてそれができないのであれば、死んで蘇り勝利を与えて下さった「イエス・キリスト」、このお方に絶大な信頼をおき、委ね明渡していく、自分のできない事もこの方に明渡していく、その時に神様はご自分の業を現わして下さるのです。 

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心が全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第2歴代誌16章9節)

私たちが主に明渡していく時に、神様は信仰のない者に信仰を与え、愛のない者に愛を与え、赦す事のできない者に赦しを与え、力のない者に力を与え、復活の主の御力をわれらの内にも注いで下さるのです。そのために必要なことは「私は本当に不信仰な者で神様の御言葉を信じませんでした。神様の愛を信じませんでした」神様の愛と業を信じて一切を明渡し、一切を委ねる時に、あるいは委ねきれない自分を委ねる時に、神様は新しい復活の勝利の力を望ませて下さるのです。そしてこの勝利は「神様にはできる」、この信仰こそこの世にあり力強く歩んでいける秘訣です。私¥たちは神にあって絶大な信頼を置き、力強く前進し主の勝利を味わうお互いとされていきたいと思います。

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