2003年5月4日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ15章26節〜16章16節より
牧師 吉田耕三
先週子供がアシスト自転車を購入しました。坂道などで苦しくなると自動的に動力が働く仕組みです。今までの半分の時間で帰宅できるようになったと言っていました。
神様はある意味で私たちにも、恵みを注いで下さってもっと「楽」に歩むことができる力を与えて下さっているにも関わらず、私たちがその事に気付いておらずそこから離れた生き方をしているためにその力を受けることができなくなってしまっている事が多いのではないかと思います。神様が恵みの力によって私たちを強めて生かして下さっているのに、「私は自分でやります。」と頑張ったクリスチャン生活を送ってしまうのです。しかし、神様は私たちが「神様とともに歩むことができるように道を備えて下さった」のです。それが「御霊によって歩む」道なのです。今月は現実の生活の中で力をいただく「聖霊様」について学ばせていただきたいと思います。ヨハネの15章、16章にはなぜ私たちに聖霊が与えられているのか、そしてどんな働きをしてくれているのかが記されています。
「助け主」が与えられる
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父からでる真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」(ヨハネ15章26節〜27節)
聖霊はイエス様が「十字架の贖い」を成し遂げて下さった故に私たちの内に注ぎ出された方です。そして御霊様はイエス・キリストを証しし、その力により私たちも主を証しする者となるのです。聖書に『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1章8節)』と書かれています。その様な素晴らしい証人になる事ができるのは、この「聖霊」の力によるのです。イエス様は「全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」と大宣教命令を弟子たちに命じられましたが、もしも1人のクリスチャンが1年間他の人にキリストを紹介したら、仮の計算ですが、全世界の人が福音を聞くのに大体33〜34年で十分なのです。ということはクリスチャンが怠慢であるから多くの人々が福音を知らないということになります。私たちは「人に伝えても中々聞いてくれない。」とか「人に福音を伝えたら皆に馬鹿にされる」とか色々考えてしまいます。でも神様は私たちが負けずに、めげずに大胆に喜んで人々に伝えることができるように聖霊を送って下さったと言うのです。ですから私たちは「御霊様」のことを正しく知らなければ力強いクリスチャンとしての歩むことは不可能なのです。
「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまづくことのないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう、事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしはそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。しかし、今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」(16章1〜6節)
実はこの時までイエス様は聖霊についてあまり語っていません。それはイエス様がずっと一緒だったからです。弟子たちが困った時にはイエス様が直接「こうしなさい」「あのようにしなさい」と教えてくれたのです。しかしイエス様はもうすぐこの世を去ろうとしています。その後は弟子たちが伝道に携わっていかなければなりません。その備えとして「聖霊様」について語り始めたのです。彼らがイエス様が去ってからも雄々しく歩むことができる秘訣がここにあるからです。言いかえれば私たちも力強く歩んでいく秘訣がここにあるのです。
弟子達はイエス様が「自分が十字架に掛かる」と言うことを聞き、胸は締め付けられ、悲しみで一杯になったでしょう。そこでイエス様は「あなたがたは今悲しんでいるけれども、実はこれは祝福なのです」というのです。当時彼らが「イエス様に会いたい」と思ったならばイエス様のいる場所まで行かなければなりません。でもイエス様が十字架の贖いをなしてくれたことにより、今度は聖霊様が私たち1人1人の内に来て下さるのです。これは私たちがいつでも、どこでも神様とお会いし共に歩むことができるようになったということであります。弟子たちはイエス様が傍にいてくれなければ弱かったのです。でも今度はそのイエス様と全く同じ権威と力をお持ちの方(御霊様)が来て下り、「助け主」となって下さると語られているのです。「助け主」とはパラクレートスという言葉ですが、「傍らにいて呼び出された者」という意味です。私たちのために弁護してくれる「弁護士」という言葉がぴったりです。私たちのことを慰め励まし弁護してくれる方。これが「聖霊様」です。そしてこれはクリスチャンであるならば、どんな人の所にも来て恵みを与えて下さるのです。
さて「聖霊様が来る事はあなたがたにとって良き事です」と言われるのですが、私たちはその恵みの中に生かされているでしょうか?
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたにはそれに耐える力がありません。」(7〜12節)
聖霊様はまず第1に『罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』。先ほど「伝道する力も元気もない」と言いました。それは馬鹿にされたり、無視されたりすることが多いからではないでしょうか?でもそれをするのは聖霊様だということを忘れないようにしたいと思います。聖霊様が働く時に『罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせ』るのです。福音を伝える相手が「罪があるなんて言わないで、そんなに悲観主義ではなくて、楽観主義的にいきましょう」と言われるかもしれません。多くの人は自分はそんなに悪い事はしていないし、罪人であるとは思っていないのです。でも聖霊が下る時に「私も罪人だ。私も救われなければならない存在である」と分かるのです。私たちは伝えるだけで良いのです。聖霊様がそれをなさって下さるのです。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれがそれを知ることができよう。」(エレミヤ17章9節)
私たちはそこまで悪いとは思わないのです。ところが聖霊が私たちの内に臨まれる時に私たちの内に醜い心、汚い心、ヘドロの様な心がある事に気がつかされるのです。そして「私も確かに救いが必要である」と感じるのです。
次に『義について』。イエス・キリストは十字架に掛かり1度死にました。でもイエス・キリストご自身には罪がなかったので、よみがえらされ、「義とされた」証拠として下さったのです。そしてイエス様が義とされたように、キリストを救い主と信じる私たちも「義とされ」ているのです。そういったことが分かってくるのです。
『さばきについて』。サタンはイエス様が十字架に掛かった時に「やった!ついにキリストを打ち倒した。十字架でやっつけてやった。キリストは破れた」と思ったかもしれません。でもそれは逆でした。イエス様をやっつけたと思った十字架こそがサタンの業が完全に打ち壊された始まりだったのです。死の恐怖はそこから打ち破られ、イエス・キリストにより私たちは完全にその縛りから解放されたのです。あの十字架こそがイエス様がサタンを裁いたしるしそのものです。それらの事柄は聖霊の力によって分かってくるのです。
「しかしその方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(13〜14節)
この御霊が来る時に私たちは真理を悟り、間違いが分かってくるのです。そしてイエス・キリストのことがはっきり分かり、十字架が「この私のためであった」と理解できるようになるのです。『あながたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたにはそれに耐える力がありません。(12節)』とありますが、これはまだ聖霊が下っていなかったからです。彼らに伝えても本当にその真意を理解する事ができなかったのですが、聖霊が来た時には、本当にすごいことが起きて、聖霊様が私たちを真理に導くことを経験し始めたのです。
「御霊がピリポに、「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。」(使徒8章29節)
「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。」(使徒13章2節)
「ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。」(使徒13章4節)
「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」(使徒16章6節〜7節)
彼らの生活の中に豊かに御霊様が関わり導いているのを、私たちは見るのです。それに対して私たちはどうでしょうか?そのように日々聖霊様と交わっておられるでしょうか?神様のご臨在を体験しておられるでしょうか?私たちはもっともっとこのお方を知っていく必要があると思います。私たちは今月御霊様を求め、御霊様と共に歩むことができる土台を据えさせていただきたいと思います。そのためにはどうすればよいのでしょうか?
ともに歩むために
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れでるようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7章37〜39節)
条件はまず『だれでも渇いているなら』です。「イエス様の事を本当に知りたい。私は何か満たされていない」、もし渇いているならば必死に求めると思います。
「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6章3節)
私たちが聖霊を受けるのに必要な条件は「イエス様を信じる」だけですが、追い求めていくことが足りない為に、「御霊様の臨在と支配がよく分からない」ということがありうるのです。
「もし、あなたがた心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29章13節)
第1条件は必死になって真剣に主を追い求めることです。「どうせだめだ」と諦めてしまったり、「こんなものでいいや」と自己満足に陥るのではなく、「主よ。本当にこの御霊様がもっとわかるようにして下さい。」と真剣に追い求めていく事が大切です。この求めが薄いために真剣に求めたことがないために、御霊様が分からないという面が少なくないのではないかと思います。しかしながら本当の条件は決して難しくはないのです。『わたしを信じる者は』と書かれています。あなたが「自分は救われなければならない弱い存在である」という自分の姿を正直に認めて、イエス・キリストを救い主として信じる、これだけです。聖霊は『イエスを信じる者が後になってから受ける』のです。イエス様を信じる者が聖霊を受けるのです。特別に素晴らしい人だけが聖霊を受けるのではありません。イエス・キリストを罪からの救い主、人生の主として信じた者は誰でも受けるのです。
ある人は「私が神の御霊を受けるなんてとんでもない」と遠慮深い方がいるのですが、イエス・キリストを信じているならば、あなたの内に既に聖霊は注ぎ出されているのです。この事実をしっかりと受け取っていただきたいと思います。自分の聖さで聖霊様を受けようとしたらとても間に合いません。でもイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって下さったと信じるならば、この聖めをいただくこともでき、また聖霊をいただくこともできるのです。私たちはもっとイエス様の十字架の御力を知り、頼るべきです。
「でも私はその聖霊様の力をよく知りません。」と言う方は、聖霊様がせっかく来て下さっていても正しく評価していないからなのです。聖霊様が来ているにも関わらず忘れ、無視してしまっているのです。そのために聖霊様は悲しんでおられることを知る必要があると思います。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(エペソ4章30節)
「御霊を消してはなりません。」(第1テサロニケ5章19節)
いかがでしょうか?私たちは御霊様を無視していないでしょうか?御霊様が皆さんに促してもそれを拒否してしまったことはないですか?聖書を通して私たちに語られる御霊の声、導きをを消してはなりません。御霊の導きや心に感じるものを否定してしまう、また聖霊様を悲しませる罪を犯してもそのままにしている時、聖霊様は人格を持っていますから悲しまれるのです。私たちの行動や言動を通して傷つくのです。私たちはこの聖霊様に対して「ごめんなさい」という必要があると思います。私たちもこの方と親しい交わりを持つことが必要なのです。そのためには無視するのではなく、もっと認めて何でもお話しする、すると御霊様と交わる事もできますし、御霊様によって兄弟姉妹ともっと豊かに交わる事もできるのです。神様はもっと親しい御霊の交わりを与え、その中に生き生きとした信仰生活を与えようとしておられるのです。1日の内で御霊様を覚える時間がどのくらいあるでしょうか?御霊様は傍らにいて助け励まし慰め導いて下さっています。ところが私たちは聞こうとしないのです。御霊様は謙遜な方なので、私たちが「教えて下さい。導いて下さい」と言うまでは勝手に押し込んでくる方ではありません。私たちが自ら「こうして下さい」という時に導いて下さるのです。私たちはもっとこの聖霊様とともに歩む信仰生活を教えられていく必要があると思います。
私たちの内に来てくださり、クリスチャン生活がしっかり歩めるように必要な慰めや励ましや、真っすぐな道に導いて下さるお方である聖霊様と歩むことを怠ってはいないでしょうか?「御霊様、ともにいて下さったのですね」と交わり語らいながらクリスチャン生活を歩んでいきたいと思います。御霊様との交わりが豊かになっていくとイエス・キリストとその御業の意味がはっきりとしてくるのです。
「父、御子とともに御霊様あなたの事ももっとよく分かるようにして下さい。あなたと共に歩めるようにして下さい」と祈る必要があるのです。そして切に追い求めていく中で主の恵みをもっと豊かに味わわせていただくお互いとされていきたいと思います。