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「よみがえりの命」

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2003年5月11日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書第1コリント15章12節〜28節より
牧師 吉田耕三

私たちは毎年「召天者記念礼拝」を持たせていただいていますが、この時に私たちは慰めをいただくと同時に、自らの歩みを正し真っすぐにしていただく、これが大切ではないかと思うのです。私たちの周りにはさまざまな不都合なこと、不公平なこと、差別などがいたる所にあります。しかし誰にも分け隔てなく必ずやってくるものがこの「死」という現実です。確実にやってくる「死」に対して私たちは準備ができているでしょうか。必ずやってくるのですから、私たちは宮城沖地震以上の備えをしていくことが大切ではないでしょうか?

素晴らしい世界へ入る準備

私たちは「人生が長いと幸せで、短いと不幸である。」という考え方をすることが多いのではないでしょうか。本来は人生の長短と幸せの度合いとは関係なく、「その時その時がどれだけ充実し、悔いのない生き方ができたか」の方がよほど大切ではないかと思うのです。

アメリカコネチカット州にアラン・サリバンさんという59才の方がおられました。この方は瞳孔も開き医師からも死の宣告を受けた状態の中から数時間して生き返った方です。NHKの科学ドキュメンタリー番組として放送されました。レポーターは有名な立花隆さんでした。サリバンさんは死ぬ時から、その後まで自分が経験した事柄を語られました。それをそこに居合せた人たちとともに検証していったのです。例えば「お医者さん、あなたはここに立っていましたね。そしてこんな恰好をしていましたね。鳥の様な恰好をしていましたね。」、医師は「私はそんな動作はしていません。」と言ったのですが、助手の人が「いや、先生。確かにその様な動作をしていました」と証言しました。手術の際には、手を消毒し雑菌がつかないように、物に手を触れません。指示を出す時にも手を揺すったりしてそれが鳥の羽ばたきのような動作に見えたのです。さらに「私の心臓は赤くなかったですね。」医師が「あなたの心臓にはバイパスが通してあり、血が通ってなかったので赤くなかったのです」、彼女は何1つ知らされていませんでした。ただ彼女は見た事をそのまま話したのです。執刀した方は高田医師という日本人だったのですが、立花氏が高田医師に「この方は医学的な事は何も知りません。でも非常に詳しい事まで分かっていると思いませんか?どうしてでしょうか?」と聞いた時に高田医師は考えて「私にも分かりません。いわゆる私たちの知っている科学の成果では説明しきれないことだと思います。別次元のことのように思います。」というような答えをなさっていたのです。さらに彼女に話では、自分の手術の様子を見ているのに少し飽きてきたそうです。暗闇の中に光が見えて「そこに行きなさい」と押し出される様な気がして入っていったそうです。そこに行くと、素晴らしい音楽が流れており、愛と平和と希望と喜びが満ちている所であったというのです。「でも私にはそこに入る事が許されませんでした。」と言っていました。その内に彼女は帰って来たというわけです。立花氏は彼女に「その事を通して何か変化したことがありましたか?」と尋ねた時に「それまで私は無神論者でした。『神などいない』と思っていました。しかしそれを見た時に、それが愛のエネルギーだと思いました。本当に希望と喜びに満ちており、それは神様から来ていると私は直感しました。」と言っていました。

私たちは「死んで終わり」と考えてしまうために「死の備え」を何もしていないということがあるのではないかと思います。私たちは死んだ後の世界があるということをもう一度考え、そのための大切な備え、素晴らしい世界に入ることができる備えをする必要があるのではないでしょうか?

聖書には『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように(ヘブル9:22)、』と書いてあります。このことにおいてすべての人は平等です。この世では差別や不公平や良いことをしても顧みられない人や、反対に悪い事をしても上手くやっている人もいます。しかしその裁きの座において正しく公平に裁かれるのです。しかしその時に私たちは「その場所に行ける」と言えるほど清い生き方をできていると言えるでしょうか?聖書の語る福音は私たちに「その地」に入る事ができるように、キリストが私たちの全ての罪を背負い、十字架に掛かってくださったのであり、このキリストを信じるならば誰でも罪赦されて聖き世界に入っていくことができ、その力をいただくことができるのです。」というのです。その証拠としてキリストは死んで蘇られたのだと記されているのです。

「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、日との手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからではなく、かえって天の住まいを着たいと思うからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちはこのことにかなう者としてくださった方は、神です。神は、その保証として御霊を下さいました。」(第2コリント5章1〜5節)

私たちの地上の体は長く持っても100年くらいでしょう。いつかは壊れます。でも主を信じる者にとっては、それは悲しみではなく、もっと素晴らしいものを着ることができる時なのだと聖書は言うのです。その証拠として私たちに「御霊」を下さったのだと。このことが先程読みました第1コリント15章に記されているのです。

キリストは死んだままではなく、死から蘇られた、これがキリスト教の真髄であります。先程のサリバンさんは生き返りましたが、でもいつかは死ぬでしょう。でもキリストは蘇り、今もこれからもずっと生きておられます。その事は事実ですし、神の御業がなされた本当の証拠なのです。もう少し詳しくお話ししたいと思います。イエス様は亡くなる前から「自分は死んでから蘇る」と言っていました。ですからイエス様を十字架につけようとしている者は「もしもイエス・キリストが蘇った」と変なことを言われたらたまらないとと墓に封印をし、番兵を置いてもらったのです。ところが3日目の朝に数人の女達がイエス様の身体に油を塗るために墓に向う時、墓の入口には大きな石の蓋が置かれておりますから、どうやって石を動かすことができるかと思案しながら向っていったのですが、到着してみるとその石は既にのけられており、中には遺体を包んでいた布だけしかなく、遺体はなかったのです。彼女たちは途方にくれてしまいました。イエス様から「蘇ります」と聞いていても「有り得ない」と思ってしまっていたからです。ですから弟子たちも信じませんでした。ところが、「私はイエス様に会いました。」という人が出て来たのです。それは1人、2人、10人、11人ではありません。一番多い時には500人以上の人が同時に復活したキリストを見ているのです。彼らは何度も何度も復活が事実であることを認めざるを得ないほどに復活したイエス様にお会いしたのです。なぜそれほどに何度も現れて下さったのでしょう。それはこの復活の中にこそ福音・救いの真髄があるからです。聖書には『罪から来る報酬は死です。(ローマ6章23節)』と書かれています。人は罪を持っているので死ぬのです。ですから、もし罪がなければ死なないはずなのです。ところが、罪のなかったはずのイエス様が死んだのです。ですから、それだけで終っていたならば、イエス・キリストに罪が本当になかったのか、また彼が本当に神の1人子で、私たちを救い得るお方なのかわからなくなってしまうのです。でもキリストは蘇り、皆の前にはっきりと現われて下さったのです。その事は3つのことを私たちに教えています。

素晴らしい世界への切符

第1にキリストには本当に罪がなかった事。すなわち罪がなかったからこそ蘇ったのです。ではなぜ罪のないイエス様が死んだのでしょうか?それが第2の内容になりますが。第2にはキリストが死んだのは本当に私たちの罪を背負って下さったからであることです。すなわちイエス様は、十字架にかかって下さることによって本当に身代わりにとなり罪の罰を受けて下さるために1度死んだのだということです。第3には、キリストが死んでよみがえって下さったことにより、本当に私たちの罪は処理され、すでに私たちの罪が赦されていることを表している事です。すなわち死から蘇って下さったということは、私たちの罪はすでに処理されたということを表しているのです。

私たちの罪がどんなに酷いものであったとしても『「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1章18節)』と約束して下さっているのです。もしイエス様に「私の罪を赦して下さい。」とお願いするならば、どんな人でも、どんな罪でも赦されそして、素晴らしい恵みの世界に入ることができるのです。そしてそれが本当であると証拠づけるためによみがえって下さったのです。このイエス・キリストを受け入れる人は、誰でも罪が赦され永遠のいのち、天国のいのちが与えられるということなのです。

私たちは生きていても屍のように生きている事はないでしょうか?イエス様は『わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10章10節)』と語ります。私たちは生きているように見えて本当のいのちは持っていないのです。イエス様は豊かないのちを与えるために来たのです。今日は「よみがえりの命」という題でお話しをしていますが、その蘇りのいのちを私たちに神様は下さると言うのです。

長崎に山口きよとという死刑囚がおりました。大きな犯罪を犯したので死刑が確定したのですが、教誨師の大沢牧師の言葉に耳を傾けるようになり、ついにイエス・キリストを救い主として信じる決意をしたそうです。その時から彼の心に平安が与えられ感謝する心が出て来たのです。確かにどんな人でもイエスキリストを救い主として受け入れるなら、その罪の赦しを受けることができますし、赦しを実感するようになってくるのです。死刑囚でもそのように変わることができるのです。山口きよとにもその時死刑執行の時が来ました。しかし彼は全く乱れることがなかったといいます。その場所に行く前に大沢牧師に辞世の句を残しています。

罪の身はこの世のちりと消ゆとても心は聖き神のみもとに

「本当に酷いことをしてきた私が死刑にされるのは当然ですが、こんな私でさえも天の御国に行けるとは何と感謝な事であろうか」これが最後の言葉です。最後に「山口きよとただいまから天国に馳せ参じます。ハレルヤ!ハレ…」と言って旅立ったのです。その光景を見た人が「こんなにすごい立派な最期を見た事はない」と感激していたそうです。

私が以前ご奉仕させて頂いた教会に筋ジストロフィーの方がおられました。最期の時を迎えた時、私の朗読する聖書を聞きながら「アーメン。アーメン。感謝します。感謝します」と20才そこそこで召されようとする彼の口から出て来るのは「感謝します。」との言葉だけだったのです。1度息が途絶えたかと思いましたら、もう1度目を開けて既に言葉は出なかったのですが、周りの1人1人に目を向けて「ありがとう」と言っているのが分かりました。そして健やかに召されていきました。その場におられた彼の伯父にあたられる方が「こんなに安らかな死を見たことがない。私もそうなりたい。」とその日から彼は甥の求めていた神様を求め始めたのです。

今日私たちは「召天者記念礼拝」を持っています。この方々は主イエスによって永遠の安らぎの中にあります。この方々が願うことは、私たちが「悔いのない生き方をする」「希望を持って歩む事ができる」ことだと思います。そしてそのことをキリストはして下さいました。それをこの機会を通して皆様に語っているのかもしれません。聖書はこう言います。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神のこどもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1章12節)

「イエス・キリストの十字架により罪が赦される」と信じた者には、神の子供とされ素晴らしい世界に入れて下さる切符を手にすることができると聖書は語ります。願わくば1人でも多くの方がこの神様の平安と希望と安らぎを受けとり、ともにその場に導かれて欲しいと願って止みません。

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