2003年5月18日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書マタイ14章22節〜33節より
メッセンジャーラリー・モリ宣教師
私たち家族は開拓の働きのために、あちらこちら引っ越しをしました。私たちは新しい所に移ると、そこで誰と初めて出会うか、誰と付き合うことになるか、とても楽しみにしています。それは、今まで何回も素晴らしい体験をしたからです。初めて出会った時には、お互いに他人であるし、言葉の壁もあります。しかし、知人からだんだんと親しい友人になり、その友人がイエス様を信じた後には霊的な兄弟姉妹となり、一緒に教会で奉仕することになります。それは何という恵みでしょうか。その経験を通して、私たちは人と人が出会うのは偶然ではないと信じています。だから私たちがどこで誰と出会うのかは、全て神様の導きとご計画だと確信しています。
聞くだけか? 聞いて従うのか?
イエス様がこの地上で働きを始められた時に最初に出会った人々は、偉いユダヤ教のリーダーたちではなく、ペテロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネの名前も知られていない漁師たちでした。最初は知り合いという関係からイエス様の仲間となり、一番親しい弟子たちに変わりました。その彼らがこの地上でイエス様と出会ったのは偶然ではなく、神様のご計画ではないでしょうか。イエス様はどのようにしてその漁師たちを、群衆の中の一人から「一番親しい弟子」へと変えられたのでしょうか。まず、彼らがイエス様の御言葉に聞き従って行くように訓練しました。
「それからすぐ、イエスを弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こうへ行かせ、その間に群集を帰してしまさわれた。群集を帰したあとで、祈るために、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何メートルも離れていたが、風が向い風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。」(マタイ14章22節〜24節)
この箇所はイエス様が水の上で行われた奇跡は、2匹の魚と5つのパンで5,000人を食べさせた奇跡のすぐ後の出来事でした。22節を読むと『イエスは弟子たちを強いて船に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。』と書いてあります。どうして遅い時間なのにイエス様は弟子たちを船に乗り込ませて向こう岸に行かせたのでしょうか。それは、弟子たちがご自分の言うことを実践するようにと望まれたからです。イエス様はいつも弟子たちが御言葉に聞き従うことを願っています。イエス様が語られた言葉に心から聞き従うかどうかが、群衆と「弟子」を見分ける大切なポイントだと思います。イエス様はどこに行っても、大勢の人々がついて来ました。群衆はさまざまな理由でイエス様の所に来ました。ある人々は奇跡を見たかったのでしょう。ある人々は助けてもらうために、またある人々はイエス様を罠にかけるために来ました。こうして、たくさんの人々がイエス様の元に集まって来ましたが、イエス様の言葉を求めて心から聞き従おうとは願ってはいませんでした。しかし、イエス様の弟子になるには、イエス様の言葉に聞き従うことが重要です。
弟子たちには、湖を渡り対岸に渡るのは簡単なこと、あるいは小さな一歩と思えたかもしれません。12人の弟子の中で4人は漁師でしたので、今まで何回もその湖を渡ったことがあったでしょう。その時、弟子たちはずっと群衆と一緒にいて皆疲れて早く家に帰りたかったかもしれません。しかし、彼らはイエス様に頼まれたことに対して言い訳をしなかったし、文句の言葉もなかったし、ただ純粋にイエス様が言った通りに従いました。もし弟子たちがイエス様の言われた通りに聞き従わなかったら、彼らがイエス様からの大切な訓練を受けることはできなかったし、イエス様が本当に神様であることを見る機会も逃がしてしまったかもしれません。
「 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15章14節)
イエス様の弟子になるにはイエス様の言葉を聞くだけではなく、従うことも必要なのです。ある日、弟子たちがイエス様と船に乗っていた時に急に嵐が起こり、舟が沈みかけたそうになっていた時、疲れきっていたイエス様はぐっすりと寝ておられました。そのイエス様に弟子達は『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。(マタイ4章38節)』と文句を言いました。しかしこの時は強い向かい風に直面しても文句も言わずあきらめもしませんでした。ただ、イエス様の言われた所に行くように一生懸命努力しました。私たちは本当に主に従うなら、忍耐強くなり、簡単に諦めたりはしないでしょう。イエス様は私たちに「良い模範」をご自分が示して下さいました。それは、父なる神様の「御心に従った」ことです。
「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2章8節)
弟子たちが湖を渡ったのは、「聞き従う」という小さな一歩だと言えるかもしれません。しかしその1つの「小さな一歩」は大きな一歩になります。一歩、一歩神様に従うごとに神様の御心に近づくことができ、神様の御声を聞くことができます。私たち1人1人、神様のご計画は何であるかを知ることができるのです。
「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15章15節)
弟子たちは、最初は群衆の中の1人でした。しかし、彼らはイエス様に聞き従うという小さな一歩によって、弟子になりました。やがて彼らを信頼して、ヨハネには自分が死んだ後に母マリヤの世話を任せましたし、また、福音を全世界に広げる重要な使命も任せました。私たちも、神様の御言葉に聞き従っていく毎日の小さな一歩により弟子になることができるのです。
信仰の一歩を踏み出す
イエス様はどのようにして彼らを群衆の中の1人から自分の弟子へと変えられたのでしょうか。第2に、イエス様は弟子たちが信仰によって歩むことができるように訓練しました。群衆はイエス様の教えを聞くためにだけ、または奇跡を見るためにだけついて来ていました。彼らは、イエス様を信じる決心をしませんでしたからイエス様を知らないままで家に帰りました。イエス様は、弟子たちに、自分の言うことを信じて、心から信頼するように望んでいます。
「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」(25節〜29節)
ペテロは、すぐに何か言ってしまうタイプで、衝動的な人と見られています。この時も一時の感情にかられて言ってしまった可能性もあるかもしれません。しかし私はそうではないと思います。かえってペテロはイエス様に信頼したかったのだと思います。夜中それも風が強い時に、水の上を歩くのはとても恐ろしいことですし、大変な冒険だと想像できます。しかし、ペテロは安全な舟の中にいるより、イエス様が成さったように自分も実際に体験したかったのでしょう。ペテロは、信仰の一歩踏み出して、風が強くても水の上を歩きたかったのです。ペテロは自分が水の上を歩けると信じる事ができたのでしょうか。それはイエス様が自然を支配する力と権威を持っている方であることを信じたからです。それは、イエス様が5つのパンと2匹の魚で5,000人を食べさせた奇跡を見たからです。ですから「もしイエス様がお許しになるなら」ペテロもイエス様を通してその権威によって奇跡を行うことができると信じました。ですから『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。』とイエス様の許しをもらい、衝動的ではなく、自ら信仰の一歩を踏み出したことが分かります。
ペテロの信仰はマタイ8章8節に書かれている百人隊長の信仰と似ています。彼は自分の僕を癒すためにイエス様の所に来ます。イエス様が『行って、直してあげよう。』と返事した時に彼は謙遜に『主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。』と言いました。イエス様がこの場所で、「僕の病気を治す」と一言いえば、その通りになると彼は信じていました。彼もイエス様が権威を持っている方であると信じていたからです。百人隊長のように、ペテロはイエス様が不可能なことを可能にすることができると信じました。イエス様が弟子たちの前で水の上を歩く奇跡を見せた目的は、彼らの好奇心を満足させるためではなく、彼らが命を賭けるほどの信仰の一歩を踏み出すようにチャレンジしたかったのだと思います。そのチャレンジにペテロだけが応じました。他の11人の弟子は信仰の一歩を踏み出すより、船の中で座ったままの方が安全だと思ってしまいました。しかしペテロは自然と自分の人生を権威を持って、支配しているイエス様を信じて大胆な一歩を踏み出しました。ペテロが水の上を歩くことを願ったのはイエス様に喜ばれることだったと思います。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11章6節)
「従う」ことと「信仰」はいつも一緒です。私たちは神様に従えば従うほどもっと大きな信仰の一歩を踏み出すことができるのです。
家内の香港の母教会にチョイという夫婦がいます。チョイさんは銀行員でした。子供たちは皆アメリカに移民し、退職後チョイ夫婦もまたアメリカに引っ越しました。引退し静かな人生を送ることを選ぶことができました。けれども神様は2人に香港でまだ福音があまり伝わっていない町に重荷を与えました。香港に戻り、毎週その町に行き福音を伝えました。しばらくして1人の女の子に聖書を教え、彼女はイエス様を信じました。その後ある家族が信じました。その小さな働きから、27年の間に250人以上の人がイエス様を信じ、その中から20人以上の人がが献身しています。チョイご夫妻は65歳からこの働きを始めました。その信仰の一歩によって神様はその働きとチョイご夫妻を祝福しました。もし私たちは神様に自ら従うなら、新しい一歩を踏み出すことは何歳からでもできるのです。
第3にイエス様は弟子たちがいつも謙遜な心を持つように訓練しました。
「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこでイエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人たな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」(30〜33節)
しばしば、大きな信仰の一歩を踏み出す時、同時に私たちの弱さも現れてきます。ペテロは最初はイエス様によって何でもできると信じました。しかし、風で湖の波が大きくなった時に「これでは無理だ。私にはこのことができるはずがない」と考えってしまったのかもしれません。ペテロが疑い始めると同時に沈み始めました。このペテロの疑う心は、心の中に恐れを抱いたからです。恐れがペテロに神様の力と御言葉を疑わせ、イエス様が言われた通りに水の上を歩くことができるという確信も揺らいでしまいました。恐れは私たちの信仰に対する一番大きな敵だと思います。恐れは、神様の祝福と臨在から離れてしまう原因です。
ペテロが沈みかけた時、船にいた弟子たちはさまざまな反応を示したと思います。ある弟子は心配したかもしれません。他の弟子は「『行かないで』と言ったのに」と心の中でペテロを裁いたかもしれません。または「自分はそうしないで良かった」と考えたかもしれません。ペテロが水に沈みかけたことは失敗だったのでしょうか。私はそうではないと思います。ペテロが信仰の一歩を踏み出したからこそ、神様の栄光が現され、それにより弟子たちはイエス様を信じて「確かにあなたは神の子です」と告白したのです。ペテロは信仰の一歩を踏み出したこの時に、弱さも現れて来ました。この経験を通して、ペテロは自分の弱さを知らされ、もっと神様に信頼しなければならないことが分かって来ました。
私たちは弱さを持っています。もしも私たちが自分に信頼しているならば、自分の弱さをまだ認めていないという意味にもなります。しかし、自分にはできないことを認め神様に信頼するなら、私たちは神様の力と約束を体験することができるのです。イエス様はペテロに水の上を歩くチャレンジと機会を与えました。しかしペテロが疑った時に、この良い機会は危機となってしまいました。機会は神様の助けによって私たちがどんな悪い状況の中にいても良い結果になることです。でも神様の臨在と約束を疑うと、機会が危機に変ります。ペテロの機会が危機に変わったのは、イエス様が約束した通りに「助けてくれない」と思ったからです。そうではなく、イエス様はいつも私たちとともにいてくださり、助けるためにいつも手を伸ばして下さいます。イエス様の助けを通して、私たちの危機が神様の栄光が現される機会になることができるのです。
イエス様はどのようにして群衆から、弟子へと変えられたのでしょうか。イエス様は、従うことについて、信仰について、謙遜について彼らを訓練しました。神様はモーセを遣わし、神の民であるイスラエル人をエジプトから連れ出すように命令しました。そして、モーセはパロの所に行きましたが、パロは彼らがエジプトから出て行くのを許しません。イスラエル人をエジプトから連れ出すのは神の御心であるのに、モーセに9回も断わられた体験をさせたのでしょうか。それは霊的なリーダであるモーセと神の民であるイスラエル人の訓練のためでした。彼らが神の言ったっことに聞き従うか、神様を信頼して信仰の一歩を踏み出すか、謙遜に歩んで行くかの訓練でした。私たちはどうでしょうか。群衆のように御言葉を聞くだけの生活をしていますか。あるいは信仰は日曜日の礼拝を守るだけでしょうか。11弟子のように安心して船に座っているだけでしょうか。そうではなく、私たちは弱さを持ったままで神様に従順な心を持ち、ペテロのように神様のために信仰の一歩を自ら踏み出しましょう。
富谷町で開拓の働きが始まりました。私たちにとっては、大きな信仰の一歩を踏み出すかのようです。同時に、私たちの弱さも見えてきたと感じます。でも神様の恵みによって神様をもっと信頼する事ができるように学ばなければならないと思います。これから神様が成してくださる御業を期待しています。その信仰の一歩を通して神様の栄光が現されるようにと願っています。この東北で多くの日本人が神様の栄光を見て、イエス様が本当に神の子であると信じることができるように祈ってください。