2003年5月25日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ローマ7章24節〜8章14節より
牧師 吉田耕三
「ノミ」の話しをご存知でしょうか?ノミは大変な跳躍力があります。人間に置き換えますと、何百メートルも飛ぶほどだそうです。そのノミをコップに閉じ込め蓋をしておきますと、最初は蓋にぶつかりながら何度か飛び跳ねを繰り返す内に、ぶつかった以上には飛ばなくなってくるのだそうです。「自分の能力はここまで」と思い込まされるようです。それ以降は蓋をとっても飛び出すことはないという話を聞いたことがあります。ある意味において私たちも「あなたにはできっこない」と「騙し」を受けてそのように押さえこまれている面があるかと思います。確かに私たちは失敗します。御言葉が言っていても「その通りではない」ことを経験すると「できっこない」と思ってしまう。そこから立ち上がって行く気力すらも出てこないのが正直な姿ではないかと思います。
「 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4章13節)
すごい約束があるのですが、そんな言葉は遠く消えてしまうのです。これが私たちの状況ではないかと思います。今日はローマ書の中から私たちの内に来て下さっている神様の力をもっと知りそのいのちに生きる生き方を学ばせていただきたいと思います。 「私は愚かな者です」
1人の親戚が私の家にバイクで遊びに来ました。その帰りに転倒したのですが幸いにも何の怪我もなかったのです。しかしバイクは大きく破損し動かなくなってしまいました。彼は仕方がなく家まで引いて帰ったりました。次の日に起きると体に激しい痛みがあり、調べてみると肩を複雑骨折していました。その瞬間はショックで自分が傷ついているのか分からず、痛みも感じなかったのでしょう。ショックが少しずつおさまってきたら、体の痛みが出る状態になってきたました。実はクリスチャンにもこういう状態があるのです。イエス・キリストを信じる前は何も感じなかったのが、クリスチャンになると罪の痛みを感じ始め居ても立ってもいられず「なぜこんな私が?」という状況が起きてくるのです。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(ローマ7章15節)
「私は、私のうち、すなわち、私の肉の内に善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7章18節)
素直に自分を見ると「本当にこの通りだ」と深くうなずくのではないでしょうか?自分でどうするべきか、自分でどう対処するべきか、どう成すべきかを知っているのです。もし自分と同じ悩みを他の人から打ち明けられたらきっと素晴らしい回答をすることができると思います。ところがいざ「自分自身は?」というと全然できないのです。良いことを思っていても自分がしていない、これが私たちの本当の姿ではないでしょうか?
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(24節)
私たちが本当に神の恵みに生きるようになるためには、この告白こそが必要であることを知っていただきたいと思います。
「どうして自分はこんなにも弱いのだろう」「どうして自分はダメなのだろう」と感じるならば、それは皆さんを本当に引き上げ神様の恵みに生かし御霊により歩むようにして下さろうとしていることを知っていただきたいのです。そして「私は本当に惨めな人間だ」と心からいうことができるるのならば、この神様の恵みは、すぐそばにまで来ています。神様がまず私たちに促すのは「私の肉の内には良いものが何もない。本当に自分が惨めな人間である」という認識に導くと思います。肉は私たちに自分を高め「いかにして自分が素晴らしい者」かに導こうとします。しかし聖書はその反対で「自分がどんなに愚かで惨めな者」かをまず第1に知らせます。それは私たちが肉に頼ることのなく神様に頼れるようになるためです。肉の弱さを示されると、しがみつき「私はもっと立派なはず。もっときちんとできるはず」と頑張り鞭打つのですが、やればやるほどまったくできない惨めな自分を知らされるのです。それでも御言葉に真剣に従がおうとしなければあまり惨めさは感じないのです。しかし真剣に御言葉に従おうとすると「できない自分」に気付き始めるのです。私たちは罪を犯し、自分の惨めさを知らされるとがっかりすると思います。ですが「これにより私は神様の恵みを知ることができる」と解放が近いことを知って下さい。パウロは『だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか』と語ります。自分の惨めさを知らされる時に、「自分以外の誰かが救い出してくれなくては、自分はどうしようもない」ことを認識するようになるのです。神様に頼る備えができてくるのです。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、また肉では罪の律法に仕えているのです。」(25節)
「愚かで惨めで弱い者だからイエス様が私のために十字架に掛かって下さった」と気付かされるのです。この恵みの深さが感じられるようになるのです。でも心では「神様に感謝します」と言っていながら、次の瞬間には人のことを裁いている肉の弱さを露呈するのです。そういう者に神様は何と言っているのでしょうか?
「 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(8章1節)
皆さん、この御言葉をしっかりと心に刻んで下さい。もしキリストを自分の罪からの救い主として信じているならば、同じ罪を何度も繰り返しているあなたであったとしても、罪に定められていることはないのです。それはイエス・キリストを信じたのは、過去の罪の救い主としてだけではなく、現在持っている罪、将来犯してしまう罪の救い主としても信じたのだからです。何度も罪を犯しても皆さんの内には間違いなく主の聖めと赦しがあることを忘れないで下さい。そして赦されているだけではなく、
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。」(2節)
皆さんが「そうではない」と思ったとしても、神様はこのことを宣言して下さったのです。私たちがイエス・キリストを信じた時に、神様は「聖霊」を注いで下さいました。そして私たちが「聖霊」に頼り生きるならば、罪と死の原理を打ち壊し、それに勝る生き方と力が現われてくると宣言して下さっているのです。ある特別な神様の恵みを頂いた1人にだけではなく、イエス・キリストを信じる全ての人にこの恵みと祝福が与えられているのです。多くの人がイエス・キリストを罪からの救い主として信じているのですが、罪から解放して下さるお方としては案外受けとめていないのではないでしょうか? 「どうせダメに決まっている。」「どうせ私にはできっこない」「私はそう簡単には変らない」という思いに支配されてしまい、私たちが変わるという希望を失ってしまっているのです。『いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放』した、これをぜひ受け取って下さい。
「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(3〜8節)
「肉の力で生きるのは止めなさい」と言われても何10年間もそれで生きてきていますから、簡単に止められるわけではありません。それで私たちは肉における生き方と新しいいのちをいただいた御霊に生きる生き方が混っているのです。そこを神様は教えようとされているのです。まず第1に自分の力で頑張り、自分が心の真中に座り、自分の考えで歩んで来た人生はきちんとできていましたか?です。先ほども「自分で分かっていても良いことができなかった」、それは肉によって歩んでいたからです。それで「私がその肉は処罰した。今後肉に生きることのないように、霊的な意味で対処しました。ですから肉によって生きる愚かな生き方は止めなさい」ということなのです。
「頑張って!」、これはこの世の生き方です。でもこの生き方からは何の解決もなかったし、神に従うことも、神に喜ばれる歩みもできませんでした。だからキリストはそのために死にあなた方が御霊により歩めるようにして下さったのです。私たちは罪を犯してもがっかりする必要はないのです。なぜなら『肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます。』と書かれています。どんなに「私は今調子が良い」と思ってもこれが既に高慢になっています。でもその時は「今は肉によって歩んでいる。」と思って下さい。そういう時には次々と悪いものが出てきます。本心は肉的なことを考えていますから、人を蹴落とそうとしたり、馬鹿にしたり、いろいろな醜いものが出て来るのです。こんな時には「肉によって歩むということはこんなことなんだ」と認識したら良いですね。肉はそういうものであるのです。
私たちに必要なのは御霊によって生きることです。御霊によって生きると『御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。』と書かれています。無理にではなく、「どうしたら神様が喜んでくれるだろうか?」「何が神様の御心であろうか?」と自然に考えるのです。ですから私たちは自分の弱さを悔やんでいる暇などないのです。「御霊に属する者にさせて下さい。」とひたすら願い求めていくだけで十分だということなのです。もう1度言いますが、自分のダメさ加減を見てもがっかりせず「こんな私にはできっこない」と騙されないで下さい。これは悪しき者が語りかけているだけなのです。神様は私たちを立ち上がらせることができるのです。
御霊に導かれて
「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださるのです。」(9節〜11節)
でも「御霊が私の内に住んでいてくれるのであればね」と言われる方は明確な基準があります。どうやって自分の中に御霊が来てくれている見極められるのでしょうか。
「 ですから、私は、あなたがたに次ぎのことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(第1コリント12章3節)
「イエス様は私のために死んで下さった。私の救い主となってくれた。」と思っているということは聖霊が来ているという証拠なのです。別の言い方をしますと聖霊によらなければイエス様を信じることができないのですから、聖霊が来たということなのです。しかしイエス様をまだ信じていない方「不安だ」と言われる方はイエス様を救い主として信じこの方に従う決断をぜひしていただければと思います。間違いなくその方の内に聖霊様が宿って下さり信じることができるようになります。そして聖霊の力が私の内に働いているのだということを知っていただきたいのです。でもそれだけで十分ではありません。『あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。』、御霊が来て下さっているだけではなく、御霊の中にいるというのです。よく言いますが、空の瓶の口に蓋をして水の中に入れますと、瓶の中には水は満たされていません。しかし瓶の周りには水があります。同じ様に神の御霊が来ていても満たされていない。しかし周りには御霊が覆っているのです。クリスチャンにはそういう事が起きているというのです。次の段階は御霊様を私たちがどのように受けとめていくかです。11節の『キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方』、すなわち神様は『あなたがたの住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。』御言葉のように、御霊様に明渡し委ね従っていくならば、私たちはイエス様が復活したあの力を持って私たちも蘇りのいのちに生きられるというのです。この力をもって私たちも生かされるのならば、私たちも『いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです』という生き方が可能になると思いませんか?では私たちがするべき事は何でしょうか?
「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すのなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(12〜14節)
私たちの内には神の御霊によって歩む道と、昔からの肉によって生きる力の両方が混在してます。そして私たちはどちらに従うこともできるのです。私たちは「罪の奴隷」であると書かれています。「罪を犯したくない」と思っても犯してしまうでしょう。でも神の御霊を頂いた者は、御霊に従うこともできるのです。それには肉の思いに死んでいく必要があります。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(ローマ7章15節)
これは自分の力で良いことをしようとしている人の姿なのです。「神様の言葉は正しい」、だから自分の力でそれに従おうとした、ここが間違いなのです。そうではなく、「神様どうかそのようにさせて下さい」と委ね明渡すことが大切なのです。日々私たちはこれをしていくことが必要なのです。これはクリスチャン生活の訓練です。地上にいるクリスチャンはいつでも危険をはらんでいます。でも落ちた時には「神様ごめんなさい」と悔い改め明渡していけばよいのです。これがずっと繰り返しされるわけではありません。再臨の時には栄光の体が与えられ、ずっと神様とともに歩むことができるのです。これが私たちの希望です。この日を待ち望みたいと思います。こういう訳で私たちは罪の律法に囚われない生き方をしていきましょう。私たちは自分の弱さの中で「主よ」と祈るだけで良いのです。そして弱い愚かな私を明渡すだけで良いのです。私たちは主に目を向け明渡していく時に主の恵みを豊かに味わう者とされていくのです。自分の弱さの中で神の豊かな恵みを味わう者とともにならせていただきたいと思います。