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「自己中心から神中心へ」

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2003年6月1日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書マタイ16章13節〜28節より
牧師 吉田耕三

テレビでときどき日本公共広告機構が面白い広告を出していました。最近は「自己虫」という虫が増えてきた。自分の「自己虫度」を調べてみるのもいいかと思うのです。

今年の私たちの目標は「御霊によって歩む」です。そして今月の目標は「自己中心から神中心へ」です。私たちの「自己中心」が神様とともに歩むことを妨げているのです。自己中心に気付きそれを「神中心」に変えることにより、私たちの生活ががらっと変り始めるのです。自分の願いを成し遂げることは素晴らしいことと思いがちですが、それが問題の根源であると聖書は言うのです。アダムとエバ以来誘惑された私たちは自然に誘惑に乗せられ「自己中心」に生きる者となってしまっているということなのです。「自己中心」の生き方から神中心に変る時に、私たちは本当の意味での豊かさを味わう者になり、今年の目標である「御霊によって歩む」という祝福を体験していくことができるようになるのです。

「神の御子」を認める

「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」(13〜14節)

 イエス様は公生涯を始められて素晴らしいことを行ないました。人々はそのイエス様の行う業を見て、感動しイエス様の言葉を「一言でも聞きたい」と思いついて来たと思います。  しかし後の日になると様相が変ってきます。というのは群集はイエス様の言葉の意味を本当に学ぶのではなく自分の都合の良いことを言って欲しいと思っていたからです。イエス様が『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6章54節)』などと聞きますと、「これはひどい言葉だ、そんなことを誰が聞いておられようか。」と言って離れていくのです。その状況の中でイエス様は言います。 

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」シモン。ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(15〜16節)

最初は皆がイエス様を「救い主」だと思いましたが、この時は以前に比べると熱中度が下がっています。人間の心は簡単に変ってしまうものであると思います。イエス様はこのことをよく知っておられました。その中でイエス様は弟子たちに『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』これは大切な質問でした。ペテロは『あなたは生ける神の御子キリストです。』と答えます。ペテロの『神の御子キリストです。』の告白は大きな意味を持っています。これには「私はあなたに全生涯をかけて従います。どんな犠牲を払ってでも私はあなたにお従いします」、という意味合いが込められていたと思うのです。「キリスト」という言葉は「油注がれた者」という意味です。ユダヤでは国を治める王となる人物、神様と人との間を取り次ぐ祭司、神様の言葉を取り次ぐ預言者を任職する時に油が注がれたのです。そして彼らの中に「あの任職された者」これが「キリスト」を現わすようになっていったのです。400年間ユダヤ世界に預言者が現われなくなりました。そして「王であり、祭司であり、預言者である方」、「救い主」が神様から遣わされる、その様な意味として「キリスト」という言葉が使われるようになっていったのです。そして今私たちは「キリスト=救い主」として言っているのです。

「するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは、人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしはあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国の鍵を上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(17〜19節)

岩とはギリシャ語で「ぺトラ」と言います。ペテロが告白した岩、すなわちこの信仰告白の上に教会を建てる、この教会は地獄も打ち勝つことができない、そして『天の鍵を上げる』という大変な約束を下さっている訳です。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1章23節)

教会が正しく機能している時、そこはすごい所なのだということです。そのために必要なことは私たちの信仰告白です。すなわちイエス様が真に「生ける神の子である」と告白できる、このことは小さいことではないのです。『このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』とありますように、これは自分の力で信じようと思っても自分ではできないことなのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるのです。」(ヨハネ15章16節)

私たちがイエス・キリストを信じることができたのは奇蹟中の奇蹟なのです。小さいことではなく、自分の内に現わされたことをしっかりと受け取る必要があると思います。この信仰告白を確認した後でイエス様は、神の思いと人の思い、

「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」(20節)

 このことは非常に深い意味があります。私たちは神様の深い恵みの故に信仰を持つことができるようにされているのです。そしてその中で「イエス様は私の生涯の全てを捧げても惜しくないお方。」という信仰が育ってきた人に言うべき言葉が、 

「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(21〜23節)

先ほど『「あなたは生ける神の御子キリストです。」』と信仰告白したペテロが今度は『下がれ、サタン』と言われたのです。このことには深い意味、私たちが注意するべき事柄があるのです。イエス様は一番受け入れられるはずのユダヤ人から捨てられ、3日目に蘇り救い主となって下さることを話していたのです。イエス様よりもペテロは年上ですから「大丈夫です。あなたほどの人がそんな目に会うはずはないではないですか。」と悪気なく言ったわけです。ところがイエス様は『「下がれサタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』と言うのです。なぜこれがそんなにも重大なのでしょうか?

私たちの中には神を忘れ、ないがしろにする自己中心という考え方がしっかりと根付いているのです。この自己中心が私たちを惑わし、私たちが神様の祝福にあずかることを妨げているのです。私たちは自己中心から解放されて」神中心の生き方」に変えられていくことが必要であり、大切なのです。その時に私たちは本当の意味で聖書が言っている通りの神様の豊かな恵みを味わうクリスチャンになっていくことができるのです。そしてそれを妨げているのが自己中心でなのです。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを失う者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(24〜26節)

私たちが本当に主の僕として歩むために必要なのは「自分を捨て自分の十字架を負って主に従う」ことです。しかし私たちの内には「そんなの嫌だ」という肉の思いがあるのです。そこに死んでいくのが神様の恵みに生きるクリスチャンなのです。私たちは「私はこれだけのことをしている」とか「なぜ私がこんな目にあわなければならないのか」とか「なぜ私を無視するのか」と言って自分の権利やプライドを主張していないでしょうか?このような考え方に死ななければ主の僕ではないというのです。しかしそのようにへりくだろうとする時に「嫌だ」という思いが出て来るのです。ペテロもあのすばらしい信仰告白のすぐ後に自分の考えと違うことをイエス様が言うと「イエス様そんなことはありません」とその道を妨げようとするのです。私たちは自分の思い、自我に死んでいくことが大切だということです。その時に私たちは神の豊かな命に生かされる者になっていくのです。

「何事でも自己中心や虚栄心からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうつにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえに、神は。キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えてになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえるためです。」(ピリピ2章3節〜11節)

イエス様は元々神様ですから、神の全ての栄光・権威・力を持っておられました。ところが私たちの罪の身代わりとなるために、私たちと同じ肉の姿をもってこられたのです。私たちを救うために十字架に掛かられ、文句を何も言わずに黙々と苦しみの道を歩み続けて下さったのです。ところが私たちは少しでもプライドが傷つけられたり、無視されるといきり立ってしまうのです。

イエス様のこのへりくだりの道に歩むのが「主の僕の道」だというのです。私たちは「そんな道は苦しくてやっていられない」と思うのではないでしょうか?でもここに「主の祝福」があるのです。これが神様が人間に本当の祝福として備えられた道なのです。

私たちはイエス様を「私の全ての全てを支配するお方」と理解して、この決断をする時、大きく人生観が変ります。今まで人と競争し、少しでも上になろうとしていた自分が本当に「生かされている喜び」を感謝することができ、何も恐れない生き様になっていくのです。私たちは自分のプライドや権利にいつまでも執着する生き方をしていないでしょうか?自分の願いや計画を成し遂げるために「利用する」という意味で神様を信じている方も多いのではないでしょうか?私たちはこれを大きく方向転換していくべきです。自分のために生きるのではなく、神の御心が成されるようにと願う者に変えられていく必要があるのです。自分の権利やプライドを主張する所からいろいろな問題が出てくるのです。真のクリスチャンとはそのような自我に死んでいく者であると聖書は語るのです。これは自分の力で到底できることではありませんが、神様に「どうかそのようにして下さい」と祈っていく時に神様はさせて下さるのです。私たちの中にはアダムとエバ以来、「自分の思いを通したい」という思いが常にあるのです。しかし「神様この思いを殺し、あなたの御心を行って下さい。」と祈り、この道を選び取り続けていく時に主は私たちを大いに祝福し本当のクリスチャンの喜びに導いて下さるのです。

私たちは自然に「自己中心」の生き方になっています。そうではなくいつも心を主に向けて「神中心」の生き方に変えられていきたいと思います。神様は私たちの物を全部を取り上げるのではありません。でも私たちが全ての物が神中心に動くように「一切を捧げます」と祈るのを待っておられるのです。職業も家庭も将来も全てをいったん「あなたにお返しします」と祈ることが大切なのです。そうすると今度はそれらが神様から託されたものとなり、聖められ、主のものとして用いさせていただけるようになっていくのです。すると私たちはそれにとらわれること無く自由に喜びをもって用いることができる者に変えられていくのです。「自己中心」の方が自由で楽しいと思っていますがそれは錯覚です。前にも言いましたが私たちは神様の守りと支配の中で、生かされる時本当に意義ある者、生き甲斐を感じる者として生きることができるのです。「私はこういう弱い愚かな者です」と告白し神様に委ねる時に、本当の喜びと平安に歩むことができるのです。ともにそのようにされながら主の約束して下さった恵みの道を歩んでいきたいと思います。

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