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「聖霊の宮」

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2003年6月8日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書第1コリント6章19節〜20節より
牧師 吉田耕三

所有者はだれか?

今日は「ペンテコステ」という教会のお祝いの日です。聖霊が下ったことを記念する礼拝です。ユダヤには3つの大きな祭りがあります。「初穂の祭り」、最初の大麦の収穫がなされ、それを神様に捧げる祭りです。次に7週間後に収穫終了の感謝の祭りそれがペンテコステ(五旬節)と重なるのでこの時にも祭りがあります。残りの1つは「仮庵の祭り」です。「ペンテコステ」の時には仕事も一切休んでみなが集まりお祝いをします。これはイエス様が天に帰っていかれて10日目のことでした。天から大きな音が響きました。そこに集まっていた人々に聖霊が下ったと聖書には記されています。そこで起こったことは、知らないはずの言葉を彼らが語り始めたのです。例えば日本人が英語、フランス語、中国語、韓国語など習ったことのない言葉を語り始めたら驚きますね。彼らはそれぞれの国の言葉で話し始めたのです。そこにいた人たちは一体これはどうしたことかとびっくりしました。その時に、人々を恐れ弱々しく3度までもイエス様を否んだペテロが立ち上がりました。そして「神様がヨエルを通して約束して下さったことが起きているのです。すなわち神の霊が下っているのです」と力強く語り始めるのです。そして聖霊がこの地に下りそのことの「しるし」として異言という現象が現われたのです。そして今の時代、私たちもこの聖霊の力により生かされる者とされたのです。このことを共に学ばせていただきたいと思います。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの承認となります。」(使徒1章8節)

人を恐れ、弱々しかったペテロは大胆に主を証しする者となり、命までも捧げる殉教者としての道を歩む事ができる者に変えられました。同じように私たちにも聖霊が下り、また満たされるならばそのような素晴らしい恵みにあずかることができるようになるのです。「聖霊降臨」は特別な人のためのものではなく「全ての人」の上に注ぎ出されるものです。これが旧約聖書の預言です。私たちはこの恵の中に生かされているでしょうか。もっと私たちもこの恵みの中に生かされる必要があるのではないでしょうか?

この日のペテロのメッセージに人々は心が刺されたのです。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2章37節〜38節)

そしてイエス・キリストの救いを迎えた彼らの心は喜びに満たされ主を賛美し礼拝したのです。今の時代に私たちが必要なのも御霊の満たしではないでしょうか?御霊様の大いなるご支配を私たちが体験していく時、私たちの心は喜びと希望に満たされ多くの人たちを慰め励ます者に変えられることがでいるのです。ではそのためにどうしたら良いのかをコリント書から学ばせていただきたいと思います。

「1あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(19〜20節)

今日の第1のチャレンジは『あなたがたはもはや自分自身のものではない』ということです。イエス・キリストを救い主として信じましたが、自分が「自分のものではない」という思いは非常に希薄ではなかったでしょうか?私たちが神様の祝福にあすかりえない大きな理由の1つが「自分の体がもはや自分のものではない」ことを認めていないことにあります。ある時は神様に捧げるのですが、すぐに自分の物に戻してしまうのです。「私の体は私の物」でないことを明確に知り受け取ることが、御霊に満たされていく大切な条件です。もし私たち自身のものでないならばずいぶんと態度や歩みが違ってくるのではないでしょうか?もし皆さんが今自分で買った家、建てた家を明け渡さなければならないとするならば、とてもつらいことでしょうし、簡単にはできないことだと思います。実はこれが私たちが神様の御霊の支配を受けるのを妨げる一番大きな原因となっているのです。イエス・キリストは私たちが「キリストのために生きるようになる」ために死んで蘇って下さったのです。『あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』この「あなたのために代価を払って下さった」ことをどのように考えることができるか、これが問題なのです。

「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべ達と清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れてこられた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物も全部売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予をください。そうすれば全部お支払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」(マタイ18章23節〜27節)

当時1日の労働者の賃金が1デナリです。そして1タラントは6000デナリです。1デナリを10,000万円としますと、1タラントは6、000万円です。10,000タラントは6,000億円です。とてつもない数字です。イエス様は同じように、私たちひとりひとりのためにとてつもない罪の代償を払って下さっているというのです。その代価として払って下さったのが「十字架」なのです。私たちの罪は他のどんなものによってもあがないきれない重いものです。その罪の代価を支払ってもらったのだから、当然「自分」という所有権を明け渡さなければならないのです。これはある意味とても悲しいことであると思います。自分の物、自分の人生、自分のすべてと思っていたものをすべて神様にお返しする、これは大変な戦いですが、そうするならばあなたの内には神様の御霊のご支配が豊かに与えられていくのです。私たちのすべてては「自分の物ではなく神のものだ」という確信に立たせていただく時に、本当の意味で「信仰の勝利の歩み」が始まるのです。ヨブは苦しみと試練に遭いましたが、後の半生は前の半生よりももっと祝福されたと書かれています。私たちも一切を主に明け渡すその時に、神様はそこに栄光を現わし、尽きないいのちの恵みにあずからせて下さることができるのです。

しかし自分の力、「肉の力」で「自己中心から抜け出し神様の名誉のために生きよう」とすると迷路に入りローマ書7章にある「惨めな、良いことが全然できない自分」に気付かされるだけになります。では私たちはどうしたら良いのでしょうか?

所有権を放棄する

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこことは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12章1節〜2節)

私たちはさまざまな弱さを持つ、この体と心をそのままお捧げすることなのです。「自己中心で自分では良きことのできない私です。ですがそのままあなたに明け渡します」と本当の所有者にお返しするのです。お捧げした後は神様が導いて下さり、神様の栄光の為に自己中心ではなく「神中心」に生きられる者に神様ご自身が変えて下さるのです。私たちに必要なのは「醜い心、自分勝手な心をもお捧げします。聖めてお用い下さい。」これだけ良いのです。

自分の体も持ち物も全ては「私の物ではない」ことが本当に分かると、明け渡しは比較的簡単にできることなのです。私たちは「王様」として心の王座に聖霊をお迎えするべきです。そして所有者である神様がどのように私たちを造り変えても一切文句を言うべきではないのです。アダムとエバ以来、私たちは自己中心に生きるようになったために、私たちは神様の計画からずれた者になってしまいました。私たちは設計図とは大分違うものになってしまいました。神様は設計図通りに良き働きができる者にもう1度再構築しようとなさっておられるのです。これが救いの御業です。

第1は私たちの罪を赦し聖めて、私たちの内に聖霊が宿るようにして下さったのです。イエス・キリストを信じなければ聖霊が宿ることはできません。ですからまずイエス・キリストを指し示し、聖霊を宿して下さったのです。次の段階は、聖霊様に一切を明け渡すことなのです。家のプランナーが聖霊様なのです。聖霊様は私たちを造り変える術を持っています。私たちが神の僕として相応しい者に造り変えることができるのですが、その途中で私たちが口を出してはなりません。しかし私たちは自分の思いと違うとすぐに、プランナーである聖霊様に口出しをしてその前進を妨げているのです。クリスチャン生活にあまり変化がない、「変っていないわけではないけれどもあまり変化がない」と思うことが多いのではありませんか?聖霊様はダイナミックな方です。本当に力をもって私たちを変えて下さるのです。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4章13節)

私たちはすぐに「自分にはできない」と言ってしまいますが、聖霊によるならば私たちにできないことはありません。聖霊様には私たちを造り変えることができるのです。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことにあなたがたにもう一度告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くとたいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19章23節〜26節)

イエス様も『それは、人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。』言いました。聖霊様は私たちを造り変えることができるのですが、それを妨げているのは他でもない「私たち自身」なのです。神様のなさろうとする業を「それは止めて下さい」「それはしないで下さい」と止めてしまうのです。もう1度私たち自身は「自分のものではない」という認識を持ちたいと思います。私のために命を掛けて下さったイエス様に私たちは一切の物を捧げる、これはある意味において当然ではないでしょうか?神様はそれを私たちが自らの意思で捧げることを待っておられます。「今まで全てを自分の物にしてきました。でももう私の物ではありません。今まであなたの嫌われることばかりをしてきましたが、私自身をあなたのためにお捧げします。これを用いてあなたの栄光を現わして下さい」と告白し自分の体をもって神様の栄光を現わしていきたいと思います。それだけではなく自分の家族、夫、妻、子供、親をも本来の所有者である神様にお返ししていくのです。その時に神様はその御力を私たち現し、神の栄光を現わして下さるのです。自分の職場、自分の学校自分の家庭ではなく、神様が遣わした職場・家庭・学校として受け止め遣わされる時、同じ私たちなのですが、全く違う動機、土地からによって生かされる私たちになるのです。そういう意味でクリスチャンは「歩くバイブル」と言った方がおられました。人々が私たちを見て「神様がどういう方なのか」、「聖書とはどんなものであるのか」を見るようになる。そのように私たちはあらゆることを通して神様の栄光を現わせる歩みに導かれて行きたいと思います。神様はそのために代価を払って下さったのです。ともにすべてのものをお捧げして神様の栄光を現わして頂く、私たちの生涯を通して現わしていただくお互いにされていきたいと思います。

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