2003年6月22日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ピリピ2章1節〜18節より
牧師 吉田耕三
今年度の年間目標は「御霊によって歩む」です。『御霊の実は、愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制』という私たちが願うすべてがあるわけですから迷わずに「御霊に歩む」ことを求めていきたいと思います。しかしそれを妨げるものがあります。今月の目標は「自己中心から神中心へ」です。私たちが御霊に満たされて歩むのを妨げる1つが「自己中心」です。
例えば「これだけのことをしているのに、誰も評価してくれない」とか「誰も私のために何もしてくれない」とか。問題点を探っていきますと「自己中心」なのです。では私たちはいかにして「自己中心」をクリアし、今日のタイトル「世の光として輝くために」はどうしていけば良いのかを見させていただきたいと思います。
「御霊の歩み」を妨げるもの・・・自己中心
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人しての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(3〜8節)
人間が持つ問題の90%は人間関係であると言われています。この他にも問題があるかもしれません。しかし本当に私たちを悩ませているのは、人間関係であるというのです。ピリピ教会はとても素敵な教会でした。彼らは決して豊かではありませんでしたが、パウロが孤軍奮闘している時に彼のために献金を送ってきました。ピリピ教会は犠牲的な奉仕をし仕えていく群れであったのですが1つ問題がありました。それが人間関係です。
「ユウデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」(4章2節)
恐らく女性リーダーであったと思います。この2人の間に問題があったのでしょう。彼女らに対して一致するように。教会は一致愛し合う時に「教会」となるわけです。ですからサタンは教会が愛し合わないようにと画策しているのです。私たちが「愛し合う」のを妨げるのが「自己中心」なのです。私たちは自分にとっての損得で判断基準を設けます。あるいは「どうしてこんなにもやっているのに、人はそのことに応えてくれないのだろうか。認めてくれないのだろうか?」こう思いますと、そこから妬み、嫉妬、イライラ、怒り、恨みが出て来るのです。すると愛の交わりではなく、争いの交わりになってしまう危険性があるのです。私たちはアダムとエバ以来、本質的に「自己中心」なのです。これを私たちは根底からひっくり返していただく必要があります。それが「御霊によって歩む」生き方につながっていくのです。また『虚栄』にも気をつけなさい。『虚栄』という言葉は「自惚れ」とか「根拠のない誇り」です。その内容や中身があるのではなく「根拠のない誇り」。ですから自分が少し無視されたりすると頭にくるのです。私たちは変なプライドも持っています。そしてここからどのように解放されて歩むべきか。それが3節の『へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』です。へりくだっている振りをするのは結構簡単です。「へりくだり」とは本当の自分を認めることです。例えば他の人から「あなたって自己中心ね」と言われた時に「そうです」と言えることです。私たちは主の前に罪人です。「あれはやっていない。これもやっていない」と弁解するかもしれませんが、その時にはたまたまやっていないだけかもしれませんが、本質の中には自分勝手な姿、醜い心を持っています。私たちはどう言われても「その通りです」と告白し言い訳や弁解をするべきではないと知るべきです。自分の姿を正直に認ることが「へりくだる」ことです。自分の姿を認めている人はそのことを言われてもイライラしないし、落ち込みもしないのです。それはその自分をイエス様が赦し受け入れて下さるのが分かるからです。私たちは神様の前にも自分の前にも正直な姿を認めていくことが大切です。これが教会の一致のために、また御霊に満たされて歩むために必要なことです
自分の本当の姿
『互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』、皆さんはこう思えますか?
実は私は中々思えませんでした。神学校を出るころになっても本当の意味で私は尊敬できる人はいませんでした。「それまで私の周りにはそれほど素晴らしい人はいなかった」と言えるのですが、実はそれほど自分が高慢であったということなのです。私たちは自分が高慢ですと周りの人の良さが見えないのです。牧師として多くの方の話を聞く中で、普通ならば「良くない」と思えることであったとしてもその人の事情を考えたら「よくその程度で我慢をしたな」ということが沢山ありました。私たちは簡単に人を裁きます。でもそれは高慢であるからではないでしょうか?心の目を開き「人の中にある良き所を見えるようにして下さい。」と祈るのです。そして色々な方と心開いた関係を持つことができると思いませんか?それを妨げているのが高慢や虚栄です。
次に『自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。』とあります。私たちはついつい自分のことばかりを考えます。「自分が傷つけられた」と言いその態度は顔にすぐに出てきます。「自分は我慢している」と思っていますが周りの方には嫌な思いを抱かせています。私たちは他の人のことを考えるべきです。分かりやすいのはイエス様の姿です。『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自身を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。』、私たちのへりくだりはしょせん自分の正直な姿を認める程度ですが、イエス様は神様としてのすべての栄光も力も権威も「私のために」捨ててこの地に来て下さり、十字架の死までも受けて下さったのです。それを考えれば「今自分が受けていることなど小さい」と思えるのでしょう。私たちはイエス様を思い浮かべる時、へりくだり「主の僕」としての道を歩んで行くことができるのではないでしょうか?そして私たちがへりくだる時に、神様は私たちを高くして下さる原則を与えて下さるのです。
「神様がよしとされたこと」と受け取る
「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが非難されるとこのない純真なものとなり、また、曲がった邪悪な時代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだではなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(12〜16節)
「救いは一方的な恵みではなかったのか?『救いを達成する』と言っている」と迷う方もいるかもしれません。救いは一方的な恵みです。私たちはキリストのご性質にあずかる者とされたと聖書に書かれています。その素晴らしい祝福をいただくためには、私たちが主に応答し、従っていくことが期待されているのです。応答と言っても、神様が『みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ』て下さるのですから、「はい。私自身をお捧げします。どうぞそのようにさせて下さい」と言う者に神様はその業を成して下さるのです。そうして私たちは『曲がった邪悪な世代にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くため』の道を歩むというのです。神様は驚くべきことを私たち1人1人を通して現わそうとしています。「自己中心」を全面的に明け渡していく時にそのことが起こります。このことをキリストの姿の中にも見えるのです。イエス様は「なぜ私がこんなことを受けなければならないのか?」とは言わずにそれを受けとめて、全世界、全時代における救いの御業を成し遂げて下さいました。同じように主の前にへりくだり、主とともに歩む者に神様は御業を成して下さるのです。この中に神様に頼る者の姿が描かれているように思います。イエス様が十字架の死にまで従われたのはなぜだと思いますか?それは「父なる神の御心は善である」、たとえ自分が死ぬことであったとしても、それは良きことであるのだから喜んで従っていったのです。神様に対する絶大な信頼の中でそれをしていました。その姿は大嵐の中で眠っていたイエス様にあると思います。ガリラヤ湖を弟子たちとともに渡る舟の中で、荒れ狂う波と風に漁師のプロであったペテロたちも慌てふためいていたました。でもイエス様はその中でも眠っていました。本当に安らいでおられたのです。昨日ライフセンターで水谷さんの講演会がありました。北海道の余市で高校教師の職を捨て、ただ神様に信頼して不登校の学生、非行に走ってしまい立ち直れないない子供たちを無料で預かり生活を共にしています。著書の中で、
イエスは揺れているときは揺れているのです。水に落ちたらまた落ちているのです。それもまた神の御手の中で行なわれている。我が愛する父なる神がわたしに定められた運命というもの、生というものを完全に明渡した状態です。揺さぶられたら揺さぶられたまま。その中に憩うています。ところが私たちは揺れている中で揺れまいとします。それは大変な不安と恐怖。大変なストレスです。あるがままとは現状をそっくりそのまま受け入れることです。これがイエス様の生き方です。もし私たちが本当に神を信じるというならば今どんなに苦しい現実があっても、神が与える現実をそのまま苦しんでみるのです。その苦しみが果てしもなく、ついには「死ぬのかな」という状況になったなら、死んでみようということなのです。ここまで居直ってみると現実は何の恐怖でもなくなります。それが信じるという言葉の実態なのです。出されたものを感謝し満足して受け取ります。「こうでなければならない」と自分の生活にこだわりを持たない、神は愛なのだから、必要であれば与えられるに違いないと信頼するのです。与えられない時には「時が来た」と覚悟を決めそのことを感謝します。実際にそういう生活があるのです。そしてその生活は本当に安らぎです。そのように私たちは歩んでいるのです。と証しをされています。イエス様は波に揉まれていても「これは危険なことではない。神様が良しとされたことである」と受け取っていました。確かにそれを通して弟子たちを訓練されていました。私たちは目の前に嫌な事があると「嫌だ」と思うのです。でもそのことを神様が備えてくれたのだから、一緒にその苦しみを通って行けばよいのです。その苦しみから逃れるのではなくそこに留まっていたら良いのです。そうするならば神様が時至ってもっと大きな祝福と平安を注いで下さり乗り越えさせて下さるのです。私たちは自己中心の方が良いように思っているのですが、神様に預け明け渡す生き方を味わわせていただきたいです。それができるほど神様からの力をいただいて『世の光』として輝く生き方が可能になるのです。あなたの人生は輝いているでしょうか?神様に自己中心を捨てて明け渡していく、そのためにイエス様を見上げましょう。自分の権利が認められないからと言って怒るのでなく、全てを主に明け渡していくのです。そして主の前にへりくだっていく者とされていきたいと思います。そしてともに神様の栄光を味わうお互いにされていきたいと思います。