2003年7月6日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヤコブ3章13節〜18節より
牧師 吉田耕三
私が救われたのはバイブルキャンプでした。リーダがキャンプの後にまとめたものを送って下さいました。その中にリバイバルについて書いてありました。「リバイバル」とは神様の特別な祝福が注がれることを言うのですが、聖霊がこの地におとずれるのです。20世紀初頭にウエールズでもリバイバルがありました。彼らは神から離れた民であったと言います。そこに突然聖霊の傾注が起こりました。その背後にはある方々の熱心な祈りがありました。2週間で2万人の人が教会に集まり始めました。刑務所に入る人もいなくなり酒場も全部閉じられ、そこが神様をほめ称える場所になりました。これは今の時代でも各所で少しずつ起きています。グゥアテマラのアルモロンガは毎月30〜40の人たちがその町の刑務所にやってくるのです。しかし聖霊のわざが起き始める時に、罪を犯す人がいなくなってしまいました。1989年に4つあった最後の刑務所が閉じられました。地域の90何%の人がクリスチャンになったそうです。私たちもぜひともこの神様の御業を生涯の中で見させていただきたいと思っています。しかしそれを妨げているものが何か? それが今日記されている箇所であります。 神の業を妨げるもの・・・罪
「しかし、あなたがたの心の中に、苦いねたみや敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」(14〜16節)
私たちは「自分はそんなに酷い状態ではない」と思っているのです。クリスチャンになる前も悪い事をしていても「そんなに悪い」とは思っていないものです。でも自分の姿を見ると問題にするべき事柄はたくさんあると思うのです。リバイバルを求めたオズワルド・スミスという方がいます。実際にリバイバルを経験し、主を求めていった。その中でリバイバルを妨げている罪を羅列しています。
(1)私たちはすべての人を赦しているでしょうか。私たちは、心の中に敵意、憎しみ、悪意を抱いてはいないでしょうか。私たちは恨みの心を抱いてはいないでしょうか。また人と和らぐことを拒んではいないでしょうか。
(2)私たちは怒らないでしょうか。心の中に怒りがわいてこないでしょうか。私たちは、また短気を起してカッとなりはしないでしょうか。時には憤激しないでしょうか。
(3)妬みの感情はないでしょうか。他の人が自分より多く用いられる時、その事が私たちを羨望させることがないでしょうか。私たちは自分よりもよく祈り、よく説教し、より立派な働きをすることができる人に妬みを起こしはしないでしょうか。
(4)私たちは忍耐を失い、イライラしないでしょうか。小さいことが私たちをいらだたせ悩ますことはないでしょうか。どんな場合にも笑顔で静かに、取り乱さないでいることができるでしょうか。
(5)私たちはすぐに、あることに対して気を損じはしないでしょうか。人々が私たちに注意を払わずにいる時、また声も掛けずに通りすぎる時、気にさわる様な事はないでしょうか。他の人たちが重んぜられ、自分がないがしろにされる時、私たちはそれをどう感じるでしょうか。
(6)私たちの心に誇りはないでしょうか。私たちは高ぶってはいないでしょうか。あるいは自分自身の立場と、自分がした事を買いかぶってはいないでしょうか。(7)私たちは不正直ではないでしょうか。本当に私たちの仕事は開放的で、少しのやましい所もないでしょうか。私たちは量目斤目を使いごまかすようなことをしなかったでしょうか。(8)私たちは他人の噂をしなかったでしょうか。他人の品性を害したことはないでしょうか。他人の事を言いふらしたり、他人にお節介をしたりしたことがなかったでしょうか。(9)私たちは愛の心を持たずに苛酷に他人の批判をしなかったでしょうか。いつでも他人のあら捜しをやり、他人の短所を捜すのにきゅうきゅうとしてはいなかったでしょうか。(10)神に属する物を盗んではいないでしょうか。私たちは神に属する時間を盗んではいないでしょうか。捧げるべき献金を手元に隠してはいないでしょうか。(11)私たちは世俗的ではないでしょうか。私たちはこの世の華美、あるいは見栄などを愛してはいないでしょうか。(12)私たちは盗みをしなかったでしょうか。私たちに属さない小さな物を盗まなかったでしょうか。(13)他人に対し苦い心を持たなかったでしょうか。心の中に憎しみが住んでいないでしょうか。(14)私たちの生涯が軽薄さに満たされていないでしょうか。私たちの行動は見苦しくはないでしょうか。私たちの行動によって、世間の人が彼らの仲間であると思わないでしょうか。(15)だれかを傷つけて、その人に償いをしていないというようなことはないでしょうか。ザアカイの精神が私たちの中にあるでしょうか。神が私たちに示された多くの小さな事物を、果たして償ったでしょうか。
(16)何事かを思い煩ったり、気遣ったりしてはいないでしょうか。私たちは物質的および霊的な必要について神に頼ることに失敗してはいないでしょうか。私たちはそれらの物のために、絶えず取り越し苦労をしてはいないでしょうか。
(17)私たちは肉欲的な思いを持ってはいないでしょうか。不純な、清くない想像を心に抱いてはいないでしょうか。(18)意見を発表する時に真実を語っているでしょうか。誇張した話をしたり、誤った印象を人に与えたりはしなかったでしょうか。偽りを言ったことはないでしょうか。
(19)不信仰の罪を犯さなかったでしょうか。神が私たちになされた全ての事柄にも関わらず、私たちはなお、神の御言葉を信ずることを拒みをしなかったでしょうか。私たちはつぶやいたり、不平を言ったりはしてしないでしょうか。
(20)祈らない罪を犯さなかったでしょうか。私たちは他人のために祷告しているでしょうか。私たちは祈っているでしょうか。祈りのために、どの位の時間を費やしているでしょうか。私たちの生活から祈りを追い出してはいないでしょうか。
(21)神の御言葉をないがしろにしてはいないでしょうか。私たちは毎日何章読んでいるでしょうか。聖書を学究しているしもべでしょうか。私たちは、私たちの霊的食物を聖書から引き出しているでしょうか。(22)キリストを公に言い表すことを怠ってはいないでしょうか。イエスを恥としていないでしょうか。世の人に取り巻かれている時、口をつぐんではいないでしょうか。私たちは毎日証しをしているでしょうか。(23)魂の救いのために重荷を持っているでしょうか。失われた者に対する愛を持っているでしょうか。滅びつつある人に対して、同情の思いがあるでしょうか。(24)私たちは私たちの初めの愛を失ってはいないでしょうか。そして、私たちは、最早神のために燃えてないのではないでしょうか。
これらのものは消極的に、積極的に神がご自分の民の中に行なわれる御業を妨害しているのです。正直にこれらを認め、それに適する名前をつけようではありませんか。罪とは神が用いられる言葉です。そして私たちが罪を犯したことを認め、言い表してそれを放棄するのが早ければ早いほど、私たちは神が私たちの祈りを聞き、大いなる御力をもって働かれることを期待するのが速やかになってくるのです。なぜ自らを欺くのでしょうか。私たちは神を欺くことはできません。
私たちはこれを1つ1つ読みながら、ほとんど「その通りです。」と言わざるをえないのではないでしょうか。こういう事柄が私たちを神様の恵みから締め出してしまっているというのです。
神のわざを行なうために私たちに必要なこと
「まことにまことにあなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14章12節)
『わたし』とはイエス様のことです。イエス様が行なう業よりももっとすごいことを私たちがすると書かれているのです。そういう生活をしているかと言いますと、ずいぶん離れていると思いませんか?神様は私たちに素晴らしい祝福を用意しているのです。ペンテコステ以来聖霊は来ており神様の祝福にあすかり得る者となっているのです。にも関わらず私たちの生活の中にはこのような生き生きとした信仰が薄められてしまっています。私たちはリバイブされていく必要があるのではないでしょうか。そういう意味で御言葉の1つ1つを考えていくべきではないかと思います。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章8節〜9節)
私たちは言い訳や弁解をする必要はないのです。私たちはこう言われると「頑張ってやらなければならないのではないか」と思います。だから苦しくなるし、言い訳や弁解が出てしまうのです。そうではなく「そうでした。私の中には確かにそういう物があるんです。」と認めていくことが大切なのです。そうするならば『神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』。あなたの中には妬む心はありませんか?他人が自分よりも上手くいくと何か面白くない気持が出て来ませんか?自分の方が上だと感じている時はその感情は出てこないですが、自分が下になったと思う時には何か面白くない感情が出て来るのです。こういった気持が出てきますと、その人に対して攻撃したり、いかにして自分を上にするかという思いになっていったりします。すると苦しくなってくるのです。私たちはこういったことから解放されることができるし、解放されるべきです。妬みや嫉妬は持っていて何か得がありますか。それらは持っていても全然役に立たないのです。これが私たちをかえって苦しめたり辛い思いにさせたりするのです。正直に自分の弱さを包みなく告白することが大切です。そうする時に神様は私たちをそこから引き上げて下さいます。今月の目標は「裁きとうらむ心からの解放」です。解放されるためには、それらがあることを認めるのが大事なのです。言い訳や弁解ではなく「神様、それらを私から取り去って下さい」と祈っていくのです。先ほど読みました文章を1つ1つ読んで素直に「その通りです」と言えれば良いのですが、「そんなことはおかしい」とか「そんなこといちいち言わなくてもいい」などと弁解や言い訳が出るようならば今は少しストップして、心から「その通りです。」と言わせていただくことが大切なのです。そうする時に神様は私たちをそこから解放して下さいます。「自分で頑張って変えなさい」ではなく、正直に素直にへりくだり「そういう者です。」と認めていくことを神様は求めています。なぜならそこに神様は働くことができるからです。
それに対して妬みや嫉妬や裁きの気持が出て来た時には「当たり前」と思っているのです。肉によって歩んでいますので、そんな気持になるのです。例えば普段から自分が面白くないと思っている人が苦しい目にあっていたりすると「少しくらい苦しんだ方がいいのだ」という思いを感じていながら自分が悪いとは思っていないのです。これは明らかに『そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。』、一見正しい考え方であるように思うのですが、実は『地に属し、肉に属し、悪霊に属する』というのです。ですから『ねたみや敵対心があるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。』、そういう心を放っておきますと、心の中に邪悪な悪い心がふつふつと沸き上がってきて、結局は自分をがんじがらめにし苦しむのはその人自身です。私たちはそういう心が出て来たならば即座に「これは捨てるべきもの」とすぐに気付いて捨て去る決断をしていくことが大切であろうと思います。では神様から来た時にはどうなるのでしょうか?
「しかし上からの知恵は、第一に純真であり、次ぎに平和、寛容、温順であり、またあわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」(17〜18節)
こういう人は神様からの平和をもっていますから、心には平安が満ち、いろいろな人に対して純粋な愛の動機でいろいろなことができるのです。人の事を赦すことができる、愛することができ、また道理にかなった教えを素直に受けとめることができる温順な心が与えられます。「少しくらい苦しんだ方が良い」とは思わず憐れみ深くあるのです。えこひいきがなく見せかけの心のない者になっていくのです。私たちはこの様な生き方に瞬間瞬間に変えられていくことが大切なのです。ところが騙す者は「みんな少しくらい思っているのだから大丈夫」とその思いの中に留まらせるのです。その結果として私たちからは喜びが消え失せ、力が消え失せ、神の証し人とは名ばかりになってしまうのです。「私ばかり自分の罪を認めるのは不公平だ」と思うかもしれませんがそういったものを取り除いていく時に、神の恵み、神の祝福が注がれていくのです。私たちが罪を取り除かなければ、喜びに満たされ、力に満たされて、感謝に溢れていた人が不平とつぶやきと嘆きに満たされる人に変ってしまうのです。そんな生き方をしたいですか?神様は私たちを通して素晴らしい祝福を与えようとして下さっている。私たちはそれを妨げるものを取り除いていくべきです。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第2歴代史16章9節)
神様と違う考えが全く取り去られている者。今ここにあった事柄を「その通りです」と言って聖め赦していただく者ということです。その人を通して御力を現わして下さいます。そして私たちの心が神様と1つとされていく時に、そこにリバイバルが起こります。私たちもそのような祝福と恵みにあずかっていく者となりたいと思います。私たちもこの世代に神様が本当に働いて下さり「この地でも神様は生きておられる」と告白できる生き方に導かれていきたいと思います。今年は「御霊によって歩む」、これがポイントです。そのために妬み、嫉妬、憎しみ、恨みに注意深くありましょう。これらは悪霊にまで関わってきて自分で自分がコントロールできない状態にまでなってしまうのです。そして私たちの生活を根底から揺り動かし苦しいものにしてしまうのです。ですからすべての罪を告白していきたいと思います。特に妬み、敵対心に注意し、どんなに正当に感じたとしてもそれらの罪があるならば、告白して温順な心を持ち主の恵みを受け継ぐ者にされていきたいと思います。
「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(第1テモテ6章4節〜8節)
先月は自己中心について学びました。競争心から妬みが生じてきます。私たちはそれをどうすればよいのでしょうか?『満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。』
「あれが欲しい。これが欲しい」「あれがない。これがない」ではなくて、今受けている物を感謝する心からは妬みや嫉妬は出てきません。あの人がどんなに素晴らしいものを持っているのも感謝ですが、自分もこんなにされていることも感謝です。主を喜ぶ心に生きたいと思います。その時に妬みや嫉妬からも解放され、主にあってすこやかな生き方になっていくのです。ともに自らの弱さを示された時には告白しましょう。そしてそこに聖めをいただきましょう。いつでも与えられている物に感謝する心を学んでいきたいと思います。