礼拝/祈り会のライブ中継ページはこちらから

「キリストにあって歩みなさい」

この記事は約12分で読めます。

2003年7月13日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書コロサイ2章1節〜7節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義執事

福音を語るパウロの態度

「同時に私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。」(コロサイ4章3節)

 この箇所からこの手紙が牢獄で書かれたことが分かります。実はパウロは自分が牢に入れられることを知っていました。 

「幾日かそこに滞在していると、アガボという預言者がユダヤから下って来た。彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と彼が答えた。彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに。」と言って、黙ってしまった。」(使徒21章10節〜14節)

パウロはすべてを神様の御手にお委ねしてエルサレムに向かって行きました。アガボの預言通り、パウロは同胞のユダヤ人に訴えられ投獄されます。しかしパウロは牢の中にあっても福音を語り続けたのです。そんなある日コロサイの兄弟姉妹が間違った教えに翻弄されていることを聞いたのです。パウロはとても心を痛めました。本当ならばすぐにでも飛んで行きたいのですが、牢の中にいますのでコロサイに行くことはできません。でも「これだけは伝えておきたい」という切実な思いで手紙を書き、託したのです。

「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほかの直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知って欲しいと思います。」(1節)

 パウロは同情を求めているわけではなく、自分が何のために牢に入れられ、何のために戦っているのかを知って欲しいということです。パウロはユダヤ人たちに訴えられたわけですが、ユダヤ人たちは証拠を示すことができなかったのです。ですから裁判をしていた総督フェストとユダヤの王アグリッパもパウロが死や投獄に価することをしていないのは分かっていました。普通ならば釈放されるのですが、パウロは皇帝カイザルに上訴しました。それは裁判が行なわれている間に、主から、 

「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」(使徒23章11節)

彼は励ましを受けていますからパウロはカイザルに上訴したのです。その結果投獄されてしまったのです。この選択はローマ帝国の首都ローマにおいて福音を語るチャンスにもなるわけですが、それは常に死と隣り合わせであることを意味します。

「それは、この人たちが、心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」(2節)

 彼は救いがはっきりしておりますから、恐れや不安はありません。それに天地万物を造られた主が自分と共に生きておられるという確信がありました。この姿勢がコロサイの兄弟姉妹たちに励ましを与えることになるというのです。間違った教えとはイエス様が人であり神であること、また死んで葬られた人が蘇られたことを否定するのです。異なった福音は人間の知恵や知識が全てとなります。そして行ないによって救われるかのように救いそのものを変えてしまうのです。となると救いは個人の能力に左右されることになり、いつの間にか分からなくなるのです。救いが分からなくなれば不安が出て来ます。ところがパウロは牢にいてもそこから逃げ出さず、福音のために戦ったのです。それは救いが確かなものであり、自分の語る福音が救いをもたらし、その福音は揺るぎのないものであるからです。パウロが恐れずに頑張っている姿が彼らの励ましになっていくのです。自分の姿を通して間違った教えには救いのないことを教えさとそうとしたのです。それに困難の中にいる兄弟姉妹を見ても知らない振りをするでしょうか? パウロは『あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たち』と語るように彼らに1度も会ったことがないのです。しかしパウロが彼らの知らせ聞いた時にとりなしの祈りをしたのではないでしょうか? なぜならクリスチャンはイエス様から愛をいただき、愛によって結び合わされているからです。ですから私たちはお互いを「兄弟」「姉妹」と呼び合うわけです。さらにパウロは間違った教えと戦うには『理解をもって豊かな全き信頼に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるため』ことの大切さを知っていました。ですから彼らに全き信頼と神の奥義が与えられるように祈っているのです。 

「 このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのです。私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことなのないためです。」(3〜4節)

パウロは皮肉を込め『隠されている』という表現を使っています。というのは異端者たちはわざと教えを難し隠すのです。隠されていれば「知りたい」と思いますし、教えを神秘的にすると「そこに何か力があるのではないか」という思いになってしまうのです。神様の福音は隠されてはいないのですが、『隠されている』といってそのことを批判しているのです。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすれば、きっと与えられます。」(ヤコブ1章5節)

『だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神』なのですから、隠されてはおらずすべての人が真理を理解できるのです。そして福音というのは歴史の中で起こったイエス・キリストの十字架に現わされいるのです。当時の人たちには「十字架」と言えば「イエス・キリスト」と分かるのです。何も隠す必要はないのです。こうして福音は人々に現わされているのです。ただそれを聞いて信じるかどうかは、その人自身が判断することになります。また福音に生きる者は無用の議論を退けます。議論とは一見勝ったかのように見えますが、負けた方は傷付いて、それ以上それを求めなくなります。パウロは福音を語るだけではなく、自分の生き様が証しであると言いたいのかもしれません。

「私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。」(5節)

パウロの体はコロサイにはありませんが、霊においてはそこの場所にいると言うのです。イエス様は『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(マタイ18章20節)』と言いました。もちろんパウロはイエス様ではありませんが、この御言葉を思い出していたのではないでしょうか。「私たちは一緒なのだ」と強調したかったのではないでしょうか。さらにパウロは間違った教えに翻弄されている中でも、教会が秩序を保ち信仰に堅く立っていることを喜んでいます。「この問題。あの問題。だからこうなっている」という手紙を受け取ったならがっかりするでしょう。この手紙を受けとりコロサイの兄弟姉妹たちは慰められたのではないでしょうか。自分たちのことを心掛けてくれているパウロの心遣いが伝わってくる気がします。

4つの原則

「あなたがたは、このように主キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」(6〜7節)

 パウロは「あなた方はイエス・キリストを受けいれたのだからその信仰の上に立ち、キリストにあって歩みなさい」と信仰の再確認をしています。キリストにあって歩むことはクリスチャン生活の基本だからです。ここに4つの原則が述べられています。 第1に『キリストの中に根ざす』

植物が根を張るのは、土の中に含まれる養分を取るためです。ドンドンと根を張り栄養を取って成長するのです。同様に『キリストの中に根ざす』とは御言葉に聞き従う歩みをすることです。人間の知恵や知識によりある程度理解することはできますが、御言葉を解き明かすのは聖霊であるのです。個人の能力は助けになるかもしれませんが、時にその能力が傲慢にさせ、御言葉を聞けなくすることもあるのです。御言葉を素直に聞かなければならないはずなのに、自分の中で組み立ててしまうのです。それから嫌な御言葉に出会った時に自分の都合にあった解釈をしたくなるのではないでしょうか?「この御言葉はこう言っている」と半分は分かっていても、自分に都合良く解釈したり、都合よく理解して受けとってしまうのです。その弱さが私たちにあることを自覚しなければならなりません。あなたは御言葉から栄養を得ているでしょうか?

「私はあなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」(詩篇119篇14節〜16節)

「御言葉に代わる宝があるか」と詩篇記者は語るのです。私たちは日々御言葉に教えられ、力づけられ、慰めを得る歩みとなって、同じ告白をしたいものです。それには自分の心を空にし、聖霊に教えられるように祈りつつ御言葉を聞く必要があります。自分の能力や知識は助けにはなっても本当に説き明かすのは御霊様ご自身であることを忘れてはなりません。

2番目にはキリストの上に『建てる』

 家もしっかりとした土台の上に建てるのです。同様に信仰の土台はイエス・キリストです。パウロもこの事を重要視しているので彼らの信仰を確認して『主キリスト・イエスを受け入れた』と言っているのです。 

「この方以外には、だれによっても福音はありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒4章12節)

キリスト以外の土台を置いてはなりません。もし違う土台を置いたならばどんなに建物が立派であっても、揺らいでしまうのではないでしょうか?パウロは土台がしっかりとしていたからこそ牢にいても壊れなかったのです。

「ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。」(使徒16章31節)

 とても単純な御言葉です。これは時を越え、時代の変化に左右される事無く、常に真理であり私たちに伝えられています。 3番目に『信仰に堅く立つ』

 根を張っていない植物は日照りに耐えられません。信仰も困難や試練にあった時に、御言葉に信頼する歩みでなければすぐに倒れてしまいます。それには御言葉を聞くだけではなく、生活の中に入れ実行する歩みをしなければならないのです。自分の物にならなければ困難や試練に遭った時に御言葉に信頼することはできないないでしょう。いろいろな場面や時に御言葉から教えられ自分の物になっていればどんなことがあっても信頼できるのではないでしょうか? もし御言葉が信頼できなければ、不安や恐れ、あるいはその問題を解決するために御言葉に代わる物を熱心に探し回るでしょう。そんな時には素直に聞けない御言葉、嫌な御言葉を選び「なぜ聞き従えないのか?」「なぜ嫌なのか」を考えてみてはいかがでしょうか? もしかしたらその中にあなたが気が付かない問題が隠されているかもしれません。半分は心の中で分かっているからこそ嫌がっているのです。問題があるのですが、問題を見たくないから外して通り抜けるか、自分に都合良く解釈して受け取るかです。問題が明らかになった時にあなたは自分を選ぶのか神様を選ぶのかにより、日照りに耐えられる信仰、すなわち困難や試練にあっても信仰に堅く立ち続けられるかが決まるのです。「臭い物に蓋」と言う言葉があります。不正な行為や醜いことが起こってもその根源を明らかにせず世間に知れることを恐れ表面を取り繕うということです。私たちも信仰においてこのようなことをしていることはないですか? 臭い物に神様の光を当ててもらう必要があるのです。光を当てられ蓋が取られ、信仰が聖められ不純物が取り除かれるのです。自分の力ではできないのです。なぜならば開けたくないから自分で蓋をするわけです。そうではなく神様の光が当る時にその蓋が取られ自分の中がはっきりとされるのです。そのような経験を経てこそ、御言葉の真実さ、確かさを日々の生活の中で味わい立たせられていくのです。自分で立つのではないのです。 4番目には『あふれるばかりに感謝しなさい。』

1個、2個ではなく『あふれるばかり』です。困難や試練に遭っている時あなたは溢れるばかりの感謝をすることができますか?正直私には難しです。困難や試練に遭っている心は痛み元気を失っています。その時に感謝するのです。『すべての事について感謝しなさい。(第1テサロニケ5章18節)』。どうしてそれができるであろうかと思います。しかし逆境の中にあるからこそ感謝が必要なのかもしれません。平安な時、喜んでいる時、楽しい時には容易にはわざわざ感謝を探す必要はありません。それ自体が感謝なのですから。しかし逆境の時に感謝を探すことにより今まで全く気がつかなった神様の恵みを発見できるかもしれません。あるいは今まで当たり前に感じていたことが神様の憐れみであり思いも寄らない恵みであったことに気付かされ守りを知る時なのかもしれません。また感謝は神様と自分だけの時間を作り出します。人の慰めも時には必要ですが本当に1人になる事は大切です。その時は神様と1対1で向い会う時なのです。神様とだけ向い会い「神様どうしてですか?なぜ私だけが苦しいのですか?他の人はあんなにも喜んでいるのに」と正直に素直に訴えかける時こそが、神様の愛や憐れみや恵みを深く知る時、すなわち感謝な時になるのではないでしょうか?こうでもしないと私たちは神様と面と向い合わないのです。毎日がハッピーで平安であったならその内に「神様は要らない」となってしまいます。ですから時に困難や試練に遭うことによって神様の方を向くのです。当たり前の幸せや恵みが実はそうではないことを困難を通して教えられるのです。感謝は神様をより深く知る時であり、信仰に向わせる時でもあるのです。ですから信仰生活には欠かせないものなのです。

 パウロの時代から現代に至るまで、恐らく未来においても同じでしょう。間違った教えは蔓延し続けます。現在は情報社会です。多くの情報が簡単に手に入れる事ができます。しかしこのことが多くの混乱を引き起こしているのです。何が本当に正しいのかを分かり難くしています。さらにそこに人間の知識力が働くのです。多くのことを知りたいと「理性」が重要視されていくのです。難解な物を見ることによって自分が知識を得たように思うのです。そして単純な教えが軽んじられてしまうのです。『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。』。簡単でしょう。分かりやすい言葉です。聖書はそのようにしてはっきりとしたメッセージを語っています。 

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(第1コリント1章18節)

この御言葉は時代を超え、時代に左右されることなく常に語りかけ、多くの励ましを与えてくれています。パウロは福音を語り福音に生きました。牢に入ることを甘んじて受け、死を覚悟して福音を語りました。そのパウロが自らの命を掛け私たちに豊かな人生を送る鍵は「キリストにあって歩むこと」であると語るのです。あなたはどこを向いて歩んでいるでしょうか?心静めて神様の前にお祈りいたしましょう。

タイトルとURLをコピーしました