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「さばいてはいけません」

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2003年7月27日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書マタイ7章1節〜5節より
牧師 吉田耕三

今年は「神の御霊によって歩む」というのが目標です。そしてその妨げとなる「裁きとうらやむ心からの解放」が今月のテーマです。今日はその「さばいてはいけません」ということをマタイ7章から学ばせていただきたいと思います。

裁きと判断の違い

神様は私たちが「神の栄光のために生きる」ことを聖書を通してはっきりと教えて下さっています。もしずれている方がいましたら、それをピシッと直して下さい。人間は神の栄光のために生きる時に、力と喜びが出て来るのです。私たちはさまざまな物を手に入れて幸せになるかと言いますとかえって虚しくなります。しかし自分の成した犠牲や痛みが他の人の喜びや生きがいとなるならば、自分が犠牲となっているにも関わらず喜びとなって返ってきます。その時に私たちは虚しい生き方から解放され充実した生活をすることができるわけです。ではもう一歩進んで具体的に「栄光のために」生きるにはどうしたら良いのでしょうか?「愛し合う」ことであると聖書は言いました。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ3章34節)

本当に愛し合えたら素晴らしいでしょう。自分が愛され、受け入れられ、赦されているとしたら、そこに爽やかな平安や希望があるでしょう。私たちはそのような生き方にともに歩ませていただきたいのですが、残念ながらそうなっていないと思いませんか?それは本日の『さばいてはいけません。さばかれないためです。』、このことをしっかりと受け取ることがないからかと思うのです。

「1さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(1〜2節)

『さばいてはいけません。』これがまず私たちが心して聞かなければならないことです。私たちは「裁く」という強い性質を持っていると思います。試しに人と会っている時に1時間くらい自分の心がどんな動きをするか見てみると次々と裁きの心が出て来る自分に気が付かれると思います。結論から言いますと相手が悪い時にだけ裁いていると思っていますが、実際は自分の願い通りでない事は大体裁いていると思います。どんなことでも自分の願い通りでないと、95%相手が正しくても残りの5%は裁くのです。四六時中していますから、そればかり見ていると嫌になってしまいます。今日大事なのは「裁く心」が私たちの心を支配しているのを気付くことです。その時に私たちはそこから解放された道をともに歩ませていただくことが必要であるのです。そこで『さばいてはいけません。』という意味を取り違えてしまうことがよくあります。一切のことを『さばいてはいけない。』のでしょうか?これは「判断してはいけない」と言っているのではありません。6節以降に、

「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(6節)

 これは「神の素晴らしい福音に対して敵対する人にはそれを伝えなくてよろしい」ということです。言いたいことは「きちんと見分け判断しなさい」ということです。 

「 こういうわけで、あなたがたは、火によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ7章20節)

見分けることは悪いことではないのですか、裁いてはいけないのです。これは例えば私の字を見て、「あまり上手ではないな」と思うのは問題ないのです。でも「汚いな。もっと綺麗に書けばいいのに」と思うと既に裁きが入っているのです。事実を事実として見るのは問題がありません。判断は良いのですが、それを自分の価値観で良いとか悪いとか思うことは間違っているのです。これは裁きになってしまうのです。判断して正しい行動を取ることができるのですから良いのです。しかしそれを裁いてしまうと、その人に対して否定的な思いや気持になってしまう。これがいけないというのです。

なぜ『さばいてはいけません。』なのか?それは『さばかれないためです。』

「人にそういう事をしていると、自分も同じことをされる」とか「他の人に良いことをしていなさい。いつか自分も良い事を受けるのだから。」と言いますね。これは経験的に人々が得た考えであろうと思います。確かにそういう事もあるかもしれませんが、ここで直接的に言っていることは、人からと言うよりは神様から『さばかれないためです。』

『あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』。私たちはついつい他人のことを厳しく見てしまうのですが、そのことは神様からもそのように「裁かれてしまいます」というのです。それなら「私は地獄に行かなければならないのかしら?」と思いますが、そういう意味ではありません。人間には罪の結果として永遠の裁きがありますが、クリスチャンの中にも神様が聖めの裁きを成すことがあるのです。

「なぜなら、神のさばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」(第1ペテロ4章17節〜19節)

裁きがクリスチャンから始まるというのです。これは滅びの裁きではなく、聖めの裁きです。皆さんがとても嫌なこと、悲しいことの中にもしかしたら、神様が聖めのためにあえて裁きを赦されているという事もあるかもしれません。

「 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」(第1コリント11章32節)

私たちは真剣な心で神様の前に出て歩む必要があるということだと思います。『あなたがたが量る通りにあなたがたも量られる』のです。私自身が裁かれる経験をする時に「でもこのことは自分がやってきたことであるな。」とつくづく思う面があります。さらに、

まず自分の問題点を処理する

「また、あなたがたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向って、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」(3〜4節)

「あなたの目の中のちりを取ってあげましょう。」と言うのですが、その本人の目の中には梁(柱)が入っているのです。私たちが自分の中の裁きをきちんと処理せずに、人の問題点を指摘しようとするのは、これと同じことですと言うのです。時々「あの人はもっとこうしたら良いのよ。」「この人はこうするべきよ。」と裁きの心を持ってしまうのですが、それは自分の目がよく見えていないのに、人の目の中の物を取ってあげようとする滑稽なものなのですと聖書は語るのです。ですから

「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(5節)

『偽善者』のもともとの意味は「役者」です。簡単に言えば「良い人の振りをする」ということです。それは『偽善者』である、私たちは自分の中にそれがないか吟味していく必要があると思うのです。「人のために」と思っていてもよく自分の心を探ってみますと、そうでないことがほとんどであると思います。「直してあげよう」とその人のためにしているように見えますが、自分の思い通りにならないことはすべて裁きなので、愛に見せかけてはいても、その実愛ではないのです。人の前で良い恰好をするべきではありません。自分をわきまえる必要があります。そしてまず『自分の目から梁を取りのけなさい。』。実際これをやり始めると、悔い改める瞬間から裁いている自分に気付かれると思います。そういう自分を見ると思います。それを取り除けるのは大変で辛い苦しいことです。そういう時に「だってあの人がこうしたから」と人のせいにしてしまう。そうではなくて「自分の中に裁く心がある」と認めることはあまり嬉しくないし、したくない、辛い悲しいことです。しかしそれを自分が味わってこそ、初めて他の人の問題に触れることができるようになっていくということなのです。

 「泥棒にも三分の理」という言葉があります。多くの方の話を聞く時に、表面的に現われたことに関していうならば、悪いことであったにしても、よく聞いてみると「私でも同じことをしていたかもしれない」と思うことが数多くあります。それよりも「よく頑張った」と思える事柄を思います。ですが私たちは多くの場合は表面から見たことだけで裁いてしまっていることが多いです。私たちの中に本当にその心を探らせていただく必要があるのではないかと思います。 

「 兄弟たち。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分のだけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6章1節〜5節)

 他の人を見て「あのようにしたら良いのに」「このようにしたら良いのに」と思いますが、しかしその人の立場になったならそうは言えなくなってしまうことがたくさんあるような気がします。『おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して、誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。』。私たちはそのようにして自分の中の裁く心を取り除いていただくことが大切なのです。その時に何が起きるのでしゅうか? 『はっきり見えて』と書かれています。多くの場合私たちは推測で人の心の中を探り思い込んでしまうことがあります。私自身も同じなのですが、お話しを聞きその問題がどんなに大変な事であるかと分かってくる時に、裁く心が同情の心に変り、さら深く話しを聞くと、フッと「この人の本当の問題はこれかもしれない」と思える時があります。本当によく話しを聞かないと人間は表と裏だけではなく、さらに奥があります。なかなか本音が出てきません。でもそこが分かってくる時に、私たちの中にその方を思いやる心が出て来ます。そういう思いの中でアドバイスを言わせていただく時にその方も受け取る事ができて、そこから解放されていったという経験を何度かしました。私たちの中にまず自分の中の梁を取り除ける作業をぜひともさせていただきたいと思うのです。具体的にその梁をどのように取り除けば良いのか? この御言葉は私たちを多くの束縛から解放する素晴らしい約束であると感じています。 

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうるにはありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は、真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章8節〜9節)

 『もし私たちが自分の罪を言い表すなら』、これが必要なことです。ある方は「私は人のことをとやかく言う暇はありません」と言っていました。自分の中に解決されなければならない問題がいくらでもあり、他人の事をとやかく言う暇などないのです。よく考えたら本当にそうであると思いますね。そんなにしていないつもりなのですが、本音を見てみますと裁く心が多くある自分に気が付きます。1つ1つ悔い改めているなら、他人のことをとやかく言っている暇はないということです。でもたちがそのように自分の罪を言い表す時に『神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』、その時に私たちははっきり見えて、ちりを取り除くことができます。兄弟姉妹の痛みを担い合いながら、それから解放される道を進む事ができるようになります。私たちもぜひともその歩みをさせていただきたいです。教会の交わりとは「裁かない」。これがとても大切です。ですがゆくゆくのゴールは、 

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4章15節)

私たちが互いに愛を持って真理を語れるような者にならせていただきたいと思うのです。その時に、教会は真にキリストの体となり、互いに励まし合い、愛し合い、引き上げられ主の似姿に変えられていく場所となっていくのです。この様な道を選びとり、またへりくだっていく者でありたいと思います。それこそがまた神の祝福を頂いて歩める秘訣であることを覚えていただきたいと思います。最後にダビデを思い起していただきたいと思います。素晴らしい信仰者であった彼ですが、とんでもないしくじりをしてしまいました。自分の忠実な僕ウリヤの妻を奪うということをしてしまったのです。そのことをずっと騙して隠してきたのですが、ある時に神様から預言者ナタンを遣わしそのことを指摘します。

「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も喪っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げ、自分のところに来た旅人のために調理をしました。」するとダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は憐れみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」(第2サムエル12章1節〜6節)

他人のことであるならば、そんな大きな罪を犯しているダビデさえも厳しく言うことができたのですが、自分に対しては言うことができませんでした。私たちはそういう意味で心して『さばいてはいけません。さばかれないためです。』この言葉を四六時中心の中に思い巡らせていただきたいと思います。

私たちには分からないものが沢山あります。その時の背景や状況も分からない。裁くということから遠ざかっていきたいです。そして互いに愛し受け入れ合う者となっていきたいと思います。

「 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3章12節〜15節)

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