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「信じる者に働く神の力」

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2003年8月3日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ11章1節〜27節より
牧師 吉田耕三

私たちは今年度「御霊によって歩む」ことを学んでいます。クリスチャンが健全に生きるために「御霊に満たさなければ歩むことができない」ということで学んでいます。月々の目標もあげ、8月は「今、主に信頼しよう」です。私たちは主に本当に信頼することができるかといいますと、なかなか難しいのではないかと思います。クリスチャンになった当初感銘を受け、感動した本がいくつかありました。その中にジョージ・ミラーの本です。200年前のイギリスに多くの孤児がおりました。彼は2000人の子供たちを信仰と祈りにより養ったのです。その時代でも「神は応えて下さる」ことを人々に知らせるために人間には知らせずに、必要は神様だけに訴える。読みながら私も信仰を持っているはずでありますが、彼の信仰と比べると自分のは「信仰」とはまだまだ言えないとつくづく思いました。神様は私たちを神様に信頼することにより、引き上げようとして下さり、神の御力をもっともっと現わそうとして下さるのです。今日ご一緒に学ぼうとしている11章はそんな訓練が教えられるかと思います。

過去に対する信仰 未来に対する信仰

出て来るのはマルタ、マリヤ、ラザロの兄弟です。このマリヤはイエス様が亡くなる前に何百万の値打ちのあるナルドの香油の壷を割りイエス様の頭から注いだ女性です。この香油は結婚の持参金として持っていくものです。少し垂らせばいいと思うのですが、壷を割り全部イエス様に捧げたのです。そして自分の髪の毛でイエス様の足をぬぐいました。その兄弟ラザロが病気になったのです。そこでマルタとマリヤはイエス様の元に使いを送ります。

「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光を受けるためです。イエスはマルタとその兄弟ラザロを愛しておられた。そのようなわけで、イエスはラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」(3〜6節)

瀕死の状態だから呼びに来たのにすぐには行かず、そこになお2日留まられたのです。後に分かりますが、これが彼らにとって信仰の訓練になったのです。この日にラザロは召されています。イエス様はラザロが召されて4日後に彼らの所に行くのです。

「大ぜいのユダヤ人たちがマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。マルタはイエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」(19〜22節)

 恐らくイエス様はいつも彼らの家で休み幸いな時を持っていたのではないかと思います。そのラザロが亡くなりマルタとマリヤは悲しみの中にあります。マルタは『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』誰でもこう思うでしょう。彼女は「もしそこに」という過去においては神様は働くという信仰を持っていた。過去の出来事「あそこにイエス様がいてくれたなら、ラザロを死なないようにしてくれた。」という信仰でした。そして『あなたが神にお求めになることは、何でも、神はあなたにお与えになります。』「イエス様はできると私は知っています。」という信仰です。でもその時にイエス様は、 

「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」(23〜24節)

イエス様ははっきりと『あなたの兄弟はよみがえります。』と宣言しました。それならば「本当ですか。嬉しい」となれば良いのですが『終わりのよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています。』という将来においてイエス様が働いて下さると信じたのです。過去と将来は信じています。でも今の蘇りについては「そんな無理なことは言わなくてもいいです。」と自動的に解釈して「それはできない」という結論をある程度つけていたのではないかと思います。でも「あなたにはできます」という内容は言っています。

「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このこと信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は。あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(25〜27節)

まあまあ普通の信仰でしょう。これに対してイエス様は彼女の信仰をさらに1段進んだ信仰に導きたいと思っていたようであります。ですから、15節には『わたしは、あなたがたのため、すなわち、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。』と言っています。イエス様が言いたかったのは『わたしは蘇りです。いのちです。』イエス様は死をも打ち破るお方、と同時に神の主権を持っている方であることを信じることを教えて下さっていると思います。マルタの信仰は私たちとよく似ています。「こうだったらよかったのに。」「将来はこうなるであろう。」過去や将来の働きは信じることができるのですが、現在成して下さるとは信じません。先程の2000人の孤児が毎日必ず食べる物を与えられたのです。ジョージ・ミラーは信仰の中に生きていました。毎日毎日戦いがあったことは事実です。でもその中で「神にはできる」という信仰を貫いていったのです。ここでマルタも『あなたが神にお求めになることは、何でも、神はあなたにお与えになります。』と言っていますから、マルタも信じていないわけではありません。ただそれは実際生活にまで役立つ信仰には至っていなかったのです。頭の中で「神にはできる」と信じてますが、実際生活になると「ちょっと」と思ってしまう。私たちも聖書の言葉をたくさん知っています。神様はあちらこちらに働いてくれるのだけれど、「どうも私の家庭には、私の職場にはだめ」とか「ここにはだめみたい」ということが結構あるのではないかでしょうか?私たちは神様に頼りきることができなくなってしまうのです。でもここでもう1段信仰を引き上げようとしておられると思うのです。さて、イエス様はラザロの墓に行きました。

「今」働かれる神の力

「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、わたしは言ったではありませんか。」(38〜40節)

マルタは「あなたにはできます」と言いましたし、イエス様自身「あなたの兄弟は蘇ります。」と言ったのですが、実際に墓の入り口の石を取り除けなさいと言ったらマルタは「イエス様やめて下さい。4日も経って腐臭が出てますから、そんなことはしないで下さい。」と言いました。イエス様は『「もしあなたがた信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」』と答えます。私たちの信仰もマルタの段階で終わっていると思いませんか?「神にはできるはずだ。」でもなかなかもう1歩の所に行けないのではないかと思います。

「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群集のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そしてイエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出てきなさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。ほどいてやって、帰らせなさい。」(41〜44節)

 死んで4日経っている人が目の前で蘇りました。彼らは「イエス様という方は本当に常識を超え、死をも打ち破る方である。」と知った訳です。そしてここで私たちに示して下さることも、常識と限界を超えた信仰に進んでいきなさいということなのです。でも正直、なかなか私たちはそのような所に行けません。ではどうしたら神様からその祝福をいただく信仰になるでしょうか。 

「エペソ1章19節 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く、神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)

パウロはこう言っていますが、私たちが神様のこの力を体験していくのは神様の御心です。私たちはもっともっと神様に信頼できるし、成長させられていくことが必要です。しかしなかなかそこに立てないのです。ではどうしたら良いのでしょうか?その秘訣がヨハネの11章の中にあります。まず第1に「神にはできる」という信仰に立つことです。マリアやマルタも過去とか将来的には「神様にはできる」という信仰は持っていました。「神にはその力がある」ことを知らなければ期待することもないと思います。ですからこれを認めるのは大事ではないかと思います。でも認めただけではこの力ある恵みにあずかることは難しいのです。そこで必要なのは「御言葉に堅く立つ」ことです。今この場でも働くことのできる神様と受けとっていくことが大事なのです。もう少し具体的にお話をしていきたいと思います。

「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」(詩篇66篇18節)

主からその答えをいただけない、あるいはその力を味わえないのは私たちに不義があるからです。神様の前に喜ばれないことがあるからです。それを神様に差し出すことが必要です。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいお方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章8〜9節)

私たちは「本当にその罪を持っています。それをやりました」と正直に告白するならば、不義は赦され聖められるのです。それ以上何も心配することはありません。それが私たちがその力を味わう備えであります。

ドイツのダームシュタットにマリヤ姉妹会の方々が建てた会堂があります。この会堂を建てる時にさまざまなことがありました。彼女たち自身が建てたのですが、ある日にトロッコが何度も線路から外れてしまいました。神様に「何が原因でしょうか?」と静まると姉妹たちが「私はAさんのことを憎んでいました」「Bさんのことを恨んでいました」と続々と悔い改めが出て来てそれが終わるとトロッコは2度と外れませんでした。ある日には印刷機が全く動かなくなり、修理技師を呼んでも何が原因なのか分からない。そこで神様に祈ると彼女たちがある方に対して愛のない態度をとっていたことが示されました。「神様本当に赦して下さい。私はそういう者でした」と悔い改めた時に、1日半何をしても動かなかった機械が自動的に動くようになりました。もし私たちの内から不義を取り除くなら、私たちの祈りはもっともっと大きくなっていくと思います。私たちは罪をいい加減にしています。そのために神の答え、神の力が現わされないのではないかと思います。もう1つは私たちが神の御言葉にしっかりと立つことです。特にラザロの蘇りはそうですね。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』彼らに御言葉に立つことを勧めたのです。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31節〜32節)

不義を全部取り除いた後に必要なのは御言葉に立つことです。私たちは「いくらなんでも」という思いに負けてしまいます。そしてすぐにやめてしまいます。だから結果が出ないのです。「ヤベツの祈り」の本の中に印象的な話しが出て来ます。ジョーンズという人が天国に行き、ペテロに天国を案内してもらうのです。数々の素晴らしいものの中に巨大な倉庫のような建物がありました。彼が「中を見たい。」というとペテロは「見ない方がいい」と答えます。どうしても見たいと言う彼にペテロも負け建物内に案内します。中にはおびただしい数の赤いリボンが掛けられた白い箱が重ねられ1つ1つに名前が書かれていました。ジョーンズ氏の名前ももちろんあります。彼はその内の1つを開け中を覗くと深いため息をつきました。それは神様が地上にいる彼に与えようとしていた祝福だったのですが、彼がそれを求めなかったために、それを手にすることはできなかったのです。私たちは期待しないで、待ち望まなかった、信仰に立ち続けなかったために神様から祝福をいただけないことがたくさんあるのです。私たちも御言葉に立とうとしても「でもそうかな?」と行ったり来たりすします。そこにはいつも戦いがあります。その勝利の時に神様が御業をなして下さるのです。

私たちに必要な第1は不義を全て神様に差し出し赦しと聖めをいただくことです。そして同時に神の御言葉を堅く信じることです。疑いが出ることがありますが、堅くそこに信じていきます。これは信仰の戦いです。神様はその信仰の中に働かれるのです。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものでさるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)

私たちもこの生ける主の力を味わっていきたいと思います。ここに神様がいないではなく、1歩ずつ生活の中において御言葉の約束を成就して下さい。私たちは御言葉を他人事として聞いてはなりません。御言葉の約束を自分への約束として受けとっていきましょう。私たちが御言葉を自分へのメッセージとしとして受けとっていく時に、本当に力が出て神様の恵みを味わうことができるのです。ぜひとも「神にはこの私をも御霊に満たすことができる」と信じ共に祝福にあずかっていくお互いにされたいと思います。

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