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「十字架に死に、十字架に生きる」

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2003年8月10日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書コロサイ2章8〜15節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義執事

人生にはさまざまな出会いがあります。その出会いが自分の人生を大きく変えてしまうことさえあります。良い方向に変わることもあれば、悪い方向に変わることもあります。自分の人生を大きく変えるもの、それが人であったり、本であったり、環境であったり、映画であったり、さまざまです。周りの人々は、その人が良い方向に変わったか、悪い方向に変わったかには関係なく、確かに「変わった」と口を揃えて言うでしょう。それだけ大きな変化が、その人の中に起こったことを物語っているからであります。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)

とあります。『すべてが新しくなりました』。あなたは、『新しく造られた者』として、生き生きとしたクリスチャン生活を送っているでしょうか。それとも『新しく造られた』はずなのに、古いままの歩みを続けていることはないでしょうか。確かに最初は何も分からないまま、クリスチャン生活を始めました。しかし時が過ぎても、全く変わらない自分を発見することはないでしょうか。自分は「このままで良い」と決めつけていることはないでしょうか。

また、以前より罪には敏感になりました。ですが「どうせ罪人なのだから何をやってもダメ」といつの間にか、諦めていることはないでしょうか。そのうち、罪の話になると、自然と聞いてはいるのですが、「またか」という思いが働くと、もう、心の耳は閉じているのであります。『新しく造られた者』としての歩みができない原因、いったいそれはどこにあるのでしょうか。あなたの性格、「現状維持型」「逃避型」「自己満足型」、あるいはそういったことが影響しているかも知れませんが、ぜひ今日は「チャレンジ型」になっていただきたいのです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7章7節)

どうかこの御言葉の約束を信じて、チャレンジしていきたいと思うわけであります。

心の割礼

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(8〜10節)

パウロは、異端を「騙しごとの哲学」といっています。すべての哲学がこうだと言っているわけではなくて、あくまでも異端に対し「あれは騙しごとの哲学だ」と言っているのです。騙すとは、ありもしない出来事が、本当であるかのように信じ込ませ、間違った道へと進ませることであります。異端の教えは、キリストの教えから遠く離すのですが、人間の知性と理性を満足させるために、本物と錯覚させてしまうのです。私たちはここに弱いのです。人間の理性、知識が当てはまってしまうと、それを本物かのように、信じ込んでいきやすい面があるかと思います。

ですからパウロは、異端の教えに惑わされないように警告したわけです。また天地万物を造られた神様から見るならば、人間が考え出した教えは溶質の教えにしか過ぎないと、パウロは言うのです。キリストは完全な人であり、同時に完全な神なので、神の満ち満ちた性質が、形を持って宿っているわけですから、キリストが支配と権威の頭であると、パウロは語ったのです。しかもキリストの救いを受けた者は、キリストを通して、私たちのうちに神の形が宿る、というのです。私たちは、この素晴らしい恵みを神様の一方的な愛によっていただいているわけであります。現代においても、多くの異端の教えに惑わされている人がたくさん居ます。なおのこと、救いを受けている私たちは、キリストの教えに堅く立ち続けて歩みたいものであります。11節。

「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(11節)

パウロはここで、旧約聖書のことを持ち出してきました。神様は、アブラハムと、私があなたの神となり、あなたの後の子孫の神となる、と、契約を結んだのであります。その契約のしるしが『割礼』なのです。『割礼』は確かに、外見上のしるしですが、実はその時、心の『割礼』も受けたことを意味するのであります。心の『割礼』とは、罪や汚れから外れ、まことの神様を礼拝して、心を尽くし精神を尽くし、あなたの神、主を愛する生き方をすることだったのです。

ところが、旧約の時代は外見上の『割礼』だけが重んじられていたのです。そしていつの間にか、心の割礼がすっかり忘れ去られてしまったのであります。外見の割礼こそが、神様から選ばれた自分たちが民であることだけが強調されて、本来それと一緒にある、罪と離れて汚れから離れて、主を愛する歩みを、彼らは忘れてしまったのです。そして今それと同じ問題が、形を変えてコロサイ教会に起ころうとしているのであります。そこでパウロは「あなた方は既に人の手によらない割礼、すなわち、キリストからの霊の割礼を受けているのだから、外観上の割礼は必要ない」と、語ったわけであります。なぜならばあなたがたは、肉の体を脱ぎ捨てているからだ、と言うのです。「肉の体を脱ぎ捨てる」とは、どういうことでしょうか。それは「救われる前の生き方を捨てる」ということです。肉の体を脱ぎ捨てるということは、実は心の『割礼』にも通ずることです。本来、求められているところに戻ることができるわけです。しかし、今まで罪や汚れの中に生きてきましたので、すぐに罪から離れるとか、汚れから離れるとかも、なかなかできないのが現実であります。それと、自分の力では肉の体を脱ぎ捨てることなど、とうていできないのです。なぜなら、長い間私たちが慣れ親しんできた生き方に、愛着があるからです。皆さんは簡単に過去の生活を脱ぎ捨てなさい、止めなさい、と言われて、「はい分かりました」と脱ぎ捨てられるでしょうか?

 ところで、あなたは救われる前の生き方で、どこに愛着を感じているでしょうか。そして、それを本当に捨てる覚悟ができているでしょうか。では、どうやって肉の体を脱ぎ捨てることができるのでしょうか。バプテスマは、自らの信仰告白に基づき、キリストに従って生きることを公にするのです。それが、12節にハッキリと記されているのです。 

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(12節)

肉の体、すなわち古い過去の自分は、『キリストとともに葬られた』のです。『葬られた』ということは、死んだことを意味するわけです。過去のあなたは死んだのです。そして今、キリストによって新しく造られた人になったのですが、愛着があるので、すぐに古い自分に戻ってしまいやすいわけです。そこで、キリストを死者の中からよみがえらせた、神の力を信じる信仰によって、生きなければならないのです。このような生き方をかなえたのが、実は十字架です。

「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(13〜15節)

『債務証書』というと、分かりにくい言葉ですが、「借用書」と言えば、ピンと来るのではないでしょうか。特定の人に、金銭や物を貸しているという事実を証明する文書であります。債務が可能なのは、返すことを前提としているからです。返せないことを前提としては、貸しませんよね。ですから、もし返済ができなかった場合は、約束を破ったことになります。ということは当然、法律に従って、刑罰を受けなければならないのです。

実は、私は神様に対して、数え切れないほどの債務を負っていると言えます。その債務とは、神様を無視し、逆らい、自分勝手に生きていることを示します。これが、聖書の言う「罪」なのです。また、神様に債務を返せなくなっていますので、神様からの刑罰を受けなければならなくなっています。さらに、罪の生活は私たちに深刻な問題を起こさせています。イエス様は、人を汚すのは、私たちの内側から出てくる悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、どん欲、よこしま、欺き、こうしゃく、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであると語りました。皆さん、どれかひとつは当てはまるのではないでしょうか。所詮「人間はこのようなものだ」と開き直ることもできますね。しかしパウロは真剣に、自分のうちに働く罪について、悩み苦しんだのです。

 パウロの苦しみと感謝

 

「 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7章15〜20節、24節)

彼は、真剣に悩んだのです。自分のうちに「良いことをしようと思うのだけれど、実際にはその反対のことをしている」。皆さんはこういった悩みを抱えたことがあるでしょうか。パウロは真剣に悩み苦しんだのです。確かに自分の中にそういう物が沸々と沸いてくる、自分ではどうすることもできない、そして「なんと自分はみじめな人間なのだろう」とまで、告白しているのです。本当に魂に正直に、語っているのです。もしも、今でも自分に望みをおいているのなら、自分の姿を見ていないような気がします。あるいは、見たくないのかも知れません。なぜなら、誰でも、やはり自分はかわいいからです。

ではパウロは、苦しんだまま終わったのでしょうか。『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』といって終わったわけではないのです。25節では『私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。』と彼は語りました。なぜパウロは、神様の感謝をしたのでしょうか。負債を追ったままでは、新しくやり直すことはできません。すべての借金がなくなって初めて、新しい人生をやり直すことができます。コロサイ2章14節に『神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』とあります。私たちを責め立てるすべての債務を『十字架に釘づけ』た、というのです

 ですからあなたの罪がすべて赦され、あなたを責め立てる債務証書をすべて無効にされた、というわけであります。古いからだ、すなわち古い自分が、十字架の上で死んで、そして新しく変えられたものになったのです。だからパウロは、神様に感謝したのです。パウロはこの喜びを、 

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ書2章20節)

とハッキリ語っています。

さらにパウロは、救われて後の歩みについて、当時の凱旋という場面を思い起こしながら、説明しているのであります。今の私たちは「凱旋」という言葉は、ピンと来ないですね。当時の人々にとっては、凱旋といえば、どういう場面なのかすぐに分かりました。凱旋というのは、戦いに勝利した将軍が、馬車に乗って、戦場の上に胸を張って立つのです。人々の歓喜の声に応えながら、軍勢を率いて、ローマ市内を進行する、それが凱旋であります。もちろん、勝利の証しが捕虜であり、戦備品であるのですが、それらを行列の後ろに加えるのです。それと同じように、キリストは罪の赦しを完全に成し遂げ、死から勝利し、天の地のところに凱旋したというのです。それによって、すべての支配と権利、すなわちサタンと諸々の霊の支配と権威から、私たちを介助し、しかも知れらをさらしものとし、凱旋の行列に加えたということです。凱旋ですから、イエス様が先頭に立っていって、その後ろには、サタンと諸々の霊が縛られて、それに付いてきているのです。ですから私たちは、もうそんなものに支配されることはないですから、介助されたのです。

神様の前に生きる歩み

とするならば、このお方が、私たちの味方なのです。何も恐れる必要はありません。キリストに従って歩めば良いわけであります。十字架に死に、十字架に生きる、具体的にどういう歩みをすることなのでしょうか。

例えばあなたは一生懸命奉仕をしました。しかし誰も自分の奉仕に気が付いてはくれませんでした。それどころか「ご苦労様」のヒトコトもなかったのです。するとあなたの心はどうなるでしょうか。そうなると、私たちの心はついつい、いろいろな人を見ますよね。「あの人は何もしていない」「何もしていないのに褒められている」という思いがわいてきて、その人を裁いたり、恨んだり、評価してくれない人々に向かって「自分のことをなんと理解しない人だ」といって、腹を立ててしまうのではないでしょうか。感情が、沸々と沸いてくるのです。しかし本当にその人が何もしていないか、どうしてあなたに分かるでしょうか?しかし私たちは、自分の目で見えるものしか計れないのです。そういう目で人を裁いたり、恨んだり、評価したりしてしまうわけです。

 イエス様はあなたの恨む心、憎む心のために、十字架で死なれたのです。そしてあなた自身もその十字架で死んだのです。イエス様は、十字架の上で死ぬ直前、「彼は何をしているのか自分では分からないのです」と、語りました。私は何をしているのか、自分では分からないのです。よく見えないわけであります。その、自分で自分のしていることが分からない自分たち、その姿を分かっていたからこそ、イエス様は「父よ彼らをお赦し下さい」と祈ったのではないでしょうか。そこで十字架を覚える必要があるのです。問題は、あなたが人の前に生きる生き方を続けるかどうかです。もし、そのまま続けるとするならば、いつまでも古い歩みをし続けることになるわけです。しかし、神様の前に生きる歩みをするならば、新しく造られた者としての歩みを続けることができるわけです。これはとても大きな違いです。なぜならば、私たちはやはり人の前に歩みたいのです。そして人からの評価を受けたいのです。 

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(第1コリント15章58節)

とパウロは語っています。『主にあってむだではない』ことをあなたは心から受け取りながら、歩んでいますか。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(第1ペテロ5章6節)

神様は、ちゃんと覚えておられるのです。そして『ちょうど良い時』に、神様はあなたを高くして下さるのです。それには、へりくだることが大切なのです。神様の前にへりくだるということです。『ちょうど良い時』に、というのは、神様からのご褒美をもらう時に、私たちの心が受け取れる状態ではなかったら、多分神様は、何もこたえないでしょう。どんな風にか、というのはハッキリと書かれていません。しかしハッキリと、『ちょうど良い時』に、神様はあなたを高くして下さるというのは、確かであります。ですから私たちは、人の前ではなく、神様の前に立って、歩んでいく必要があります。この素晴らしい恵みをいただいたコリント教会は、古いままの歩みを続けていました。彼らも新しく生まれ変わったのです。ところがずっと、古いままの歩みをし続けたのです。ですからパウロは厳しく叱責しました。しかし私には、叱責とともに、パウロの嘆きと悲しみを感じるのです。「どうしてあなた方は新しく生まれ変わったはずなのに、なぜ、今も古いままの歩みを続けているのか」「なぜ変わった歩みをしようとしないのか」といって、むしろ、嘆き悲しんでいるのではないでしょうか。

もしもあなたが「ただの人」のように歩んでいるならば、神様が嘆き悲しんでいるということをぜひ覚えて下さい。パウロは、コリント教会の人々に対して、嘆き悲しみました。ですが、今度は神様があなたの姿を見て、嘆き悲しんでいます。あなたは日々、十字架を見上げながら十字架に死に、十字架に生きる歩みをしているでしょうか。この歩みが、生き生きとしたクリスチャン生活ができる秘訣でもあるのです。私たちの感情は、十分に抑えつけることができない、自分ではどうすることもできない爆弾を、私たちは常に持っています。そして爆発した時に、ぜひ十字架を見上げて下さい。どうぞそのような歩みを、神様の力によってさせていただけるように祈っていただきたいものであります。

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