2003年8月24日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書箴言3章5節〜6節より
牧師 吉田耕三
「 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章5〜6節)
先日「チェンジング・ライフ・キャンプ」に参加させていただきました。3日間の短い時間でしたが、本当に変えられ、顔が明るくなっていくのです。このキャンプを通して私たちは色々なものにとらわれていること、また罪や間違った考え方が頭に刷り込まれており、正しい聖書的な考え方に歩むことができなくなっているのを見ることが出できました。「チェンジング・キャンプ」では、自分の中にある間違った考え方や捉え方を全部取り去り、聖書の考え方を入れる。すると当然のように喜びや感謝が溢れてくるわけです。数人の高校生は「とにかく『うれしい!』っていう感じなんだ」「『愛されている』っていう感じなんだ」という表現でした。
義人としての歩み
本日の箇所は今月の暗誦聖句でもあります。すなわち私たちが御霊により歩ませていただく時に必要であるのは「信仰」なのです。私たちがこの世の生き方と神様にある生き方とに混乱させられてしまうのです。そのため備えられている恵みや祝福を自分のものとすることができないのです。そういう訳で私たちは古い考え方や捉え方を一掃し取り去っていただく必要であるのです。キャンプでの質問に「あなたは自分がどうせ変りっこないと思っていませんか?」とか「あなたは友達ができないと思っていませんか?」などがあります。それらを「解放する祈り」を祈り、イエス様の十字架に掛けていく時に、その思いから解放されていくのです。しかし何より大切なのは、私たちが「信仰によって生きる」ことを覚えていく必要があります。
「 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」(ローマ1章17節)
クリスチャンの特徴は「信仰によって生きる」ことです。ところが私たちは信仰によって歩まず自分の考えやこの世の常識で歩んでしまうために、せっかくの神様の祝福「義人としての生き方」ができなくなってしまっていることが多いのではないかと思います。
「あなたがたのうちに苦しんでいる人はいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人はいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコブ5章〜18節)
ここではエリヤの名前があがっています。彼は旧約聖書最大の預言者と言ってもよいでしょう。ユダヤ人が神様から離れ、偶像礼拝に走った中でエリヤは神様だけを崇めていました。そして彼はアハブ王に『私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。第1列王記17:1』と言うと本当に3年6ヶ月雨が降りませんでした。そして「雨が降るように」と言うと雨が降り始めました。ここで見てみたいのは『エリヤは、私たちと同じような人でしたが』と書かれています。エリヤは特別な人だからそのようなことが起きたのではないと言うのです。エリヤも私たちと同じ人でしたが、「義人」として歩んだのです。イエス・キリストを救い主として信じるならば、その人の罪は赦されます。その時に「義人」と認められる訳ですが、問題は「義人」として歩み続けていくかどうかは戦いがあります。いったん「義」と認められてもすぐに罪を犯してしまう、すると力が弱くなるのです。私たちは絶えず自分の罪を告白し新たに赦しをいただいていくならば、私たちは「義人」として歩み続けることができるのです。『ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』クリスチャンにとり罪を認め告白し主の赦しの中に生き続けることが大事だということなのです。
願わくば私たち人1人が義人としてのクリスチャン生活に導かれたいと思います。「あの人が祈ると本当にすぐに応えられるのだ。主はあの人と共にいて下さるのだ」と思えるようなクリスチャンになっていきたいと思います。そのためには「自分の罪を言い表すことです。」今回のキャンプでは自分の中にある罪や弱さ、間違った考え方を正直に告白する。そして導きフォローアップしてくれるスポンサーが「その罪はイエス・キリストの血により完全に赦された」と宣言してくれるのです。そして「本当に今この自分の罪が赦され、解放されている」という思いがきて実際に自由になっていくのです。そして解放されていく時に、自由に神様と交われるようになるのです。地上にあって私たちは罪を犯さない人間になることはできません。でもその罪をいつも告白し、聖められた状態でいることがとても大切なのです。そうするとたちはいつも「義人」として歩むことができ、神様の祝福と恵みをいっぱい受けて生きることができるのです。
間違った刷り込みを取り除く
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10章19節)
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心を清められ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10章22節)
私たちは『全き信仰をもって』神に近づいているでしょうか?自分が気が付く限り全ての罪を神様に告白しているならば、イエス様の十字架は完全に赦しを成したわけですから、色々な弱さがあったとしても神様に近づくことができます。あなたの罪をイエス様が全部背負ってくれたのですからどんな罪であったとしても「それは赦されている」という所に立ち続ける限り、私たちは大胆に神様に近づけるのです。しばしば「私はそんな大それたものをいただけるような者ではありません」と一見謙遜に見えますが、現実には不信仰ですね。神様がそうしてくれているのに受け取らない、神様の恵みが自分の上にもあるにも関わらず受け取らない、「イエス様、私ですよ。私の祈りだから聞いて下さい」と大胆に近づき神様の恵みに与れるクリスチャンになっていくことが大切なのです。そうする時に私たちはこの新しい基準「神様の恵み」に生きられるようになっていくのです。
古い考え方や間違った考え方が刷り込まれていますとなかなか聖書の真理を受けとめられないのです。例えば『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43章4節』の御言葉ですが、刷り込まれているものを取り除かないと「そんなことを言っても。私は」と素直に受け取らない。この世的な考え方の方が強いのです。ですから1、2日は受け入れてもまた元の考え方が強くなり御言葉が消えていってしまうのです。「チェンジング・ライフキャンプ」はそれらの思いを全部主の前に出していくのです。「私は○○のように思っています。」「私は××のように思っています。」と告白します。そして「この考え方をイエス様の十字架につけます。イエス様がその十字架に死んでくれたことを感謝します」と宣言し、スポンサーが「本当にイエス様の十字架が立ち切りました」と祈ってくれる時に、不思議にそこに立ちやすくなってくるのです。そして「こんな私でも愛されている」と思うんです。私たちは古い考え方を捨て去り、聖書の教えを受け取っていくのです。これが信仰によって歩むということなのです。そして信仰により歩む時に、神の祝福が豊かに注がれていくのです。
真白な状態で主に拠り頼む
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章5節〜6節)
神様は私の道を真っすぐにして下さり、神様の全き恵みと祝福の中に導いて下さるのです。その秘訣は『心を尽くして主に拠り頼め』です。私たちは心を尽くして主に拠り頼んでよいとなかなか思えないのです。またそこに神様が応えて下さると思えないのです。それは自分の罪の告白をいい加減にしているので「こんな私に応えてくれないのではないか。こんな私ではだめなのではないか」という思いが強くなってしまい、主に明渡し委ねられなくなっているのです。私たちは絶えず祈る必要があります。できれば信頼できる祈りの友を持ったら良いと思います。何でも話しそれを受けとめてくれ共に主の前に祈りあう人がいると良いですね。そうでないと誤魔化し隠しておきたくなってしまいます。「今週色々な罪はありませんでしたか」と告白し合って赦しをしっかりと受けとっていくのです。するとどんなに罪があっても「主が愛して下さる。ニッコリと私を赦して下さる」と思えるのです。そう思えると主に信頼し委ねることができるのです。『心を尽くして』というのは、いい加減な気持ではなく本気になってということです。『主に拠り頼め』とは元々「何も頼る所がなく心細くうな垂れて沈み込んでいる」という意味の言葉です。私たちは「神様にどこまで頼れるかな」と思っています。私もディボーションをする、祈るとかして自分が頑張ればそれに神様が応えてくれるかもしれないけれど、何もしなければ神様は守ってくれないという思いでした。自分自身にも頼ることができません。どこにも頼るところがない。そこにおいて神様に頼ったら良いのです。「神様、私は祈る力もありません。聖書を読む力もありません。何もできません。どうかそれらができる力も下さい。あなたにはそれがあるはずです。」とその弱さのどん底において主に頼ることができるということなのです。そしてそこで主に頼る時に、私たちは自分が頑張るのではなく委ねていくことができるのです。頑張る力も神様が下さるのです。
キャンプでは細かな項目をあげ、該当者はそこからどうやって解放されるのかを実践していくのです。「あなたは友達ができないと思っていませんか。」という項目で、私はその時には該当しないと思ったのですが、後から考えてみると「私はそう思っている」と分かったのです。他人の中にもう1歩本気になって関わっていく情熱がないと分かりました。「私は本当の意味で友ができない」と思ったのです。なぜかというと拒絶された経験の故と思うのですが「いつか他人は裏切る」という心を持っているからある程度以上には入っていこうとしない自分がいたことに、気がつかされました。そしてその解放の祈りを捧げました。
それから「神様に聞く」という時間もありました。神様に「自分はだれですか?」と聞くのです。罪の告白をした後であれば神様は皆さんの心に語って下さるのではないかと思います。神様が私に「わたしはあなたを愛している。あなたはわたしの友だ」と言って下さったように思いました。「でも私はそんなに真実な者ではないし、そんな風に言われる資格はありません。」と答えた時「いや、わたしはあなたがわたしを裏切らないことを知っている。あなたはわたしの痛みが分かるであろう」と言って下さったように思いました。
友人に裏切られるとは、大きな悲しみと痛みでしょう。でもそのリスクをおかしてもその人に信頼していくのです。イエス様が命までも捨てたのにそのことを考えずに、自分勝手に私たちが神様から離れていくのは、イエス様にとっても悲しいことです。イエス様はそれでも私たちに「友です」と言ってくれるのです。そのことが心に響いた時に、嬉しくなってきましたし、本当に私もその危険をおかしても友人になっていきたいという力が自分の中に出て来たことを感じました。
私が言いたかったのはこのことではなく、私たちの中の刷り込まれた間違った考え方を取り除かないとなかなか神様の力が私たちの中にやってこないということです。「自分にはできない」「誰も分かってくれない」と思ったなばら、では「聖書は何と言っているのか? 神様はそうは言っていない」、ここに立っていく時に、神様は私たちを本当に造り変えて下さるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4章13節)
これらの御言葉にも関わらず私たちの心は「それは誰か特別な人の場合であった、私ではない」と思い受けとっていないのです。私たちは『自分の悟り』や考えを十字架に付けていかなければなりません。「私は今までこう考えていました。神様にはできっこないと思ってました。でも今その不信仰を悔い改めます。その思いを十字架に付けます。」と告白します。できれば友と一緒に祈り、それが既に十字架に付けられたという確信に立つ時に解放されていく、という体験をすると思います。
講師が「アンインストールしましょう。」と言いました。私たちの中には古い考え方がインストール(据え付け)されている。それをまずアンインストール(取り外す)しなければならないのです。間違った考え方を出さなければ新しいものを入れても「ごちゃごちゃ」するだけで、きちんとなりません。まず十字架に付け、そして聖書を入れていく時に、私たちは聖書的な生き方ができるようになっていくのです。私たちが罪を告白し続けていくならば変えられていくことができるのです。聖書はそう言っていますし、それが現実にありうるのです。これが私たちにとっての福音であり、祝福です。『あなたの行くところどこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』。私たちは「ここには神様はいないのではないか」と神様を心から締め出してしまっています。今皆さんが歩んでいる生活のただ中で主を認めることが大事なのです。「認める」という言葉は「知る」という言葉からきています。知るとは深くその方と交わることです。その様な意味で神様と交わり、神様を知っているでしょうか?神様を知り生活の中に認めていく時に神様が御業を成して下さいます。私たちに必要なのはどうしようもない何をする元気も力もない中で神様をお迎えすることです。神様がどんなことをしてくれるのかあれこれ考えずに神様にお任せしていくのです。これが新しいクリスチャンとしての生き方です。私たちは古い生き方に留まってしまい、それゆえにイライラや恐れや不安に取り囲まれる生き方になるのです。しかし御言葉を受けとめ、従い神様の力を体験するクリスチャンになっていきたいと思います。その秘訣をもう一度言います。どんな小さな罪でも告白し続けその赦しの中にあることです。主に大胆に頼っていくことのできるクリスチャンになることです。義人は信仰によって生きるのです。神様は助けて下さいます。導いて下さいます。その信頼の中で歩むのが義人です。それがクリスチャンの生き方であると覚えていただきたいと思います。