2003年9月7日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ピリピ2章1節〜11節より
牧師 吉田耕三
早いもので2003年度も9月に入りました。今年度の目標は「御霊に満たされて歩む」です。今月は「御霊の交わり」をご一緒に体験させていただきたいと願っています。神様が教会をお造りになられた時に考えておられたことは、教会に絶大なる期待を持っていたことを、うかがい知ることができます。地上ではいろいろな集まりや団体がありますが「どんなものよりも強い」本来ならばそういう力を持つ交わりが「教会」なのです。
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて、その衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133篇1〜3節)
神様の集うその場所は命が流れ、神の祝福が満ちる場所であります。これが「教会」です。ですが現実にそうなっていないことが多いと思うのです。今日はピリピ書を通し、本来の「教会」になるかを学ばせていただきたいです。
一致を妨げるもの
ピリピ教会は素晴らしい教会でした。神様のために、他の兄弟姉妹のためにも仕える教会ではありましたが、問題もあったのです。
「 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。ほんとうに、真の協力者よ。あなたに頼みます。彼女たちを助けてやってください、この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」(ピリピ4章2節〜3節)
ユウオデヤもスントケもパウロと共に奮闘した仲間でした。力強く主のために犠牲を払い歩んでいた2人が仲違いしています。「それでは立ち行きませんよ。教会とは本当に1つとなっていくものです。一致を保ちなさい」ということです。この2人は名前を挙げられておりますが、今日は2章で原則的な誰にでも当てはまる事柄を見てみたいと思います。
「どうしたら一致が保てるかということ」ですが、その前に逆に「何が一致を妨げるのか」を先に見てみたいと思います。
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに日人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」(3〜4節)
教会が一致し神の力を現わすのを妨げる第1は『自己中心』です。これがあるために教会が本来の「教会」としての使命を果すことができなくなっているのです。「みんなやっているではないか。人間は皆な同じではないか」と思うかもしれません。でも「教会」はそこから救い出されたのであり、十字架は私たちをそこから解放するのです。私たちはそこから清められ、自己中心から解放されていくことが必要です。ロイド・ジョーンズは「全ての不一致の原因は自己中心だ」と言いました。議論をしますと「自分のことを指している」とか「自分に利害関係がある」と思う瞬間から防衛し攻撃的な言動が出て来ると思いませんか?自分に関係のない時には中立的な良い意見が出るにも関わらず、いったん自分の利益に関係してくると思った瞬間から「頑なで譲らない」という考え方が出て来てしまい不一致と、しこりがずっと残ってしまうのです。まず「自己中心から解放されていくこと」が私たちが不一致を取り除く第1です。皆さんが色々なトラブルや問題を感じた時に「これは私の自己中心の考え方が原因ではないか」考えることは非常に有効です。自分に損か得かを大体はその観点から物事を考えるのです。いつも吟味していく者でありたいと思います。
2番目は『虚栄』「見栄っ張り」「プライド」です。私たちは「プライドが傷つけられた」とか「何でこんなことを言われなければならないのか?」「なぜ私がこんなことをしなければならないのか?」という自分の権利や立場や資格を揺さぶられると不一致としこりを作り出すのです。同時にそれが教会にさまざまな問題を作り出してしまうのです。自分の中にさまざまな思いや問題が出てきた時に「これは自分の自己中心が原因ではないだろうか?」あるいは「虚栄とプライドがそこに関わっていないだろうか?」と見始める時に、私たちの中にあったさまざまなしこりが消えていくのではないかと思います。私たちはそこに目を留めるのです。ですが気を付けて下さい。「しっかりと目を留める」と言いますと多くの方は自分がどんなに自己中心であるかを見て「こんなに自己中心な私は救いようがない」と落ち込んでいくのです。これでは意味がないです。こうではなく「これは私の虚栄やプライドであるからイエス様は十字架に掛かって下さったのですね。これは私の罪です。そしてこんな罪のためにイエス様が死んで下さったことを感謝します」ここに目を留めるという意味です。暗い惨めな自分に目を留めると落ち込むだけです。赦しに目を留め解放を頂いていくのです。
先日「チェンジング・キャンプ」に出ました。ここではいろいろな罪が示され告白します。告白の後に主の赦しを宣言するのですが、宣言後にハグ(軽い抱擁)をするのです。何度もハグをしていくうちに本当に自分は赦されている、受け入れられている、愛されているという感覚が段々と体で染みてくる感じがあります。すると本当にリラックスしてきます。「本当に自分が弱さを持っていても愚かさを持っていてもいいのだ。主はそれでもこの私を赦して下さっている。愛して下さっている」と肌で感じられる面があったなと思うのです。私たちはいつもそのことに立つ必要があるでしょう。
ところがへりくだると罪の告白もできるのですが、へりくだらなけれな中々それが言えません。自分から「ごめんなさい」と言うことが中々できません。自分が謝るよりは、何か犠牲を払う方が簡単だという思いになるのです。私たちは自らがへりくだり過ちを認めていく姿勢が大切なのです。さらに『互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。』私たちは他の人の表面的なことしか知らないにも関わらず裁いたり非難したりするのですが、その方の背後には大変な過去があったかもしれません。苦しい戦いがあったかもしれません。それなのに私たちは表面的に出て来たものだけで裁いたりします。そしてその人が持っている非常に深い重みのある言葉も平気で見過ごしてしまっていることもあるかと思うのです。もし私たちの心の目が開かれていくならば、私たちはそのように他の人の中にある良きものを見ることができるのではないか?私たちの高慢さの故に、あるいは裁きのためにそれも見えなくなってしまっているのではないでしょうか?「主よ。人の良き所が見えるようにして下さい」と祈る必要もあるかと思います。そして『自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。』私たちは自分がされなかったり、自分が受けた傷や自分が受けた悲しみについてはしっかりと覚えていますが、自分が与えたことに関してはすぐに忘れてしまいます。本当に人のことを思いやることができない者であるとつくづく思うのです。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうつにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは、人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(5〜11節)
イエス様は十字架の刑を受けるような責任がありましたか?そんな責任は全くありませんでした。「なぜお前はわたしの背中にむち打つのか?」「なぜお前はわたしにいばらの冠を被せるのだ?」と文句を言う資格があったのです。でもイエス様は何も言わず黙々と受け私たちの代わりにその罰を受けて下さったのです。ところが私たちは責められても仕方のない部分がたくさんあるにも関わらず「なぜ私がこんな目を受けなければならないのか?」と騒ぎ非難し文句を言うのです。イエス様はへりくだる必要のない神の子であったのに、人々から「あいつは罪人の仲間」と馬鹿にされ文句も言われ嘲られました。もし私たちがこのイエス様の姿を見るならば、私たちもこの道を歩むことができるのではないでしょうか?私たちは「なぜ自分がそうされる必要があるのか?」と思う時に「イエス様もこの道を進んでくれたのだ。それがイエス様の愛の現われである」と感じる時に、自らも進んでへりくだりの道を歩むことができるようにされていくのではないかと思います。そして互いにそのようにし合うことができるときに、私たちのうちに一致がかえってくるのであります。
一致に必要なもの
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を一つに合わせ、志を一つにしてください。」(1〜2節)
責められる必要のないイエス様が私のために自らその責めを全部受け鞭打たれたのです。当時の鞭は先が分かれており貝殻や金属がつけられていました。それで背中を打たれるのです。ですから背中は血だらけであったと思われます。いばらの冠が頭に突き刺さります。手足には釘が打ちつけられるのです。本当は誰が受けなければならなかったのですか?それは「私たち」です。イエス様はそこまでして私を愛し救おうとして下さったのです。そのことが本当に心に届くならば皆さんの心は確かに励まされ慰められるのではないでしょうか?私の代わりにイエス様が受けて下さったことを本当に受け取るならば「主よ。私もまたそのイエス様の道を歩ませて下さい。一致を保つ道、また自己中心を捨て虚栄を捨てへりくだっていく道に歩ませて下さい」と祈れるのではないでしょうか?
『私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。』とあります。ここには『一致を保ち』とあります。「一致を作り出すように」とは書かれていないのです。クリスチャンの間では一致を作り出す必要はないのです。なぜならば私たちのうちから不必要なもの「虚栄」「自己中心」「高慢」が取り除けられていくならば、そこには自然に一致があるのです。ですから「イエス様の道を見上げ、イエス様の道に従わせて下さい。」と祈っていく時に自然に一致が与えられていくのです。そして「一致の力」はものすごい力であり、ハデスにも打ち勝つ力となるのです。この世に希望の光を与えるのです。初代教会の姿は周りの人たちが彼らを見て「なんと彼らは愛し合っているのか」と驚嘆の目で見ていたほどでした。「あんなに愛し合っているのは彼らは主のしもべだ」と見えるような集いだったのです。私たちは、なかなかそうなれないなと思うのです。クリスチャンというのは「キリストに従う者」という意味です。私たちも「主のしもべ」となるため自己中心や虚栄に目を留めこれを真剣に悔い改めましょう。イエス様は十字架に掛かり既に赦して下さいました。「主よ。お赦し下さい」と聖めを受けとっていく者でありたいと思います。
先日の「チェンジング・キャンプ」の講師である石原牧師は非常に用いられた器であったようです。若くして教会がどんどんと成長し、300名以上の人が集まるようになり、その他にも枝教会ができていきました。しかしその中で不一致の問題が起きてきたのです。そして4年半嵐が吹き荒れました。300人以上集まっていた信徒たちは一番少ない時には60人にまでなり、さまざまな中傷や噂が教会の中に出て、神様の証しどころではない状況になってしまったのです。その中で石原牧師が教えられていったことは「本当に自分はこういう者であったのだ。高慢になっていたのだ」と示されて段々と悔い改めに導かれある時に、教会に集った人に言ったそうです。「この私が数年間皆さんに与えてしまった傷を本当に赦して欲しい」と謝って、また祈祷会でも皆に目を閉じてもらい「私から傷を受けた方は手を上げて下さい」。すると皆の手が挙がったそうですが。そして1人1人にところに行ってそのことを聞き、謝っていったそうです。また10数名のスタッフにも同じことを聞いたのです。するとスタッフの手も挙がった。そして同じように悔い改めの祈りをしていく時に、その時から一致が始まったと言っておられました。石原牧師が「本当に申し訳なかった」と言ったその時に「でも先生、そういう風に先生がしてくれる。だから私たちは先生を尊敬し従います。」と一致が回復していきました。今は日本全国の教会に仕えていこうとされています。私もそういう意味で「解放」の影響を受けて来たのです。その教会の方々は自腹を切って来て下さり、いろいろ援助して下さるのです。本当に与える教会になっていっているのです。主の御心を行なっていきたいとそうなっているのです。私たちの教会、また私自身にも必要なのはこのことなのかと思います。石原先生のようにそこまでの見事な所まではいけないですけれども、本当にそうなっていけるようにと祈って下さればと思います。この教会にも色々なことがありました。悲しいこともありました。そんな時に「どうして」という思いが強かったです。自己中心が強い時にそう思うことが多いのです。でもそれは違っていました。本当に「与えてしまう傷」もありますが、そればかりか「しない傷」というのもあります。聖書ではやってしまう罪もありますが、聖書の基準『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』。ですから愛さないことはある意味罪なのです。そしてそのことで傷付いたならば、当然謝るべきことなのです。そして謝り赦しあっていく中で、キリストの業が進むのだと思うのです。教会はなんと愛し合っている所か、赦し合っている所か、受け入れ合っている所か、そうなっていけたらと思います。そしてその時にキリストの教会が建っていくと思うのです。キリストの栄光を現わす教会を築き上げさせていただきたいと願って止みません。