2003年10月5日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書第1コリント12章1節〜11節より
牧師 吉田耕三
今日も皆さんとともに礼拝できることを感謝します。「礼拝できるのは当たり前」と考える面がありますが、実はそうではないことに気付いていますか?本来私たちは神様の前に出ることなど赦されない者であったのです。でも主イエス様の十字架の故に私たちは完全に赦され、私たちの捧げる礼拝を本当に喜び受けとって下さるのです。これは決して小さいことではなく私たちに与えられている特別な恵みなのです。それは私たちの内に神の御霊が注がれているからできることなのです。今年の目標は「御霊による歩み」です。神様によって生きる時に、喜びと自由と解放ある真理の中に生きる生き方を可能にさせていただけると思います。今月は特に「御霊の賜物」ということを学びたいと思います。神様は私たちに聖い御霊を与えて下さっただけでなく、神様のために用いるようにと「賜物」を与えていると聖書ははっきりと語っています。ですから私たちはそのことをはっきりと知り「賜物」を用いていただける者になることが大切であると思います。
御霊が与えられていることを知る
「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」(1節)
「知ってくれたらいいよ」ではなく『ぜひ』知って欲しいと強い口調です。皆さんはご自分に与えられている賜物をご存知ですか?聖書にはっきりと書いてあるのですが、「私はそんな大それた物はもらっていません」とか「私にはそんなのはありません」と言ってしまう方が多いのです。『ぜひ次のことを知っていただきたい。』と書かれています。その御霊の賜物を知るに当たってまず第1のこと。
「2節 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。」(2節)
私たちは神の形に造られています。ですから神様を求める心があるわけですが、神の御霊をいただいていなければ私たちの求めるものは、いわゆる「偶像」という物しか受けとめられません。しかし聖霊が私たちの所にくる時に真の神様を求める思いと力が出て来るのです。
「ですから、私はあなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(3節)
『御霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』。皆さんが「イエス様は救い主。人生の主である」と信じているならばあなたの内には間違いなく聖霊の力が働いています。私が自分にも聖霊が与えられていると教えられたのはこの箇所でした。自信がなかったのです。ある時ここを読んだ時に『神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」』とこちらを先に試しました。「イエスはのろわれよ」と言葉だけなら言えます。でも心をこめて力強く言ってみると「『イエスはのろわれよ。』、でもやっぱり違うよな。呪われよとは言えないな。十字架に付いて私たちの罪を『彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。』と私の代わりに身代わりになって下さったお方に対して「のろわれよ」はないよな」と思いました。これが第1歩です。そして同時に「イエスは主だ。イエス様は私の救い主。イエス様が十字架にかかったのは私のこの罪を赦すためだ」正直当時確実にそう信じていたかと言いますと、そう思える時もありましたし、思えない時もありました、疑問も出て来きますし。そういう時期でした。「でもやっぱりイエス様は救い主だよな。」と思っている自分に気付きました。それなら「私の内にも確かに聖霊様が働いていて下さっていたのだと」初めてそこで受けとめることができたのです。もし「私の内に聖霊様が働いていてくださるのかな?」という迷いがある方に知って欲しいのですが、自分の行ないや感情や信仰の力や聖書の知識などは誤った救いの土台なのです。例えばちょっとした罪を犯して告白しないでいるとすぐに喜びが消えていきます。平安が消え感情的にも信じていないのと同じ状態になってしまいます。罪を告白しないでいると今まで人に親切に優しくしていたのが急にイライラして怒り出し全然違う態度が出て来るわけです。あるいは「一生懸命に信じたら」とはどのくらい一生懸命に信じたらでしょうか?私たちは疑いや分からない時がある訳です。ですが「イエス様助けて下さい。救って下さい。」というならイエス様に頼る気持があるでしょう。これでいいのです。
「聖書が分からない箇所があれば救いの確信はない。」そんなことはありません。そうであるならばここにいる人はだれも救われなくなってしまうかもしれません。皆さんそういったものを頼りにしないで下さい。神の御言葉が『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』と言うのですから聖霊があなたの内に働いているのです。それでもどうしても信じられないのであれば他の方に福音を伝えて下さい。伝えたら「そんなことは信じない。」と言われると思います。時には用意されている人もいてすぐに「信じます。」と言う方もいるかもしれませんが、普通はなかなか受けとめません。でも私たちは信じているのです。皆さんが自分の意識と意思でイエスを救い主であると信じたのであるならばご自分の内に聖霊の働きがあったことを受け取って頂きたいです。これが御霊の賜物を知る上で第1に必要なことです。もしまだ信じていない方は「ごめんなさい。私はまだ信じていませんでした。イエス様あなたは私に罪からの救い主、人生の主であるのですね。」と受けとって下さったらと思います。さて、次に進みます。
自分の賜物を知り用いていく
「さて、御霊の賜物には色々の種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」(4〜7節)
『みなの益となるために、おのおのに御霊の現われがあたえられているのです。』。御霊の力をいただいた者は1人、1人にです。しかし「あなたの賜物は何ですか?」と聞くと「私はありません。」と言う方が多いのです。「分からない」のは良いのですが、「ない」とは言わないで下さい。「ないのです。」というのは「私の内にはまだ聖霊は来ていません。救われていません。」と言っているのと同じですからそうは言わないで下さい。「まだ分かりません。今求めています」と言って下さい。
今月はぜひ「御霊の賜物」をお互いに知っていく月にしたいと思います。皆さんに1つお願いしたいのです。「この人の賜物はこれだな。」と思ったならばその方に言ってあげて下さい。なぜかと言いますと、同じ聖霊を受けた者は「この人にはこういう良い所がある。この人からこういう助けをいただいている。」と感じているのです。例えば「この人には自分の悩みを話せるな」とか「この人から聞くと聖書の話がすごくよく分かる」「この人の所に行くと安心して帰りたくない」とか。神様は色々な賜物を与えて下さっています。それをお互いに言い合って下さい。言われても最初は信じられないのですけれど、これは自分自身にも大きな自信になっていきます。それは神様が皆さんをここに置いている理由でもあるからです。御霊の賜物は教会を建て上げ、その人が教会の中で成すべきことを行うために与えられているのです。そしてその賜物が用いられるとクリスチャンが恵みを受けます。本当はクリスチャンではない人も恵みを受けているのですが、相手にはそれがあまり分からないのです。でもクリスチャンにはこの人から恵みを受けているのが分かります。ですから「あなたのあの言葉で慰められたの」と色々なことを言い合うのは良いですね。お互いが分かってきます。そのようにして1人、1人が生かされあっていくと周りが恵みを受けるだけでなく、やっている本人自身にも喜びがくると思います。ですから教会の奉仕は「やってやっている」ではなく「やらせていただいている」、神様によってさせていただくのですから、実際にそのことをしていると喜びに満たされます。賜物は周りの人に恵みを与え、同時に自分自身がそこで恵みや力を受けるのです。ですから賜物を見出し用いていただきたいと思うのです。そうする時に教会が強められていくのです。教会はキリストの体と言われています。『おのおのに御霊の現われが与えられているのです。』と書かれていますが、この現われが本当に生かされていく時に、教会全体がイエス様にお会いしたような祝福と恵みになっていくのではないかと思うのです。8節から10節にも賜物が書かれていますが、これはごく一部です。もっともっと特有の賜物があるのです。ある人には慰めの賜物、ある人にはとりなす賜物、お料理の賜物、手芸の賜物。本当にさまざまな賜物が組み合わされ用いられながら私たちは生かされあっていきたいと思うのです。神様はそのために、あなたに賜物を下さっています。どうぞ見出して下さい。
「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばは与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を与えてくださるのです。」(8〜10節)
さてここで注意して欲しいことがあります。皆さんがどんなに素晴らしい働きができたとしてもそれを誇らないで下さい。それはただ神様が皆さんを通してなさって下さったことに過ぎないのです。神様が下さったのですから、どんなに素晴らしいことがあったとしても誇ってはなりません。いろいろな賜物の例がありますが『知恵のことばが与えられ』、こういう方おりますね。同じことをやるにもちょっとした知恵で物事はスムーズに進むのです。こういう方は色々なプログラムを企画する時にぜひ入って欲しいですね。また『ある人には同じ御霊による知識のことばが与えられ』神様の言葉がその人によるとピシッと分かってしまうのです。「なるほど、そういう意味であったのだ」という具合です。あるいは『ある人には同じ御霊による信仰が与えられ』「信仰は誰にでも与えられているのではないの?」と思うかもしれません。救いの信仰は誰にでも与えられていますが、ここで言う『信仰』は「ことを行なう信仰」とでも言いましょうか。13章2節に『山を動かすほどの完全な信仰』とあります。この方は「神様は絶対にそうして下さる」と信じてますから、実際にそのことが起きてくるんです。あるいは『ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ』その方が祈ると病気が本当に癒されていくのです。あるいは『奇蹟を行なう力』、絶対起こり得ないことでもその人が祈ってそれに携わると起こっていくのです。『ある人には預言』、この預言とは先のことを言うというだけではなくて、神様の言葉を預かるという意味があります。神様の心を知り、神様の言葉を語る人です。例えばメッセージも当てはまると思います。神様の御心を伝える人です。『霊を見分ける力』「これにはおかしな霊が働いているな」と分かる。これは悪霊を追い出す力とともに働く必要があると思います。また『異言』、習ったことのない言葉を語ります。外国語であったり、神様と直接交わったりするために特別な言葉を語るのです。そして『異言を解き明かす』、誰も分からないその言葉の意味が分かるのです。他にもいろいろあるのですが、癒しや奇蹟は「すごい」と最初は自分も喜ぶでしょうが、周りの人も特別な目で見てしまう危険性があると思いませんか?でもその事柄はその人を通して神様が働いただけであって、その人自身は何も自慢してはいけないのです。どんなことが成されても「ただ神様が成して下さったことです。感謝します」とお返しするべきなのです。そしてもう1つの賜物の重要なポイントは、与えられている賜物に関して大体はその人は「当たり前のこと」と思っているのです。この教会で1人の方は「この教会は全然伝道をしていない。」と言いました。その方にはこの教会の状態は「まだ伝道していない」と感じられたのです。でもある方は「この教会は伝道ばかりしてい牧会の働きや慈善の働きが成されていない」と思ったのです。この方には牧会や慈善の賜物が与えられていたのでしょう。同じ時期でした。それぞれの賜物に応じて感じ方が違うのです。ある事柄に関してその賜物を与えられているから不満や不足を感じるのです。ならばその感じた人が始めればよいのです。ところが間違えると「なぜ皆なやらないのか」と他の人にも同じことをさせようとしてしまうのです。そうではなく賜物に応じて成していけばよいのです。それにより全体が組み合わされていくのです。ある人は伝道し、ある人はそのために祈り、ある人はそのために励まし、ある人はそのために教えていくのです。ある人はもてなして、ある人は休ませてあげます。そのようにして1人の方が救いに導かれていきます。そのために神様はおのおのに賜物を与えているのです。
ところが私たちは自分の賜物に気付いていません。気付かないとその分だけ神様の業がストップしてしまいます。その1人が欠けてもだめなんです。全ての人の与えられている賜物が生かされていく時に、イエス様がおられる所のようになっていくのです。もしそのようになっていっていないのであれば、1人1人が生かされていないからではないでしょうか?私は「まだまだそれが生かされていないな」と思うのです。それぞれの賜物が生かされていく時に、本当に素晴らしい教会になっていくと思うのです。
「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」(第1コリント12章31節)
いろいろなことができるように「こういう賜物を下さい。」と祈っていくことは良いことなのですが、しかし大事なのは『よりすぐれた賜物』。それは13章全体に書かれている「愛」ということです。私たちは「愛」を求めます。愛によってこそ賜物は生かされていくのです。自分を誇るために賜物を用いてはなりません。人を責めるために賜物を用いてはなりません。
「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(第1コリント13章1節〜3節)
私たちは「愛」によって生かされるものでなければなりません。今日私たちは大切なこと『また聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』、ここで言う『主です』ということにもう一歩深い理解をさせていただきたいと思います。この「主」とはギリシヤ語では「キュリオス」と言います。「キュリオス」はローマ皇帝を指す時に言っていました。それに対しクリスチャンたちは「イエスこそキュリオスである」と言ったのです。ですからローマ皇帝を「キュリオス」と言え、と迫られたのです。ローマにはコロセアム(円形劇場)があります。そこに飢えたライオン放しクリスチャンを食べるのを客席から見ていたのです。連れて行かれる前に必ず聞かれたのは「お前が皇帝を「キュリオス」と呼べばすぐに釈放してやる」と。しかしクリスチャンたちは「いや、イエスこそ主である」と答え殉教していったのです。「キュリオス」と呼ぶことは「自分の生きるも死ぬのも全ての権限をあなたがお持ちです」と宣言することなのです。神様の御霊によって私たちはイエス様が主であると分かるようにさせていただいたのですが、でも果して私たちは本当に「主」としているでしょうか?初代教会の人々は「主」とするところから始まりました。
「さて、大ぜいの群集が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分いのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14章25節〜26節)
多くの人が「イエス様」「イエス様」と言ってファンのようについていきました。その時にイエス様は冷水を浴びせ掛けるようなこと言うのです。「あなた達はついていきますと言うが本当についてくる覚悟はあるのですか。わたしについて来るとは自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎むことですよ。」と言うのです。これは本当に憎むというのではなく、神様を第1にするということです。「あなたがたはそういう覚悟はありますか」と投げかけてくるのです。厳しい問いかけです。私たちは御霊により「イエスを主」と告白できるようにされたのですが、ここでチャレンジとして「自分は本当にイエス様を第1にしているであろうか?それよりも自分の思いや様々なことを第1にしてしまっていないであろうか?」と問い掛けを受けていきたいのです。神様を第1とした者に御霊の現われを与えて下さっているのです。神様を第1にしていないとさまざまな物に覆われてしまい賜物が出てきていないことがよくあるようです。でも本当に神様を第1とする方にはその賜物がはっきりと現われてきます。ぜひこのことを覚えて下さい。しかしそれは自分が誇るためではありません。同時に他の人の賜物を見て「あの賜物が欲しかった」と羨む人がいますが、これはだめです。神様は皆さんに相応しい賜物を与えて下さっているのです。それが最善であり生かされる時に素晴らしいものができあがるのです。『みなの益となるために』神様はその賜物を下さっているのです。出し惜しみしないで下さい。それが出されていかないとせっかくの良いものが現われなくなってしまいます。1人1人の賜物が出されて組み合わさっていく時に、キリストの業が進んでいくのです。
賜物は皆さんの使命と関係あるものが与えられているのです。神様がどのように皆さんを用いるかに関係して賜物が与えられているのですから、賜物を発見することによって、いかに用いるか、皆さんがキリストの体の中で何をするべきかと関係しているようです。私たちが賜物を知り歩むときに、皆さんの中に充実感が出て来ると思います。「あー本当に神様によって用いられている。神様によって生かされている」、そしてまたそのことが周りの方々への祝福となっている、そして全体としてキリストの体の栄光が現われるために賜物を与えて下さる、と覚えたいと思います。そしてそれは愛の中でへりくだることです。どんなに素晴らしいことができたとしてもそれはただ神様があなたを通して働いただけです。決して誇らないで下さい。それを覚えながら賜物が生かされあっていく教会になっていきたいと思います。