2003年10月19日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書コロサイ3章1節〜11節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義師
天にあるものを求める
神様はアブラハムに『その後、主はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」創世記12章1節』と言われました。アブラハムはこの神様の御声に素直に聞き従い、今まで住んでいたカナンの地を離れ、家族を連れて神様の示す地に向って行ったのです。その時アブラハムは75歳でした。彼には子供がいませんでしたので跡取のことで思い悩んでいました。そこで神様は『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」創世記15章5節』と語りました。アブラハムはこの神様の言葉を信じたのです。
時が経ち、孫のヤコブの時代にカナンの地に大飢饉が起こりました。しかし神様は大飢饉が起こる前にヤコブの子ヨセフをエジプトに遣わしていたのです。ヤコブの全家族はヨセフに招かれ、エジプトに行き大飢饉から逃れることが出来ました。その後ヤコブの子孫はそのまま住むこととなり、エジプトで寄留者となったのです。そして神様はイスラエル人を守り祝福されました。彼等は数えきれない位に人数が増えていったのです。エジプト王は自分達よりも数が勝り大きな群れとなったイスラエル人を恐れ、彼等を奴隷として扱う様になったのです。しかし神様はアブラハムとの約束を決して忘れてはいませんでした。神様はイスラエルをエジプトから救い出すためモーセを遣わします。神様の『わたしが示す地』とは『その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせる。出エジプト3章8節』とこの約束でした。イスラエル人は、昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれながら約束の地へと旅を続けました。
今まさに約束の地に入ろうとする時に、モーセは12部族の代表を選びカナンの地を探らせました。そこは本当に乳と蜜の流れる良い地なのですが『しかし、そこに住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。民数記13章28節』『しかし彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いからだ。」民数記13章31節』12人中10人はこの様な報告をします。ところがカレブはモーセに『そのとき、カレブがモーセの前で民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」民数記13章30節』と語るのですが、時既に遅し。イスラエル人は不信仰になり、約束の地を目の前にしながらヨルダン川を渡りませんでした。イスラエル人は先祖アブラハムのように神様の約束を信じ、信仰を働かせてヨルダン川を渡るべきでした。しかしイスラエル人は不信仰の故に40年間砂漠をさ迷ったのです。この間彼等の口から出る言葉は不平と不満ばかりでした。更にはエジプトを恋しがり、エジプトに帰ることばかりを考えていたのです。確かにテント生活よりは雨露をしのげる屋根のある家の方が快適です。自分達が奴隷であったことを忘れ、エジプトでどんな目にあっていたのかは全く頭になかったのです。
簡単ですがイスラエル人の歩みを見てきました。それは彼等の歩みが私達への教訓であり警告となっているからです。イスラエル人がエジプトを恋い慕ったように私達も古い歩みを恋い慕い戻ろうとすることがあるからです。クリスチャンの信仰生活は今まで慣れ親しんできた歩みと新しく生まれ変わった歩みとの衝突なのです。衝突しているその時、私達は信仰の岐路に立たされているのです。この時イスラエル人はエジプトを恋しがり、不平と不満の信仰生活を送りました。さてあなたはどうでしょうか?
「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」(1〜4節)
『私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。』とあります。キリストと共に死んだあなたは、キリストがよみがえらされた神の力によって生かされているとパウロは語っています。パウロは同じことを何度も繰り返し語っています。何故でしょうか?それはコロサイ教会の人々が神の国の民にされていることを自覚させるためです。それは神の民とされている自覚がなければ、今までと全く変わらない生活を送ることになるからなのです。この世は地位や名誉や富を求めながら歩んでいます。それが人生の目的だと思っているからです。これが今までの生き方でした。しかし私達はキリストにより神の救いを受け、神の民とされたのですから『地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』とパウロは命じたのです。これがキリスト者の歩みだからです。パウロはこの世を否定しているのではありません。私達はこの世の中に生きています。ですからこの世と深い関わりを持って歩んでいます。しかしこの世とは全く違う生き方があることを示しなさいと言っているのです。
イエス様も私達が“地の塩”、“世の光”となるような歩みをするように命じています。『上にあるものを求めなさい。』とは天にあるものを求めて歩むことです。そこには神の右に座しておられるイエス様が、私達が帰って来ることを待っておられるのです。救いを頂いている私達は永遠の命を与えられていますが、目で見たり触ったりすることが出来ません。パウロはそれを『神のうちに隠されている』と表現しています。しかしキリストが再びこの地に来た時に、私達もよみがえることが出来るのです。あなたが聖書のこの約束を握って歩むならば、地上の物は色あせて見えないでしょうか?地上の物(地位や名誉や富等)が色あせて見えたならば、天にあるものを思いなさいとパウロは命じたのです。『天にあるもの』と言って何を連想しますか?天は神である主がおられる所です。そこは神の栄光が満ち、御使い達が主を力強く賛美しています。『天にあるもの』とは“神の栄光”を現わしている気がします。この事を思うと地上で神の民として「“神の栄光”を現わすことが御心である」と自覚することにならないでしょうか?天が“神の栄光”を現わしているならば私達もその栄光を思うはずですがそうならないのも現実です。そこでパウロは
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(第1コリント6章20節)
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第1コリント10章31節)
パウロは一通の手紙の中でニ度も同じことを語っています。神の栄光を現わし、それを求め歩みなさい。どの様に現わすかは各人置かれている環境や状況が違うので“型”即ちマニュアルはないのです。「あの人はこうだから、では自分も」ではなく、あなたしかない歩み方があることを覚えたいですね。神様が見る視点で私達も見る必要があるのです。神様は1人1人にご計画を持っておられます。その人の歩みをこの世の基準で評価してはならないのです。イエス様が再び地上に来られた時に私達の卑しい身体はキリストと同じ栄光の身体に変えられると聖書は約束しています。更にイエス様から『その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」マタイ25章21節』とのお褒めの言葉を頂けたならどんなに幸いでしょう。コロサイに戻ります。
古い自分と新しい自分
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」(5〜8節)
コロサイの人々は古い生き方を捨てきれず地上の物を思い、人間の戒めや教えに縛られて歩んでいたのです。ですからパウロは『不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。』と厳しく命じたのです。このような歩みを続けているならば、神の民とされていても神の怒りを自分の身に招く結果となるからです。人は自分がどこに属しているのかが分かれば自ずとその歩みも変わってくるように、彼等に対し神の民としての意識と自覚を促し『怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。』と言ったのです。それではあなたは神の民とされていることを自覚していますでしょうか?
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(9〜11節)
救いを受ける前は誰でも「古い人」即ち自分勝手な歩みをしていました。しかし救いを受けた今は「新しい人」キリストによって変えられ、キリストに従って歩む者になったのだとパウロは言うのです。キリストが十字架の上で流された血潮で私達の全ての罪が赦され全ての汚れが聖められました。またその血潮に覆われているため、罪があっても罪がない者と見なされているのです。しかし残念ながら中身は古いままの自分がいることがある。ですから新しく造り変えられた者として、また神の民として歩み始めるには「古い人」を行ないと共に脱ぎ捨てる決断をしなければならないのです。『新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。』と約束されています。パウロは4節で『私たちのいのちであるキリスト』と語っています。すなわち「私の生き甲斐はキリストです」と告白したのです。「古い自分」は要らない。自分が自分らしく生きる道は「新しい人」を着る以外にないことがはっきりと分かったのです。果して私達は「私の生き甲斐はキリストである。」と言うことが出来るでしょうか?私自身もメッセージの用意をしながらまだまだいろいろなものを持っているなと正直告白せざるをえません。では何故パウロはここまで大胆に告白することが出来たのでしょうか?
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8章35〜39節)
パウロは多くの患難と苦しみと迫害に会いました。教会からも非難されたのです。同胞から言われるほど辛いことはないですね。彼はそのようなものに会ったとしても「キリストの愛から私を引き離すことが出来ない」という程にキリストの愛がパウロを変えたのです。そして「キリストの愛こそが自分を生かすのだから古い人は不要であり、キリストによって造られた新しい自分こそが全てである」と彼は言っているのではないでしょうか?パウロは天にある物もの、上にあるものを求め歩んでいくことが出来たと言えると思います。では私達はいろいろなことがあったとしてもキリストの愛から私達を引き離すことが出来ない程にキリストの愛を知っているでしょうか?あらゆる領域においてキリストの愛が本当に分かるように祈っていきたいですね。そうすれば私達の生き甲斐は“キリスト”になっていくのではないでしょうか?キリストが生き甲斐となっていくならば、天にあるものを求める歩みへとなっていくのではないでしょうか?
アブラハムは今まで築き上げてきた人間関係や仕事全てを捨て神様の示す地に行きました。これから向う地は全く知らない土地であり、見ず知らずの人々がいます。今までの経験や知識が役に立たないかもしれません。それでもアブラハムは神様の言葉を信じたのです。地上にあるものは神様の約束と比較するならばアブラハムの目には色あせて見えたでしょう。また自分が生きている間に乳と蜜の流れる地を所有出来なくても天にあるものを求める歩みをしていたからこそ気にならなかったように思われます。神様が示す地に出掛ける決断はアブラハムに今までの歩みを捨て新しい歩みに入ることをさせたのです。
先程信仰生活は今まで慣れ親しんできた歩みと新しく生まれ変わった歩みとの衝突であると言いました。その衝突した時にあなたは「古い自分のまま」でいるか「新しい人を着て歩む」かの決断をするでしょう。古い人は地上にあるものを思い、新しい人は天にあるものを思う歩みとなっていきます。そしてキリストが生き甲斐になっていくのです。さてあなたの生き甲斐、あなたの人生の目的はどこにあるでしょうか?またキリストの愛を実感出来るような歩みとなっているでしょうか?もう一度自らの歩みを主の前に点検させて頂きましょう。