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「愛がなければ!」

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2003年11月2日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書第1コリント13章1節〜13節より
牧師 吉田耕三

神様の愛の現われ

ある心理学会で講演者が「私達がこの時代にあって一番必要な事柄は『信仰(信頼)』である。」と言い、会場からは大きな拍手が起こりました。次の講演者は、「私達の時代に本当に必要なのは『希望』である。」と言いました。そして最後の人は「一番必要なのは『愛』である。」と言ったのです。聖書の学会ではなく心理学会の中で、私達に必要なのは「信仰(信頼)」「希望」「愛」だと語られたのです。今日読みました13節『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』私達はこの『愛』をもっと認識し、そこに生きる者とならせて頂くことが大切ではないかと思うのです。普通でも愛情深く素晴らしい人はいます。しかし聖書が語る“愛”は『しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。マタイ5章44節』これが聖書の“愛”なのです。それ以下であれば聖書の基準からはずれてしまう訳です。

真珠湾攻撃を指揮したフチダミツオ【漢字】さんという方がおりました。戦後にC級戦犯証人として立たなければならなかった。その時に「戦勝国(アメリカ)が敗戦国(日本)を裁いているが、戦勝国の中にも戦犯として裁かれるべき者がいるはずである。」と思ったそうです。彼は逆に捕虜となった日本軍人の聞き取り調査を始めました。その中に驚き感動する話しを聞きました。捕虜となった日本軍人の世話をしてくれた女性がいたそうです。2週間、3週間と来て心からお世話をしてくれた。その軍人は「敵である日本人にあなたは何故そんなにも心を尽くしてお世話をしてくれるのですか?」と聞いても彼女はなかなか答えてくれなかったそうです。何度も質問する内に彼女の口から「私の両親はフィリピンに宣教師として遣わされていました。そこに日本軍が来て両親を殺していったんです。

だから……」「だから憎む」「だから恨む」なら理解出来ます。彼女は「両親は殺される前に『30分だけ待って欲しい』と頼み、聖書を読みお祈りをしました。そして殺されました。私は両親がその30分間に何を祈ったのかと思った時に「両親はこんなことをしなければならない日本人のために祈ったに違いないという思いが心に響き、とするならば両親が自分に願っていることは、その日本人に尽くすことである。本当に敵をも愛する愛を伝えることではないか。」と続けて話した。そして彼女は敵である日本人のお世話をしてくれたのです。

【フチダ】氏はこの話を聞き感動はしても何か腑に落ちなかった。ある日道を歩いているとトラクトが配られていました。そこには「私は日本の捕虜となり日本人から本当に酷いことをされた。『敵をも愛する神の愛を知らない日本人はこういうことをせざる得なかったのだ。』と思いその福音を伝えるために日本に来ているのです。」と書かれていました。このトラクトを見た時にあの捕虜の世話をしてくれた女性を思い出した。

それから【フチダ】氏は聖書を読むようになった。するとイエス様が十字架に掛けられる時に言った『「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23章34節』にぶつかりました。その時に【フチダ】氏の目頭は熱くなり「自分を殺そうとする者のために祈る祈りは一体何なのだ?」そしてこれが日本人捕虜を世話してくれた女性、或いは日本軍の捕虜となったあの人が神の愛を伝えるために日本にやってきた心であると分かり、彼はイエス・キリストを自分の救い主として信じるようになりました。私達はこういう愛を知る者とされたのです。理解を超えた愛であります。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章5〜8節)

神様に逆らい嫌われることばかりをして、まだキリストを受け入れるかどうかも分からない私達のためにイエス様は十字架に掛かり死んで下さった。私達が何度も裏切り、酷いことをしてもなお私達を赦し受け入れるためにキリストは死んで下さった。ここに神の愛が現わされているのです。

実はクリスチャンはこの愛を体験出来る者なのです。イエス・キリストを信じた者には神の聖霊が宿ります。自分の罪を認め告白し救い主と信じる時に、神様は“聖霊”を送って下さいます。この聖霊は「イエスは主である」と告白させ、イエス様が「私のために十字架に掛かって下さったこと」を信じることが出来るのです。ですから私達の心は神様の愛が満ちてくるのです。この5節『なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』聖霊により神様の愛が感じられるのです。

イエス様は背中を鞭打たれ、頭にいばらの冠が被らせられ、最後には手足に釘が打ちこまれました。でも何も文句を言わず黙々とその道を歩み続けました。どうしてですか?そうしなければ私達の罪が赦されないからです。イエス様にはそれを受けなければならない義務も責任も全然ありませんが、私達を愛した愛は十字架まで行かなければならなかった。私のためにイエス・キリストは死んで下さったことを聖霊様は段々と示して下さいます。

「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊悲惨がある。」(ローマ3章10〜16節)

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17章9節)

神様の光が私達の心の中に入ってくる時に、自分が醜く人を刺すようなものを持っていることに気付かされていくのです。自分の罪深さが分かるほど、神様の愛が私達の心に迫ってくるのです。私達は「主よ、この愛を教えて下さい。」と求めこの愛に生きる者とならせて頂く。今度は私達がその愛を与える者になれるのですが「そうはなっていない」ですね。それは神様の愛を「私へのもの」として受けとっていないからではないでしょうか?この愛をもっと深く教えられていきたいと思います。

愛によって互いに仕え合う

先月から「御霊の賜物」について話をしています。イエス・キリストを信じた人には必ず御霊の賜物が与えられています。キリストを信じた人には必ず2つ、3つ与えられていると思います。またお互いに「あなたにはこの賜物があると思います」と言い合って下さい。これらの賜物が生かされ合うことによって教会が教会らしくなっていくのです。日本の教会が弱い理由の一つに私はこの賜物が生かされていないということが挙げられると思います。神様はお互いに助け合い、励まし合い、支え合い教会を建て上げていくようにとあなたに賜物を下さっているのです。ですから発見することが大切です。それぞれの賜物が生かされる時に教会らしい愛の交わりになっていくのです。そのためにその賜物を与えられている人が生かされる必要があるのです。けれども注意しなければならないのが13章の最初の言葉なのです。私達は愛という動機でその賜物を用いなければならないのです。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(第1コリント13章1節)

「異言」とは習っていない外国の言葉が自分の口から出て来たり、神様とその様な特別な関係を持つことが出来る賜物です。しかしその不思議なことがあったとしても愛がないなら邪魔ものであるということです。

「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」(2節)

神様からいろいろなことを教えられたり、また神様の言葉を人々に語ったり、神様の真理を理解しその奥義を伝える人。或いは聖書の中にあなた方が本当に心で信じて「海の中に山が動いて入れ」と言えば実際に動くほどすごい信仰があるとしても愛がないならば何の値打ちもありません。

「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。」(3節)

潔く持っている物全部を貧しい人に分け与えること出来ますか?でももし「自分はこれだけやっている」という誇る気持ちや「他の人には出来ないだろう」という見下す気持ちがあるならば、何の役にも立たない。また『私のからだを焼かれるために渡しても』それを誇る気持があれば何の値打ちもない。本当に愛によって用いられる賜物だけが大事であるというのです。この愛は単なる愛ではありません。『敵を愛し、迫害する者のために祈る』という種類の愛でなければ意味がないのです。

「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつをしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」(マタイ5章46〜47節)

自分に良くしてくれる人に対して良くすることなど罪人でもやっている。あなた方が神の子であるならば自分に酷いことをする人に対しても良くしてあげるのが神の基準ですというのです。そうなると「私は基準に全然合っていない」と思い初めてへりくだることが出来るのです。

「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」(第1コリント14章1節)

へりくだった者は「イエス・キリストの愛を追い求めることが出来るようにして下さい」と祈ることが出来ますし、それが出来るようになっていく。自分は「まあまあ」と思っていたならば祈りも求めもしないでしょう。私達の基準は『敵を愛し迫害する者のために祈る』です。これ以外は基準に合っていないのです。自分の中にそんな物はないのです。キリストは義務も責任もないのに私のために血を流し釘打たれて下さったことが深く心の中に入ってくる時に初めて私も他の人のためにもそうさせてもらおうという気持ちになっていく。これが真の神様の愛に生きる生き方です。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(第1コリント13章4〜7節)

人が失敗した時に「何をやっているんだ」ではなく優しい言葉が出る寛容さがありますか?自分に酷いことをする人に対しても親切ですか?自分よりも良い物や素晴らしい物があるとすぐに妬む心が出て来ませんか?少し良くなると自慢して高慢な気持ちになっていないでしょうか?また礼儀に反せず、自分の利益を求めない。私達はいつも怒っていませんか?人のした悪をいつも思い、自分の不正は嬉しくて、真理は嫌で、全てを我慢しないで、信頼するのは嫌で、期待もせず耐え忍ぶことは絶対にしない。これが私達です。

でも私達はこのことを簡単に「出来ない」と言わないで欲しいのです。今日の説教題は「愛がなければ」です。愛の持てない人に「愛がなければ」と言っても相手は苦しいだけです。出来ないことをしなさいと言われるほど苦しいものはありません。でも神様が「愛がなければ」と言うのはクリスチャンが愛を持てるからなのです。私達がキリストの十字架を思い、キリストを受け入れるならばこの愛が満ちてくる。本当にイエス様が私のために命を掛けて下さったことに思いをめぐらす時に、あなたの心には愛がだんだんと広がっていくことを体験していくと思います。

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に現われているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(8〜12節)

コリント教会は特に異言や預言の賜物を与えられていてそれを誇り「皆がそれがなければならない」と語ってもいたのです。ですから12章の終わりには「みなが預言者か」「みなが異言を語るか」「みなが解き明かしをするか」といっているのです。どんなにすごい賜物を与えられ、どんなに奇蹟が成されても誇る内はまだ子供です。永遠のものは愛である。私達はこれを求めていくべきです。具体的には「神様、私にあなたの愛が分かるようにして下さい。十字架の愛が分かるようにして下さい。自分の罪が分かるように」と祈られたらよいと思います。私の罪を赦すために神様の愛の大きさが分かってくるのです。そしてその愛の大きさがしみてくる時に、私達もまた他の人に愛をもって仕えていくことが出来るのです。

先程も言いましたが賜物が生かされていく時に教会は本当に生き生きしてきます。皆さんには皆さんでなければならない賜物が与えられているのです。そして教会には皆さんでなければならない使命があることをご存知でしたか?でも多くの場合それに気付かないから何もしない。だから教会があまり元気がない。1人1人違っていいのです。自分に与えられている賜物と与えられていない賜物をはっきりと知ることが大事です。

そして神様はその賜物をもっともっと増し加えて下さるのです。でも自分が出来ることは他の人も出来ると思ってしまわないで下さい。それはあなたがするのです。そしてそれが分かった時に高慢な思いも出てきますから気を付けて下さい。愛によってそれぞれの賜物が生かされあっていきたい。そして「あそこはキリストの愛に満ち溢れている」といわれるような教会になっていきましょう。

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