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「神の祝福」

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2003年11月9日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書マルコ10章13節〜16節より
牧師 吉田耕三

「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」(民数記6章23〜27節)

今日は「子供祝福式」として祝福をイエス様の御名で祈りました。「イエス様は祝福を与えて下さっている。」是非このことを覚えて頂けたらと思います。何度も”祝福”と聞いていると思いますが、今日は神の祝福にもう1度目を向けてみたいと思います。

神様の「祝福」とは

聖書には多くの”祝福”という言葉が出ています。神様は天地創造の初めから人類を祝福して下さいましたが、その中で特に”祝福”が語り始められたのはアブラハムという人物からでした。神様が彼に語った言葉が聖書に書かれています。

「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1〜3節)

神様はアブラハムと彼の子孫を祝福して「全世界の基としよう。全ての人々はあなたによって祝福される。」と言われたのです。アブラハムの子孫の中にイエス・キリストがおられ、イエス・キリストにより全世界の人の罪の赦し、永遠の命が注がれていったのです。正しくアブラハムへの祝福が全世界に届けられている時代になっているのです。

ではその”祝福”とは具体的にどんなことなのでしょうか?アブラハムに対して神様はあらゆる面で祝福していたと書かれています。健康面、人間関係、経済面でも祝福されていたでしょう。これがアブラハム本人だけでなく息子イサク、孫のヤコブにも与えられました。

「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」(創世記26章12節)

「これは神様の祝福だ」と誰もが認めざるをえない状況があったのです。ヤコブは何も持たない一文無しでしたが大きな群れを持つようになりました。ヤコブの息子ヨセフについては

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」(創世記39章2〜5節)

彼は奴隷として売られたのですが、主人ポティファルはヨセフには神様が共におられるのを見て、彼に自分の財産を託した時から益々祝福が溢れていったのです。実際にはヨセフ自身はいろいろと苦しい目にあっているのですが、周りの人達を富ませ豊かにしていくという祝福が溢れていった。

先程アブラハムに語った約束『地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』ですが、アブラハムの子孫であるユダヤ人達は「俺達は他の民族とは違うんだ」という間違った受け取り方をしたため、彼ら自身が他の人々の祝福となるということを忘れてしまったのです。そして祝福をもたらすのではなく却って災いをもたらす者となってしまったと聖書は伝えるのです。彼らが神様を認めようとしないので、神様はその祝福を教会に移されたのです。教会を別の言葉で「霊的イスラエル」ということがあります。私達はその祝福を受けることが出来る者とされたのです。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1章3節)

キリストを信じているならば、あなたには『天にあるすべての霊的祝福』アブラハムに約束されたこの祝福が注がれているのです。私達が”祝福の基”として多くの人達の祝福のために祈るべきであると言われているのです。

「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(第1ペテロ3章8〜9節)

私達は自分が祝福を受けるだけではなく、周りの方々も祝福する。皆さんが他の方のために祝福を祈るならば、その方に祝福がいくのです。すごい約束を私達に下さっているのです。だからあなた方は祝福の基となりなさいという訳です。

旧約時代は目に見える形で祝福が現わされていたので、まず物質的に豊かにされた。しかし新約時代には物質的にももちろん祝福して下さるのですが、神様はそれ以上に霊的祝福を与えて下さる。これこそが本当に追い求めていくべきであると覚えて頂きたいのです。

「神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」(使徒3章26節)

聖書の中で”祝福”という言葉が出てくる時に必ず何らかの変化が起こるのです。旧約時代は物質的に。今の時代は私達の魂に神様は触れて下さり、私達は邪悪な生活から立ち返り、生き生きと「命の歩み」に歩むことが出来るようにされているのです。私達が祝福を享受して体験していくことが大切なのです。私達も神から受けている霊的祝福が現わされていくことが大切だと思います。「私は霊的なものはどうでもよい。旧約時代のように物質的な祝福の方が良い。」という人もいるかもしれません。でもそれはレベルの低いものです。箴言に書かれています。

「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30章8〜9節)

私達はただ豊かになれば良いのではありません。お金や物が増えるのは災いでもあると覚えておくことは大切かもしれません。物質は祝福の一部です。本当の祝福は霊的祝福なのです。その時に私達の心は感謝に溢れ喜んで歩むことが出来ます。そして私達は神様から霊的祝福を既に受け取っているのです。ですから私達はその祝福が発揮することが大切です。この祝福を実際に味わえるようになるにはどうしたらよいかを考えていきたいと思います。

祝福をいただく者になるためには

「主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。」(詩篇115篇11〜13節)

あなたがその祝福を体験していくのに必要なことは『主を恐れる』ことです。「神様を何よりも大切にする。」金銭や物や人よりも大切にする心です。私達は神様よりも他の物を大切にしてしまっていると思いませんか?それが私達が霊的祝福をあまり味わえていない理由です。私達は神様を「友達の1人」か、あるいは「奴隷」のようにしか扱わない人もいるかもしれません。

「正しい者の頭には祝福があり、悪者の口は暴虐を隠す。」(箴言10章6節)

この御言葉を見て「自分は絶望的だ。」と思うかもしれません。私達にとって『正しい者』とは自分の罪や汚れ、弱さや醜さをごまかさずに正直に言い表すことです。それらをイエス様の十字架の血潮で聖めて頂く。「私のためにイエス様は死んで下さり、そして赦して下さっている」と歩むその者は祝福されるのです。

「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」(エレミヤ17章7〜8節)

祝福された者はいつも実がなっているというのです。それは主に信頼し、主を頼みとする者です。私達は神様でない物に信頼し、より頼んでいるから祝福が目減りしてしまうのです。私達は主に期待し、主に頼るその時に主から豊かな実りが与えられていくのです。心が神様に向わない時や祈りが集中しない時に心がガサガサしていると思いませんか?でも神様に向って行く時に、もし問題があっても不思議に満たされた思いになっている。私達が主を待ち望む時に、どんな災いがあっても尚それを乗り越えていく祝福が私達に与えられようとしているのです。

「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。」(詩篇112篇1〜2節)

御言葉をたくわえ、いつも思い巡らしている人です。特に『直ぐな人たちの世代』とは「素直」ということです。神様の御言葉を「そんな上手いこと言っても」とか「いくら神様とは言えそんなに迷惑かけちゃいけない」などと御言葉を素直に受け取ろうとしない。これが祝福を受け取れない1つの理由でもあります。

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10章22節)

素直に大胆に祝福を受け取っていこうとする人に祝福は豊かに注がれるのです。最後に

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」(ヤコブ1章22〜25節)

御言葉を聞いても「良い話しだった。」と全部教会の下駄箱において帰ってしまうのではなくて、聞いたことをきちんと家に持ち帰り、いつもそのことを思い起す。例えば一つの御言葉を思い起してそれに従うことを1週間やり続けるならば神様からの祝福を感じると思います。完全にしなさいとは言いません。100の内1つでいいのです。

主を恐れること。主を大切にすること。主の前に自らの罪を正直に言い表わすこと。主に信頼する。素直に御言葉を受け取り従っていく。そこに神の祝福が注がれる。それこそが私達に本当に必要なことです。お金も健康も友達も必要なものばかりですが、私達を本当に強め豊かにし、励まし慰めるのは神の祝福なのです。この神の祝福が既にあなたの内にあるのです。御言葉に従い、実際の生活の中で祝福を味あわせて頂きましょう。「今日からこの御言葉を実践してみよう。」と是非なさっていただき、神の祝福を頂く1週間となっていただけたらと思います。

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