2003年11月30日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書イザヤ7章10節〜15節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義師
神様の御声
今から約2730年前の出来事です。イスラエルとアラムはアッシリヤの脅威にさらされており、そのためアッシリヤに貢物を納めていました。しかしユダに新しい王が誕生したことを機会にイスラエル、アラム、ユダが3国同盟を結び、アッシリヤからの独立を企てたのです。そこでイスラエルとアラムはユダ王アハズに使者を送ります。ところがアハズ王はそれを受け入れなかったので、イスラエルとアラムはエルサレムを攻撃しました。彼らはアハズ王を滅ぼし、タベアルの子を王に立て自分達の企てを成し遂げようと考えました。最初はイスラエルとアラムの連合軍が勝利を治めておりました。神様はこのような中でイザヤを遣わし語られたのです。
「そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」(イザヤ7章4節)
神様はアハズ王と民達を励ましたのです。しかしアハズ王は神様に依り頼むことをせず、アッシリヤ王チブタテ・ペレセルに助けを求めたのです。チブタテ・ペレセル王はアハズ王の要請を受け、イスラエルとアラム連合軍を攻めました。連合軍はやむなくエルサレムから撤退し、アッシリヤはアラムの首都ダマスコを包囲しアラム王レツィンを殺しました。イスラエル王ペカは何とか助かりましたが、エラの子ホセアの陰謀によりペカ王も殺されてしまいました。
「神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。』」(イザヤ7章7節)
この預言がここに成就したのです。しかし今度はアハズ王自身がアッシリヤから攻撃を受けたのです。それでもアハズは神様に信頼しませんでした。今日の箇所はこのような背景の中で語られております。
「主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。『あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。』するとアハズは言った。『私は求めません。主を試みません。』」(10〜12節)
アハズ王は自分が依り頼んでいたアッシリヤから攻撃をされたにも関わらず、ますます神様に逆らい、神様を求めず信頼しなかったのです。そこで神様は再びイザヤを遣わし「今までイスラエルの民を導いて来た神とアッシリヤ王とどちらが勝っているのかしるしを求めよ。」と挑戦状を送ったのです。その神様からの挑戦に対してアハズは『私は求めません。主を試みません。』と答えるのです。一見すると謙遜に見えますが、アハズは神様が恐かったのです。彼は神の律法に従わず、バアルに仕えていたからです。それだけではなく、異邦人の慣わしに従い、自分の子供達を火の中にくぐらせていたのです。彼は『あなたがたが、マサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。申命記6章16節』この律法を知っていましたから、自分の心を隠すために御言葉をもって答えたのです。マサの事件とはイスラエル人がエジプトから導き出され砂漠をさまよっていた時に、飲み水がなくなってしまったのです。彼らは指導者モーセに対しつぶやき、石で打ち殺そうとしていたのです。
「民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」(出エジプト記17章3節)
「さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。」(出エジプト記17章6節)
神様が言われた通りに岩を打つと水が出て民は水を飲みました。イスラエル人は神様が葦の海をせき止め、海の底の渇いた地を歩くという素晴らしい経験を味わったのです。ですからたとえ飲み水がなかったとしても、神様を信頼して神様のなさる御業を待つべきでした。しかし彼らは「主は私たちの中におられるのか」と言って神様を試みたのです。これがマサの事件です。
アハズ王もマサの事件と同じことをしていたのです。イスラエルとアラム連合軍がアハズ王を攻めた時、神様は「気をつけて静かにしていなさい。恐れてはいけない。」と彼を励ましたのですから、神様に信頼し、神様の成される御業を待つべきでした。ところが彼は神様に依り頼まずアッシリヤ王に助けを求めたのです。神様はアハズの不信仰を知りつつも素晴らしい神様の愛のしるしを与えると伝えたのです。
愛のしるし−イエス・キリストの誕生
「そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。」(13〜15節)
アハズは最後まで神様に信頼せず神様の御声に聞き従いませんでした。彼が死んだ時に歴代の王の墓に入れることを良としなかったのほど、彼の歩みはあまりにも不信仰であった。しかし神様は忍耐の限りを尽くし彼と歩もうとされたのです。『インマヌエル』とは「神は私たちと共におられる」という意味です。彼がどんなに不信仰であったとしても預言者を遣わし、神が共にいることを示したのです。では神様がアハズに与えたしるしは今の私達にどんな関わりがあるのでしょうか?
「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」この『インマヌエル』と名づけられた方がイエス・キリストです。私達はアハズと同じように自分が困った時は「神様助けて下さい。」とお願いをしますが、普段の生活は「神様は必要ない」と思っているのではないでしょうか?そして相変わらず自分勝手な歩みを続けている私達に対して、神様は忍耐の限りを尽くし私達を愛されたのです。神様が私達を赦すために、愛する我が子をなだめの供え物としてこの地上に送って下さったのです。これこそが神様の私達へのしるしであり、このことが神様から私達への愛の贈物なのです。
私達は何の不自由もなく生活しています。またお金があれば欲しい物は手に入れることが出来ます。しかし華やかな反面、年間自殺者が3万にもいる現実があるのです。自殺を考えるからにはそれなりの理由があるのでしょう。言葉には言い現わすことの出来ない、様々な苦悩や格闘が隠されていると思うのです。その中で自殺者を助けたいと戦っている人達もおります。誰かが死ぬという情報が入るとその方の所に出向き。自殺を思い留まらせるのですが、その時に自殺者は「この人は自分のことをどこまで本気で関わってくるのか?」という疑いの目で見てくるというのです。ですから自分の動機が探られるというのです。様々な葛藤と戦いながら助けを得て自殺を思い留まった方は「親兄弟がいなくても1人だけ話せる人がいれば生きていける。」また「人生の一部を本気になって背負ってくれる人がいれば自殺したりなどしない。」と言うのです。この言葉には本気になって自分のことを心配してくれる人を探し求めている姿がはっきりと現わされているように思います。
確かに物質面では豊かになりました。しかし自分ではどうする事も出来ない困難や苦しみに出会った時、心の奥底では「心の内を本当に話せる人がいてくれたなら。」あるいは「本気になって自分のことを心配して一緒になって考えてくれる人がいたなら」と思ったことはないでしょうか?あなたは神様を必要としていないかもしれませんが、神様は本気になってあなたと関わろうとしておられるのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43章4節)
神様はこう言われているように、私達を愛してくれているからこそ、本気になって関わろうとしているからこそ、御子イエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。しかも『インマヌエル』「神はあなたと共にいる」と言われているように、あなたの人生の一部ではなく、全部を背負って下さろうとしているのです。神様はあなたが窮地に立っている時、『静かにしていなさい。恐れてはならない。』と言って下さるかもしれません。あなたを励まし、具体的な助けてを与えて下さるでしょう。あなたが成すべきことは神様を信じ、信頼し神様の御声に聞き従うことです。そうすればあなたは『インマヌエル』の神様を日々の歩みの中で味わっていくのではないでしょうか?
「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9章36節)
イエス様は人々を見て、『羊飼いのいない羊の様に弱り果てて倒れている』ように見えたのです。つまりイエス様はあなたが今どんな状況にあるのかを誰よりもご存知なのです。最も私達の方で、自分が弱り果てているとは思っていないですね。もしかしたら弱さを認めてしまうと、この世の敗北者になってしまうから頑張っているかもしれません。しかし現実は重荷を負うことに疲れ果て、思い煩っている。そろそろ自分に正直になり自分の状態を素直に神様の前に認めてはどうでしょうか?そんなあなたに向かい神様はこう語ります。
「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ43章4節)
私達がどんなに不信仰で逆らったとしても神様はなお『そうしてきた』と語るのです。神様はここまで私達のことを心配しているのです。それでもあなたは自分の力で歩み続けるでしょうか?もうこの辺で神様に重荷を委ね、神様と共に歩んでみてはいかがでしょうか?あなたのために用意された神のしるしである愛の贈物が「イエス・キリストの誕生」です。あなたがイエス・キリストを心から喜んで迎えるならば、いつも自分の側にいて下さる神様を日々味わいながら歩むことが出来ると思います。あなたを本気になって心配してくれるイエス様がいるのですからあなたは1人ではないのです。神のしるしはあなたを遠くで見ているのではなく、あなたが白髪になっても背負い、運び救い出し、あなた共に歩もうとしている神様の愛の証なのです。
人間は様々な偶像を自ら作り拝んでいます。人間が作った偶像に対して一生懸命に拝んで、近づいて「助けて下さい」と拝みますが、その偶像は私達を助けているでしょうか?ところが真の神様は私達が近づかないにも関わらず神様の方から私達の方に近づいて下さったのです。アハズ王は真の神様を知っていました。その神様が『気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。』と言われたにも関わらず、神様を否定し、偶像やアッシリヤの力に向かってしまったのです。それでもなお神様は私達の方に近づいて下さっているのです。イエス・キリストの誕生は神が私達の方に近づいているしるしです。神のしるしである愛の贈物を心から喜んで受け取り、自己中心の歩みから神中心の生き方に変えてみてはいかがでしょうか?神様はあなたの決断を心から待っているのです。もう1人ぼっちにしたくはないのです。一緒に歩もうとしているのです。ですからあなたがその決断をすることを、神様は今か、今かと待っておられるのです。もうあなたは1人ではありません。「インマヌエルの神」すなわち、神があなたと共におられるのです。