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「神の愛の現われ」

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2003年12月7日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書第1ヨハネ4章7節〜21節より
牧師 吉田耕三

アドベント(待降節)第2週に入ってまいりました。毎年祝われる集会ではありますが、その度ごとにその意味をもっと深く、もっと重く受けとめることができたならと思います。今日は「神の愛の現われ」というテーマでお話をさせて頂くことにしました。”十字架”というものが一体何であったのか?それは他でもない「愛の現れ」であった。「そんなことは百も承知だ。何度も聞いているメッセージだ」と思うかもしれませんが、聞いているということと、それを受け取っているということは別問題です。私達はそれを受け取らせて頂く時に力が出てくる。この箇所はまず神様が私達を愛して下さった。そして神様の愛を受けた時に、私達は他の人を愛することができ、互いに愛しあっていく時に、そこに神の愛が現われると言っている訳です。私達はそういう意味において”神の愛”をこの朝もう1度心に深く刻み、それを本当に受け取らせて頂きたいと思うのです。

神は愛である

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(7〜8節)

この短い箇所の中に”愛”に対する大事なメッセージがいくつも記されているように思います。まず第1は『愛は神から出ている』というメッセージです。神様を信じていない人でもとても愛情深い人がいます。しかし聖書ははっきりと真の愛は神様からしか出ていないと言うのです。いわゆる「無私の愛」は神からしか来ないと明確に語っているのです。表面的には優しい人はいるけれども、本当の奥を見るならば皆、自分勝手な人間である。「美しいバラにはトゲがある」という言葉もあるように、私達も「良いかな」と思っても痛い目を受ける訳です。しかし本物の愛がある。それは神から出ているのです。

さらに『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』もし私達に愛がないならば本当の意味では神様を知りえないと極論的に言えばそうなってしまうのです。もし私達が神を知り、神の愛を知っているならば、あなたの内にも神の愛が生まれ出るはずですが、もしそれが全然ないのであれば、あなたはまだ神を知らないのではないですか?ということなのです。それは神様は愛だからです。神様のご性質が愛だからです。私達も神様との交わりがあるならば愛の種が植え込まれますから、多い少ないは別にして必ず愛の現われが出てくるはずだという訳です。そして私達がこの神様を知ること、神様と交わることがその愛に生きる秘訣であるという訳です。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(9節)

「『神は愛です。』というが、どこにその愛があるのだ。見せてくれ」といわれるかもしれません。皆さんはどういうことを通して、またどういう時に愛されていると感じますか?私が母親から「愛されている」と感じたのは、熱が出て寝ている時に目を覚ます度に冷たいタオルで頭を冷やしてくれていた。「いつ寝ているの?」と聞くと「大丈夫よ」と言いながら看病してくれていました。そのように犠牲を払ってくれる中で「愛してくれている」と感じたような気がします。

神様はご自分の1人子をこの世に下してその愛を現わしたのです。神様を分かる人にも分からない人にも、あえて言いますなら、聖書は全ての人がまだ罪人であった時にイエス・キリストは十字架で死んで下さったとあるのです。私達が神様を求めたからではなく、神様に対して素直な心になったからではなく、私達がまだ背いていた時に、神は私達を愛して下さり十字架にかかって下さった。イエス様はこの地上に来られる前は、父なる神様と共に完全な栄光と権威と誉れを持っていました。本当はイエス様はこの地上に来る責任や義務は1つもなかったのです。私達がお願いした訳ではないのに自ら犠牲を払って下さった。そして私達のために十字架にまでかかって下さったのです。ここに神の愛が私達に示されたのです。

十字架に現われる愛

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(10〜11節)

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5章8節)

神様に逆らい背き、神様の嫌われることばかりをやっていたその時に、神様は私達のために死んで下さったのです。人が命を捨てるとはどういうことでしょうか?

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)

キリストはその”命”をお捨てになり、私達に真の愛を教えて下さったのです。どうしたら私達はその”愛”がもっと身近になるのでしょうか?それはイエス様の死が「私の罪のためである。自分はどのような者であるのか」が明確に分かることが大切ではないかと思います。

私がイエス様の十字架の愛を本当の意味で受けとめたのは、実は私は2回信じる時があったと言えば良いでしょうか。あるキャンプでイエス・キリストを信じますと告白しました。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。第2コリント5章17節』という御言葉がありますが「それが欲しい」と思ったのです。それで信じたのですが、私の家はクリスチャンにものすごく反対でしたから、非常に苦しい思いをしました。次の年にもまたキャンプに行って「今度はどんなことがあってもキャンプでは信じないぞ」決めていたのですが、メッセージを聞きながら、イエス様が十字架に架かった時に唾を吐きかける者や平手で打つ者、また茨の冠をかぶらせる者、鞭を打つ者、槍で脇腹を突き刺し者がいました。私はそれを聞きながら「イエス様が私のためにそのようにされているのだ。私がイエス様の脇腹に槍を突き刺しているのだ。自分が唾を吐きかけているのだ。」と思えたのです。そしてキャンプ中は絶対信じないと決めていたのですが「分かりました。」と委ねた時に心に大きな平安がやってきました。

私達は自分の姿を知る時に、その自分をイエス様は責め立ないでそのままを受けとめて下さることを知る時に、私達は神様の愛が身近になってくるのではないでしょうか。ぼろぼろで自分では自分が分からない。直そうとしてもしても直らない。どうしようもない自分。私達はこれをしっかりと直面し直視する。そうして、その自分のためにイエス様が死んで下さった。その自分を造り変えるために、愛するために来て下さった。このことを知ることが大切です。その時に私達は大きく心が変えられます。神様は立派なあなたではなくて、もう自分でも自分が嫌になって見捨てたくなる、こういうあなたの為に死んで下さった。私達はそこまでの醜い自分をまだ知っていないのではないかと思います。自分の罪の姿を見せられてくると「そんなに人間とは酷いのだ。」と段々と自分の惨めさが分かってきます。「私の罪のために、ぼろぼろ状態の私のために、不信仰な私のためにイエス様が死んで下さった。」ここに愛があるというのです。

皆さんはまだ他の所で愛を探していませんか?探す所を間違っているのです。愛はこの十字架の中に現されているのです。あなたのためにイエス様は命を捨てて下さったのです。それ程にあなたを愛して下さっているのです。命を捨てて下さったほどに皆さんが愛されているということを受け取っておられたでしょうか?でもそう言われても地球上の60億分の1人でしょうとハスに構える方がおられますが、神様は私達のような限られた愛ではなく、無限の愛です。全ての者に100%の愛を与えてもまだ余りある愛を与えることの出来るのが神様なのです。あなた一人だけであったとしても神様はその愛をあなたに注ぎ込んで下さる、これが神の愛なのです。そのような愛があなたに現されている。私達はそれを受け取るか否かです。イエス様はあなたの罪の身代わりとなって死んで下さったのです。私達は知っているとはいっても浅くしかその意味を受け取ってはいないのではないでしょうか?この私のために身代わりとなり、全ての栄光、全ての権威を捨てて惨めな死に方をして下さった。このことをもう1度深く心に覚えていきたいと思うのです。そして私達の心にこの神の愛を満たして頂きたいと思います。

聖書は語ります。今度はあなたがこの神の愛を流す者になっていくようにと。クリスマスとは私達にこの愛が注がれた時です。私達はもっと深く、もっと重くこの愛を分かるようにして下さいと祈っていきたいと思うのです。聖書の信仰は恐れによって歩む信仰ではありません。そうではなくこの愛に感動し、神様の愛に押し出されて愛の1歩を踏み出すものなのです。そのようにしてキリストを心から愛するものとされていきたいと思います。どうぞ神の愛、犠牲の愛。このことをもう1度鮮明に受け取らせて頂きましょう。そして私達もまた共に愛の中を歩む中に立たせて頂きたいと思います。

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