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「闇と光」

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2004年8月22日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ3章16〜21節より
牧師 吉田耕三

1週間の夏休みをもらい、2年振りに家内の実家近くの教会に行きました。その教会の方がノートを開いて「仙台福音自由教会の方ですね。」とすぐに分かりました。聖書には「いのちの書」があると書かれています。イエス・キリストにより罪赦された者は永遠の命が与えられ、いのちの書に名が記されている。前回ヨハネ3章16節”聖書の中の聖書”と言われる箇所を通して、私達が永遠の命を持つことが出来るためにイエス様はこの世に来て下さったことを学びました。それは本当に神様が私達のことを思い、心配し、愛して下さっているから、ひとり子を与えて下さった。16節後半に『ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』という言葉が出てきます。私達は普通にいけば天国に行けるのではないかと考えている人が多いと思います。でも聖書はそのように言ってはいません。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル9章27節)

ですから私達が一体どういう者であり、どうされているのかの明確な認識を持たせて頂くことが大切ではないでしょうか。もう1度このことを明確にするために17節以降で語って下さっているように思うのです。

キリストを受け入れる者は裁かれない

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(17〜18節)

私達は自分が今どういう者であるかを認識することにより、自分が取る態度や姿勢が変わってくるのです。私達には裁きが迫っている。でもイエス・キリストが来たのは、あなた方が救いに入れられるためであることを認識して下さいということなのです。昔ノアの洪水がありました。当時人間は段々悪に傾いていた。今の世の中と少し似ていると思いませんか。聖書の預言に世の終わりが近くなった時に『不正がはびこると愛が冷える』とあります。あるいは世の終わりが近づくと情報が氾濫してどれが正しいものか分からなくなるとダニエル書に書かれています。

皆さんが箱庭を作りロボットをその中にいれる。ロボットに少し自由を与えたら、ロボット同士で喧嘩、意地悪、裁き合いなど、ひどいことばかりしてお互いが傷つけあっていたらどうでしょうか。それがエスカレートしていったなら「これは失敗だ」と全部壊してしまうのではないですか。神様が人間を造った時には自由意思を与えました。しかし人間は自由意思を悪く使い、悪いことばかりをするようになった。その結果、神様はこの地を滅ぼそうとなさったのです。

でもその中でノアは正しい人物であったと書かれています。神様は彼に「これから大雨を降らせてこの地上の物を滅ぼすからあなたは箱舟を作りその中に入りなさい。そうすれば助かるから」と命じました。ノアと息子達はそれを信じて山の上に箱舟を作り始めます。人々は「こんな山の上に舟を作ってどうするのだ。」と馬鹿にしました。そしてノアと家族、地上の全ての動物1つがいを舟に入れ終った時に後ろから戸が閉まったと書かれています。それまではいつでも入れたのですが、戸が閉まってしまったので、入ろうとしても入れずに雨が降ってきて洪水で全てのものが滅ぼされてしまった。

この洪水の後に神様は二度と全世界大の洪水で人を全滅させることはないと決められたと書かれています。しかし火で焼かれる時がくると書かれてはいます。本当の裁きの日が来ると書かれているのです。私達は皆な裁きを受けなければならない。「どうして」と思うかもしれませんが、胸に手を当てて考えるとそういうことをやっていると思いませんか。神様が「愛し合うように」と造った人間は互いに責め合い、裁き合い、恨み合い、憎しみ合い、本来の人間の姿と全然違うことをしている。そういう私達は当然裁きを受けるはずです。

「神様は愛なのだから裁くなんてひどい」と思うかもしれません。しかし不正を働く人がそのまま何も咎めなしであったら皆さんはどう思いますか。「あの人はきちんと裁かれなければだめだ。公平にされなければだめだ。」と思います。とするならば私達も公平に裁かれなければなりません。この事実をしっかりと知る必要があります。神がおられるのならば自分の言っていること、していることは神様にそのまま赦されるはずはないと思うのではないかと思います。その時に、イエス・キリストによりもたらされている救いが真剣な深い意味で受けとめられるようになってきます。

『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』とあります。信じるという言葉は、「〜の中に入る」という意味です。箱舟の中に入るように、私達がイエス様の中に入れば、ノア達家族が守られたように大丈夫です。でも入らなければ「大丈夫」と言っている内に雨が降ってきて自分の背を遥かに越えるでしょう。私達はイエス様に入っていなければこの裁きが迫っていることを知るべきです。とするならば私達は急いでこのイエス様の中に入ろうとするのではないでしょうか。イエス様は私達が受けるべき全ての裁きを受けて下さったので、イエス様の中に入った私達はもはや裁かれることはない。これが聖書の言う救いです。難しいことではありません。イエス様を救い主として信じる。しかし本当にそのことをしているでしょうか。

ある方が夢を見ました。天国の門まで行くと門衛が立っており1つの質問をされた。
(門衛)「あなたはイエス・キリストをどうしましたか。」「私は前からイエス様のことを聖書で読んで教会にいつも行っていました。」(門衛)「私が聞いているのは、あなたはイエス・キリストをどうしたかと聞いているのです。」「私はお祈りもよくしていましたよ。人のためにね愛の業もしていたんですよ。」(門衛)「そうではなくて、言っていることが分からないようですね。あなたはイエス・キリストをどうしましたか。」

そこで目が覚めた。彼はそこにひざまづき「私は確かに罪を犯して来ました。あの人、この人と責めてきましたけれども、この私に罪があったことが分かりました。そしてこの罪からの救い主としてイエス・キリストをお迎えします。」

私達はイエス・キリストを無視するのか。素晴らしい方として認めるだけでもだめなのです。必要なのは自分の救い主として受け入れる。”信じる”という言葉は別の意味では「委ねる」という言葉です。このお方に全面的に委ねていくならば私達は確かに裁かれることはないのです。

光の中を歩むと闇が見えてくる———悔い改める

「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(19〜21節)

イエス様を信じ、救い主として受け入れた人は、生まれ変わりという奇蹟的な経験をするのです。生まれ変わりが起こった時に私達は不正を憎み、真理を喜び、光を喜ぶようになる。出来るかどうかではなく、それを求めるようになっていく。私達は誤魔化して、嘘で固めて、暴かれるのを嫌ったりするけれども、生まれ変わりを経験すると、正直になりたいと思いますし、実際に正直になっていくのです。段々と光が好きになってくるのです。反対に悪い心は光を拒むのです。もし私達の中に生まれ変わりの命があるならば、光を好み「そのようになりたい」という思いが私達の内に与えられます。そして少しずつかもしれませんがそこに向かっていくことが出来ます。昨日よりも今日、去年よりも今年、もっと正直に生きられるようになっていくのです

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第1ヨハネ1章5〜7節)

神様は光であることは分かると思います。ところが私達が神様と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるならば、私達は偽りを言っており、真理を行なってはいないと言います。そしてもし神が光の中にいるように、私達も光の中を歩んでいるならば、互いに交わりを保ち、イエスの血は全ての罪から私達をきよめる。

もし私達の内に光があるならば、光の方に近づき正直になっていきたいという気持ちが出てくるということです。しかし朝日が入って来た時に、ホコリが見えるのと同様に、真実に神様の光の中を歩み始め御言葉の光に照らし合わせますと、自分の中にあるいろいろなものが見えてきます。それはあまり嬉しくないですし、苦しくなってくるのです。しかしここでどうするかです。「嫌だ、嫌だ。もう止めた。」となるならば私達はまた闇の方に帰って行ってしまうのです。それに対してその度毎に「その通りです。私は確かに心の中に妬みがありました。裁いていました。恨んでいました。あの人が問題、この人が問題と思っていましたが、私自身が問題でした。」と正直に神様に申し上げるようになっていくと、心が暗くなるのではなく明るくなってくるのです。私達は神様にあって、そのような生き方に召されているのです。これは生まれながらの人には出来ないのです。

しかし私達はイエス様の救いを頂いていますから、自分の罪を認め告白すれば、それに赦しが与えられ解放されていくという特権にあずかれるのです。イエス様を信じるのは難しいことではありません。自分に罪があることを認め、この私の罪のためにイエス様が死んでくれたと認めること。ただ知っているだけでは足りないのです。自分の救い主としてこの方をお迎えすること。お迎えするとは言いかえれば委ね従っていくということです。その方に全面的に委ねていく時に、生まれ変わりの奇蹟が私達の内に起きてくる。

「でも私はイエス様を受け入れたですけれども」という方。受け入れた人にも誘惑は絶えずやってきます。神様に従わせないようにしようという力がいつもあります。御言葉を読んで罪に気付き悔い改められたら神様の光が来ますから、そのままにしておくようにという力が働くのです。

「聖書なんか読んでも分からないでしょう。つまらないでしょう。止めなさい。テレビを見たほうが楽しいよ。」「いつも同じことを言っているのだから、教会に行っても仕方がないよ。」といろいろな誘惑がやってきて、神様の言葉から段々と遠くなってくる。すると光を通しての悔い改めが出来なくなってきますから、神様が備えて下さっている恵みを味わえなくなってしまうのです。全面的にその言葉に従い、委ねて行こうとする思いを揺るがす誘惑が絶えずあります。私達は思いきって「この私のために死んで下さった方に、全てをお捧げします。お従いします。自分には出来ないけれど、あなたがそれをなさって下さい」と神様に委ねる。

そしてここが一番大事ですが、自分の罪が見えた時に大体は隠したり言い訳をします。しかしそれは必要ないのです。そのためにイエス様は既に死んでくれたのですから。私達は「その通りです。私は妬む者、恨む者、憎む者です。」と認めればいいのです。そうすると私達に解放が来るのです。これを常日頃なさって下さい。そして後は「お任せします。」と全面的に委ねていく。その時に神様は素晴らしい業、神様の御力が私達を通して現わされる世界に生きることが出来るようになっていくのです。

先日オリンピックで水泳の柴田愛選手が金メダルをとりました。彼女は日本国内でも勝ったことが殆どなかった。柴田選手は素質があるのだがどうも弱いとコーチは思っていたそうです。コーチが「お前の命を俺に預けないか。」と聞くと柴田選手は「はい。委ねます」と言った。それからの過酷な練習にとにかくついていった。彼女はキックが弱いそうです。そこで彼女は手を強くした。毎日20kmを泳いだ。空気の薄い高地に行っての訓練。本当に彼女の体が壊れるかというぎりぎりの状況。国内でも殆ど勝てなかった彼女が決勝に残り、優勝候補の選手を最後に追い抜いて驚くべきこと成し遂げた。

彼女はコーチに全面的に従っていったのです。私達のコーチは誰ですか。もっと素晴らしいコーチが私達にはついているのです。私達は大胆にこの方に信頼していいのではないでしょうか。そして私達を通して成される神様の御業を期待する。そんな歩み方をすることが出来たら幸いだと思います。私達を真理の中に歩むことが出来るようにして下さるというのです。私達は「嫌だな」という気持ちがあるのです。クリスチャンになって生まれ変わったならそういう気持ちが全然なくなるということではありません。でもその時に光を通して知った自分の姿を認め始めると輝き始めて真理の中に歩むことが出来る。

私達が光の中を歩んでいるならば、私達は互いに交わりを持つと書かれています。私達が光の中を歩んでいるならば誰とでも仲良く出来るはずです。それが出来ないのは闇があるからだということです。その時に「あの人が悪い。あの人は特別だ」と言い訳をしたくなってしまうのですが、「確かに私はあの人を裁いていました。恨んでいました。」と認めていく時にそこから解放されて新しい生き方が可能になる。この様な生き方を神様は与えようとして下さる。これこそがクリスチャンに備えられている祝福の道なのです。

「もし、罪はないというなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章8〜9節)

「私は悪くない」と言っている時には大体問題があるということを知って下さい。「私は何も悪いことはしていない。」これは嘘ですね。それは蓋をしているだけです。あのこと、このこと挙げればきりがないほどに私達は多くの罪や問題を持っています。それを誤魔化すのではなく「その通りです。でもその罪のためにイエス様が死んで下さってありがとうございます。イエス様のあなたの中に入ります。」とイエス様の中に入り込んで下さい。イエス様もあなたをすっぽりと包んで下さり、もう決して裁かれない生き方に導いて下さいます。この祝福の中に共に歩み続けていきたいと思います。

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