2004年8月29日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ3章22〜30節より
牧師 吉田耕三
日本は世界でもっとも長命な国となっています。その中で私達は如何に相応しく歳を取るかはとても大切なことかと思います。ヘルマンホスベルスは「人生の秋」という中でこのような詩を作っています。
この世の最上のわざは何楽しい心で歳をとり働きたいけれども休みしゃべりたいけれども黙り失望しそうな時に希望し従順に平静におのれの十字架を担う若者が元気いっぱいで歩むのを見ても妬まず人のために働くよりも謙虚に人の世話になり弱ってもはや人のために役立たずとも親切で柔和であること老いの重荷は神の賜物古びた心にこれで最後の磨きをかける真の故郷に行くためにおのれをこの世につなぐ鎖を少しづつ外していくのはまことにえらい仕事こうして何も出来なくなればそれを謙虚に承諾するのだ神は最後に一番良い仕事を残して下さるそれは祈りだ手は何もできないけれども最後まで合掌できる愛するすべての人の上に神の恵みを求めるために全てを成し終えたら臨終の床に神の声を聞くであろう「来れ我が友よ我汝を見捨てじ」と!
本当に素敵な歳の取り方だと思います。ではどうやったらそのような者にならせて頂けるのか。それを今日の箇所バプテスマのヨハネの姿から学ぶことが出来るように思います。
あなたの使命は
12弟子のヨハネは数十年間教会形成に携わってきて、その中でやはりバプテスマのヨハネの資質を忘れてはならないことを人々が思い起こし、そのように教会が歩んで欲しいという願いを込めてこの言葉を加えたのではないかと思います。私達もその姿勢を学ばせて頂きたいと思います。
「その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。——ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである。——それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて議論した。彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダン川の向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」(22〜26節)
バプテスマのヨハネが先頭をきって働きを進め、人々が次々と洗礼を受けた。その中にはイエス様もいました。その後イエス様も働きを進め、今度は人々がどんどんイエス様の方に行ってしまうのです。それで「何か面白くない」という思いがヨハネの弟子達の中に起きてきたのではないかと思います。ここに『きよめについて論議した』とあります。これがどんな問題かははっきりとは分かりません。しかし当時クムランという集団の中でバプテスマのヨハネこそが一番素晴らしいく、バプテスマの力があるという考え方があったようです。イエス様よりもヨハネのバプテスマの方が聖めの効力があるという考え方もあったようです。これに対してバプテスマのヨハネの答えがあります。ここに私達が学ぶべき姿勢があります。
「ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎えるのは花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けいているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びに満たされているのです。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(27〜30節)
バプテスマのヨハネは第1に『天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。』この意味するところは全ての権威、全ての良きものは神様からくる。ヨハネは「私は神様から受けた分の祝福は受けるがそれ以上は持つべきではない。」と考えていた。人々はイエス様と比べてヨハネをもっと高めようとしている。しかしヨハネ自身は「それは間違っています。私は神から受けた分だけを受ければよろしい。そしてあのイエス様こそ尊敬と誉れを受けるべき方である」と語っている。
「自分の分をわきまえる」このことがまず第1に必要なことかと思うのです。私達は直ぐに思い上がったり高ぶったりしてしまう者です。そのことを私達は注意する必要があると思います。だからと言って変に卑下する必要はありません。ヨハネも『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と言っています。きちんと神様から遣わされた者としての使命をしっかり受け取っているのです。そういう意味で私達も自分の使命を受けとっていくことが大切ではないかと思います。
次に『花嫁を迎えるのは花婿です。』と結婚式の話が出てきます。花婿の友人はいろいろな結婚式のお世話をします。友人は結婚式が全て上手くいって「良かった」と喜ぶ訳です。ところがその友人がほめたたえられたらどうでしょうか。ほめられるのは花婿(イエス様)であり友人(ヨハネ)ではない。
最後に『あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。』自分が衰え惨めになることを喜んで受けとめる。これはなかなか出来ないことではないかと思います。でもこれができれば、私達は歳をとっても本当に美しい生き方が出来るようになりますし、これが出来なければいろいろな物にしがみついて、幸いでない生き方に陥ってしまう危険性があるのではないかと思います。そればかりではなく、実は人間関係を築く上で問題となるものがここに潜んでいることを学びたいのです。
自分の立場を認識する
「 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するように話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロにつく。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(第1コリント3章1〜6節)
人間は「ひとのあいだ」と書きます。それ故にトラブルが起こる。その原因は肉の思いである妬み、嫉妬、裁き、高慢といったものが私達の内にはびこってしまう。これが人間関係の問題をもたらしている。これらが出て来ると今までの良い関係はたちまちピリピリした関係になる。私達は「あの人のやり方が問題だ。」とか「この人のここが問題だ。」と言いますが、聖書は「あなた方の肉が問題である」と言うのです。私達がそれらの事柄に死ぬことにより本当に幸いな人間関係を営むことが出来るのです。そのことをバプテスマのヨハネに学ぶべきなのです。
弟子ヨハネが数十年教会を導いてきた中で、このことこそ教会が真のキリストの体として歩む秘訣であると悟ったのです。バプテスマのヨハネの言葉「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」自分が受けているものと、他人が受けているものをきちんと分けなければならない。私達は他人を見て自分と比較して「羨ましい」という気持ちや嫉妬の思いが出てきてしまいます。すると穏やかでなくなってしまうのです。
私達に必要なのは、自分はそれを神様から頂いたという考え方。「何故あの人には来て、私には来ないのか」ではなく、今は神様がそれを良しとされたということにしっかりと立つ事が大切なのです。自分の立場をきちんと受けとめていないので、妬みや嫉妬などの思いを心の中に湧き立たせてしまうのです。自分が惨めになりますと「何故」という思いが出てきますが、その時に「これはあの人の分であり、こここそが私の受ける分」と自分の立つべき所に立つ必要があるのです。弟子のペテロはこの点でイエス様の前に失敗をしました。
「イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」イエスは彼に答えて言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」(マルコ14章27〜30節)
熱血漢のペテロはイエス様の言った通りに「イエスなど知らない」と言ってしまいました。でもその後復活されたイエス様はペテロに質問します。
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めて、イエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、わたしがあなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21章15〜17節)
この箇所の”愛する”は「フィレオー(友情に近い)」が使われています。多分以前のペテロであれば「どんなことをがあってもあなたをアガペー(神の愛)の愛で愛します。どんな犠牲を払ってもあなたに従います。」と言ったでしょうが、3度「イエスを知らない」と言った後のペテロは「私の出来る限りにおいてあなたを愛します」と言いました。そのペテロに対してイエス様は「わたしの羊を飼いなさい。」と言われます。ペテロ自身はイエス様の羊を飼うのに相応しい者ではないと思ったかもしれません。イエス様は「わたしの羊を飼うように」とペテロが成すべきことを示しました。その時にペテロは
「ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで、彼が生きながらえるのをわたしが望むしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21章21〜22節)
ペテロはヨハネ(福音書著者)を見て「この人はどうなんですか」と聞いたのです。私達も直ぐに他の人のことを見てしまう。私達は置かれた所において仕えていくことが大事なのです。自分が惨めな所であっても、豊かな所であっても、神様に仕える。神様がそこに召して下さっていると受け取るのが正しい受け取り方です。
私はいろいろな方とお話しながら1つの確信に近いものがあります。それは人には弱い部分があります。そしてその人が嫌だと思っている部分こそが、本当に神様に用いられる所であると感じるのです。弱さこそが多くの人を励ましたり慰めたりする。人間関係に弱いところが、同じく人間関係に弱い人の励ましや慰めになる。「ずぼらなところが嫌なんです。」という人はそのずぼらさが大らかさを与えている。でも多くの方は自分の弱さを隠すのです。「こんなものを見せられない。」と思いますが、良い所も悪い所も含めて神様から頂いたと立って欲しいと思います。そうするとそれが生かされていくのです。ついつい隣の人の庭はよく見えてしまうのです。私達はそれぞれの置かれている所を主からのものとして受け止めさせて頂くことが大切ですね。そしてそれぞれの場所で祭司として召されています。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたに宣べ伝えるためなのです。」(第1ペテロ2章9節)
それぞれの置かれた立場や弱さ、惨めさも含めて私達は祭司として召されている。私達は「もっと違う点で優れた者になりたい。」と思いますが、そうではなく今素晴らしい者とされていることを知り受けとって主に仕えていく者になっていきたいと思います。神様はそれを通して豊かに用いて下さる。
バプテスマのヨハネは人々がどんどんイエス様の元に行くことを良しとしたのです。イエス様を指し示すことが自分の使命であると、そこに徹していったのです。私達もそのように用いられていきたいと思います。そのためには自分がどういう者であるのかを知らなければなりません。皆さんが今置かれている環境は神様がそれを良しとされているですから、そのことを受け取ることをお勧めします。その時にその苦しい、又つらいはずの場所から素晴らしい花が咲き、泉が湧き出るでしょう。こういう恵みにあずかって頂きたいと思うのです。
もう一つ素晴らしいことがあります。それは花婿の友人は花婿と共に喜んでいる。具体的に言いますとイエス様が皆にほめたたえられ崇められているのを喜んでいるということです。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12章15節)
あわれむ心は割合に持ちやすいので一緒になって悲しむことは比較的容易に出来るのですが、難しいのは、喜ぶ者と共に喜ぶこと。表面的には喜んでいる振りが出来ます。でも心から本当に喜ぶことが出来ますか。人が出世して良い目をどんどんと受けていますとうらやましく思います。時には「少し苦しみがあってもいいのに」と意地悪な心がわき上がってくるのが私達ではないでしょうか。本当に喜ぶ者と共に喜ぶことが出来たなら素晴らしいですね。そのためには正直に神様の前に、又人々の前に自分の本当の姿で歩んでいくことが大切なのです。自分の使命をしっかりと認識する時に、ありのままの姿で生きることが出来る。自分の持っている姿で仕えていくことが出来るのです。
自分が神様によって受け入れられ、使命が与えられていることをきちんと受けとっていないと、人のことを妬んでみたり、人のことをけなしてみたり、そういう気持ちになってしまうのです。ところがこのことを忘れていると、変に妬んだり嫉妬したりしてしまう。それは私達自身を不自由な者としてしまいます。私達はあるがままでいろいろな弱さを持っていても神様に用いられるということが分かったなら、素晴らしいではないですか。自分が衰えるならばそれでも良いと受けとめることが出来るならば幸いです。私達はそのような使命を受けとめていきたいと思います。その時に他の人がよくなる時に共に喜ぶことが出来るようになるのです。
自分が一生懸命に活躍してきた場面が段々削りとられ、自分の役割が薄くなっていく時に、本当に喜ぶことが出来るのは自分の真の使命を知るものです。「ここは人に明け渡していくべき所」と思うなら本当に喜んで明け渡すことが出来るのですが、自分の地位やプライドをしっかりと握り、何としても取られないようにすると汲々となってしまうのです。しかしこれが私達の本当の姿です。これを主によって削り取って頂く。コリント教会はキリストが崇められるのではなくて人間(パウロやアポロ)につく者が現われてきました。そうではなくキリストが崇められることのみを求めていく。そのために自分のプライドが削られていくことを喜ぶ姿勢を共に持ちたいと思います。私達はいろいろな言い訳をつけて自分のプライドが保たれることを主張するのです。肉は自分がないがしろにされることに反発を持つのですが、その時に「私ではなくて主が崇められる。これで良い。」と祈っていくことが大切です。それが人間が穏やかな人間関係の中に生き、また穏やかに歳を重ねていく秘訣でもあるのです。
私達は1つ1つ肉のものを外していく作業をしていきたいと思います。キリストはそのために死んで下さった。キリストは全ての権威、プライド、栄光を持っていたのに、その全部を切り裂かれ地の底にまで下ったのを見る時に、「私達もこの道を選んでいきたい。」と願いたいと思います。そして人間関係において自分がないがしろにされるその度毎に「主よ、感謝します。今このことにより私の肉を殺して下さることを感謝します。」と祈るのがよろしいのではないでしょうか。ガラテヤ書、又ローマ書にはこの私の肉は既に十字架につけられたと書かれています。もし私達が信仰をもってこれを受け取るならば罪が赦されるだけではなく、私達のこのような思いも十字架につけられるのです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているには、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)
「私の肉が十字架につけられたことを感謝します。」と受け取る時にそのことが起こるのです。最初は信じ難いかもしれませんが「私の思いが既に十字架で殺されていることを感謝します。」と祈ることをお勧めします。そのうちに段々と「そうだ」という気持ちが出てきて、その思いが消え去っていくことを体験出来ると思います。罪が赦されているだけではなく、罪から解放される生き方が可能にされているのです。そしてバプテスマのヨハネのように、自分のプライドや自分が無視されることに捉われるのではなく、そこに死にキリストだけが崇められることを望みますと求めていくお互いにされていきたいと思います。