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「神がお遣わしになった方」

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2004年9月5日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ3章31節〜36節より
牧師 吉田耕三

9月に入りました。収穫の秋です。私達の魂においても実を結ばせて頂けたならと思います。人生の中で大切な決断をする機会があると思います。就職、進学、結婚など。その決断が後々まで影響するわけです。しかしそれにもまして重要な決断がイエス・キリストに対して取る姿勢と態度であることをご一緒に覚えさせて頂きたい。これが豊かな実を結ぶ秘訣でもあるということです。

あなたのイエス様に対する態度は

「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。」(31節)

弟子ヨハネがこの福音書を書いた理由が20章30節に書かれています。

「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20章30〜31節)

果たして私達がイエス様を、命を得ることが出来る”神の子”と信じているかが問われているのです。この『上から来る方は、すべてのものの上におられ、』とはイエス様のことであるのは想像がつくと思います。それに対して『地から出る者は地に属し、地のことばを話す。』これはバプテスマのヨハネのことです。群集がイエス様の元に行くのをバプテスマのヨハネの弟子達は面白くなかった。しかしヨハネ自身は「私は衰えてあの方は盛んにならなければならない。」と自分をわきまえた言葉を語るのです。それを裏付けるように「イエス様は上から来たお方である。人々がどんなにヨハネが素晴らしいと言っても、私は地に属する者であって、人間の言葉を語っているだけのこと。それに対し同じ言葉を語っていても、イエス様は天からの言葉を伝えて下さっている。あなた方はこの違いをきちんとわきまえなければならない。もっとこの言葉に真剣に耳を傾けなければならない。」と教えているのです。

「この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。」(32節)

イエス様は天国で父なる神様と一緒にいたのですから、「天国とはどんな所ですか」と聞かれたら直ぐに答えることが出来た。天国とは、永遠の命とは、神様とは、罪とは、人間とはと伝えるのですが、人々は真剣に聞こうとはしない。光が世に来たのに人々は受け入れない。イエス・キリストは真実を語っても人々は受けとめようとしないのです。それは人間の理性では受けとめきれないからです。

先日学びましたニコデモ、ユダヤ教に通じていたはずの彼は、イエス様が『人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができない。』と言うと『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができましょうか。』とこれは普通の考え方です。それでイエス様は『あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話たとて、どうして信じるでしょう。』と答えるのです。「地上で起こることすらあなた方の耳には届かないなら、まして天国のことを語ってもあなたがたには分からない。」ということです。そして”私”も含め「多くの人」は神の言葉を真剣に受けとめるよりは聞き流している。私達の耳はある程度は受けとり、残りは聞き流す機能が自動的に働きますから、多くのものを途中でそぎ落としてしまう。神の言葉をそのまま受け取ることをしようとしない。しかし私達は「これはどなたが語っている言葉であるのか、どういう内容を持っているのか」を真剣に考える必要があります。

「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」(33節)

イエス・キリストを信じるとは、あるいは、その言っていることを信じるとは「確かにこのお方は正しい。信頼できる。間違いない。」と1つ1つに対して心底真剣に立ち向かいそれを受け取っていく。私達は御言葉を割り引きして聞いてしまいますが、そうではなく、文字通り正しいという姿勢を持つ必要があるということです。

「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。」(34節)

旧約聖書の預言者達にも神様は御霊を注ぎました。そしてこの人にはこれだけ、あの人にはこれだけと預言を語らせました。ところが『神がお遣わしになった方』は無限に御霊を与えられている。ということはこの方こそ「神のキリスト。救い主。王の王である。」と語っているのです。私達は本当に神様からのものとしてイエス様の言葉を、あるいはイエス様ご自身を受けとめているでしょうか。イエス様は「インマヌエル」と呼ばれています。これは「主、我らと共にある」という意味です。このことを現わすように、神様は優しく親切に私達がふてくされても、慰め、励まして下さる。でもイエス様は優しいというそのことがいつしかイエス様の権威や地位を低くしてしまう。そんなにすごい方であることを忘れてしまい「適当に利用してもいい」という傲慢な思いが出てしまっていることがあるかもしれません。本当にこのお方を正しく受け取ることが必要ではないでしょうか。

「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」(35節)

神様は御子を愛され、御子に全世界の全ての権威、権能、力を与えられたと語っています。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28章18節)

「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示録1章12〜16節)

想像するのが難しいかもしれませんが、怖い方というイメージの方が強いと思いませんか。でも神様は私達に「わたしはあなたを愛しているよ」とへりくだり近づいて下さった。このことを取り違えてしまうことのないようにしたいと思います。更にイエス様はどういう方であるのか。イエス様は2000年前に生まれたと思うのですが、そうではなく

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1章15〜17節)

イエス様がすべての物をお造りになった。しかしこのお方が、造られた者に服従し、血みどろになって十字架の上で死んで下さった。これは本当に考えられない出来事です。神は御子を愛しておられ万物を与えた。御子は何もかもを持っておられた。ですから私達は御子キリストにどういう姿勢を持っているのかが重要です。

全権威を持つ方に従う

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(36節)

この言葉をしっかりと心に留めて下さい。ですから進学や就職や結婚よりもっと大事なことが「キリストをどう見るか」なのです。それに私達の命がかかっているのです。神様は御子を愛され全ての権威を与えました。ですから「御子は正しく御子の言葉は信じられる。信頼できる」と信じ受け入れる者は命を持つと言われます。この命とは天国の命、神様の命と言っていいでしょう。私達が今まで持ってきたような弱くはかない命ではなく、豊かで生き生きとしたよみがえりの命が私達のものとなるのです。次の言葉『御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』これは厳しい言葉です。信じない者とは書かれてはおらず『御子に聞き従わない者』と書いてあります。これは信じれば当然そこに行動が伴っているはずだからです。行動が伴わない信じ方はあり得ない。信じているならばそれに相応しい行動が出て来るはずなのです。「信じている」と言葉では言っても全然信じていないような行動を取ろうとすることもありえます。

青森に行こうとします。青森行きの電車を見て、それが青森に行くと信じるならばその電車に乗るでしょう。青森行きの案内を見ても、信じられないから乗らないということはしないと思うのです。私達は信じていたなら、その方に委ねて従っていくはずでしょう。信じていないから行動が取れないのです。ですから私達が御子に聞き従わないとするならば、本当に信じているのかどうか少し怪しいということです。私達の信仰は『聞き従う』信仰になっていく必要があるということです。そのことにより私達は命の道に歩んでいる確信を与えられていく。私達はこのお方に従おうとしているかを問われているのではないでしょうか。そしてその道を選びとっていく必要があると思うのです。神様はイスラエルの民に神に従う決断を何度も求められたのです。例えば

「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。」(申命記30章15〜16節)

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」(申命記30章19〜20節)

イスラエル人に「あなたは祝福とのろいとどちらに行くのか。」と選択を迫るのです。神様は私達に自由意思を与えて下さいました。この自由意思をもって「私はあなたに従います。」という道を選びとって行く、そこに命が置かれている事に心を留めて頂きたいと思います。

ある時2人の青年が町に繰り出して一騒ぎ(何か悪いこと)して来ようと出て行った。ところが道の途中の教会の看板に「罪から来る報酬は死です。」と書かれているのを見ました。その言葉が少し心にひっかかり1人は町に行かなかった。彼は後でその夕拝に出たのです。彼は続けて教会に行き、ついに聖書の言葉を信じ受け入れてクリスチャンになりました。もう片方の彼はその日、町に行き同じような生活を続けたのです。何年も後にクリスチャンになった彼は政治家となり22代目クリーブランド大統領となりました。その時に極悪人が集まる刑務所で彼のかつての友達は「今日彼は大統領に当選し、俺は二度とこの世に出られないで一生を刑務所で過ごさねばならない。何と惨めなことか。」が叫んでいた。

私達もどういう決断をするかが大切です。私達は決断する自由はありますが、その結果は刈り取らなければならないのです。神様はキリストにより罪が赦され、神の子供とされ、永遠の命を頂く道をすべての者に開いて下さっています。もし神の言葉を「本当である」と信じ受けとめるならば、その人の内に永遠の命が留まるでしょう。でももし拒むなら、神が差し出している愛と恵みを拒絶するのですから、この赦しは留まらず消え去るでしょう。それ故その人の内には裁きや呪いが迫っていくことを認めざるを得ないでしょう。

「ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3章7〜8節)

イスラエルの民は何度も神様から警告の言葉を受けながら、それを退け神に従わなかった。私達は神の言葉を真剣に受けとめ従っていこうとしているでしょうか。それとも割引きや水増しして自分勝手に解釈をし、その通りに受け取らないでいるでしょうか。その結果として滅びを刈り取ることのないように。神様が用意して下さった道、永遠の国に入るまで共に歩んでいきたいと思います。そのために大切なことは神の言葉は真実である証しして従っていく。それは聞くだけでないし、心で信じるだけではないのです。御言葉に従って1歩1歩、歩みだす。それが完全に出来るかではなく「主よどうかそうさせて下さい。そこに従わせて下さい。そこに歩ませて下さい。」と祈り、1歩、2歩と踏み出すことが大切なのです。

私達は罪だらけの者です。でもイエス様は忍耐して私達を待っていて下さいます。私達に必要なのは「出来ませんけれども助けて下さい。あわれんで下さい。もう一度主の道に歩ませて下さい。」と祈ることではないでしょうか。イエス様が言われた『律法学者やパリサイ人の義に勝る生き方』は取税人とパリサイ人の祈りの中に出てきます。パリサイ人は収入の10分の1を神様に納め、週に二度断食して、良きことが出来ていることを感謝しますと祈りました。それに対して取税人は顔を天に向けようともしないで「こんな私をあわれんで下さい」と自分の胸を叩きながら祈りました。私達も「私は本当に愚かな罪人です。神の言葉に従うことが出来ない者です。でもこんな者のためにイエス・キリストが十字架に掛かって死んで下さったことを感謝します。この十字架が私のためであったことを信じます。イエス・キリストに従います。」と告白して共に永遠の命に、今日より明日、明日より明後日と1歩づつ主に近づき従ってゆくお互いにされていきたいと思います。

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