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「目を上げて畑を見なさい」

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2004年9月26日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ4章27節〜42節より
牧師 吉田耕三

昨日と今日と古川教会でチャペルコンサートが開かれています。昨日は80名近い方々が集ったそうです。本当に感謝です。神様は時が来れば導いて下さることを感謝します。人はなかなか心を開かないと思いますが、神様の時であるならば事をなして下さるということを聖書の箇所からも学ばせて頂きたいと思います。

私達の使命

「このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言わなかった。女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(27〜34節)

前回は神様から遠いと思われた人の心に永遠の命の水が湧き出るという素晴らしい祝福を見させて頂きました。サマリヤの女は最初、神など関係ないという生き方をしていたのですが、生ける水の川が流れる人生を送れるならば欲しいと願ったその時に「あなたの夫をここに連れて来なさい。」とイエス様は言いました。彼女は5回結婚していたが、今は同棲しています。それを隠しておきたかった。でもイエス様はあえて夫のことを聞こうとされる。これは私達の弱さをそのままイエス様に持って来なさいということです。彼女はこの方こそがキリストであると分かり受け取った。その時から彼女の内に命の水が湧き始めたのであろうと思います。

彼女は誰にも会いたくないので日中の暑い時間に水汲みに行く訳です。隠しておきたいと思っていた彼女、が井戸に水がめを置いて町に戻った。このことは自分だけのものにしれおいてはならないと思ったのでしょう。彼女は何としても人々にこの方を会わせたいと町に戻りました。彼女は静かに『来て、見てください。私のしたことを全部私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』と言うのです。「私はこういう影のある女です。その私を全部見抜いた人がいるのです。この方こそキリストではないでしょうか。」と。あくまでもひとりひとりに判断は任せるという姿。人々は続々と町を出てイエス様の所に行った訳です。

弟子達は町に食物を買いに行って戻り「食べて下さい」と差し出した。イエス様はいつもこういうやりとりをするのですが『わたしには、あなたがたの知らない食物があります。』と答えます。誰か食べ物を持って来てくれた人がいるのかと思ってしまいすが、実は霊的なことを言っているのです。弟子達もサマリヤの女と同じように霊的な目が開かれていなかったと思います。神様はここで非常に大切なメッセージを語っている。私達は食べるためには働かなければならない。でもイエス様は”神様の使命に生きること”がもっと大切ですと教えようとしていたのではないかと思います。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第1コリント10章31節)

私達はいろいろなことをしますが何のためにしているのかを忘れてはなりません。ある工事現場で働いている人に「何のためにそのビルを作っているのですか」と聞きましたら、「働かなければ金が入ってこないから。」と答え、次の人は「他にやることがないから。」3番目の人は「ここには将来こういうセンターが出来てこのように用いられていくのです。」と輝きながら説明していた。誰が生き生きと喜んでその仕事をしているかは分かりきっています。使命を持ってそのことをしている人です。

イエス様は食物を待っているだけではなくそこで成すべきことがあった。彼女の魂を救うことは食べるに等しいほどの力とエネルギーと喜びと希望を与える。わたしにはそういう食物があるのですということ。それはあなた方も同じであることを示したかったからであろうと思います。ここに第1のメッセージがあると思います。私達は”主の使命に生きる者”として召されている。私達は『何をするにも神の栄光を現わすため』それが人間の生きる力の源であるというのです。

私達は普通に考えると自分のために生きることの方が喜びがあるような気がします。でもそこにはあまり喜びも自由もない。ところが自分が何かの犠牲を払って相手の方がすごく喜んで下さるなら無常の喜びがあると思いませんか。私達は食べるため、自分の快楽のため、自己中心のために生きるのではなく、誰かの役に立つために生かされていることを知るべきです。仕事もただ金銭を得るためだけではなく、そのことを通して人にまた神に仕えるという意識で全てのことをさせて頂くことが大切だと思います。やっていることの意味が分からないと空しくなっていきますが、神の栄光のためになしていく時、そこには喜びと希望が出て来るのです。

ではその使命とは

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(第1ペテロ2章9節)

私達には大切な使命があるのです。『祭司』とは神様と人とを取り次ぐ者です。私達はまだ神様を知らない方々を神様に導く、神様を紹介する大切な使命があるのです。他の人が本当に生きがいを持って生きることが出来るようになれば私達も無常の喜びではないですか。本当に空しく暗い人生、希望がないと思っていた方々が輝いて喜びながら「私も生きていいのですね。生きる希望があるのですね。」と思えたならどんなに喜びでしょう。私達は神様を宣べ伝えるという大切な使命があることをしっかりと心に覚えておきたいと思います。これは空しいことではありません。どんな時にも希望と喜びを持つことが出来ます。イエス様はこのことを弟子達にはっきりと覚えてもらいたいと思ったのであろうと思います。私達は自分のことで汲々となってしまいますが、私達の周りには神様をまだ知らずに悩み苦しむ方が多くおります。私達はこの方々にお伝えする大切な使命があるのです。それぞれの置かれた所を通して伝える機会が与えられているのです。このことをしっかりと覚えおきたいと思います。イエス様は『わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』と言われています。

第1に自分が遣わされていることを受けとっていますか。「神様によって私はここに遣わされている。この方々を愛し仕えるために置かれているのだ。この方々に神様の愛を伝えるためである。」と是非知って頂きたいと思います。神様を知らない方々にあなたの言葉や態度を通して神様を知って頂く者となる。職場であれ家庭であれどこであっても自分が神様から遣わされている。イエス様も地上で父なる神の御心を行なった。神の御心とは具体的には隣人を愛する、人を赦す、人を助けるとか、いろいろなことが出来たならそれぞれの場所が素晴らしい祝福の場所に変わっていくと思います。そうなるために私達は救われ、そのためにキリストは来て下さったのです。私達は新しい命をもらい救われなければ良いことも出来ないでしょう。生ける水の川が流れ出るのは他の人に仕えていくためであったのです。事実サマリヤの女は一歩踏み出し始めたのです。心の傷の痛みが神様により癒されたという経験は、他の人に伝えていく力にもなったのです。

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(35〜38節)

ユダヤでは季節を「種蒔き」「冬」「春」「刈入れ」「夏」「真夏」と6つに分類する方法があります。種を蒔いたら後は4ヶ月何もすることがないと思いますが、そうではなく今は種蒔きと同時に刈入れもなされる時代、メシヤが来たという時代はそういう時代だというのです。色づいていないから収穫の時期が来ていないと思うのですが、収穫の時期はもう来ている。「この人が救われるのはまだま」と思っている人が、本当に神様の救いを受ける用意が出来ている場合があるのです。

榎本保郎先生が病院伝道でトラクト(キリスト教のパンフレット)を配っていました。この人には渡すのをやめようと思った方が1人いた。やくざの組長でした。そこを素通りしようと思ったらその方に呼び止められた。それでトラクトを渡しました。そしたら「牧師を呼んで来い。」と言うのです。実はその病院中で一番神様に近かったのはその方だったのです。私達は「この人は無理だ。」と遠ざけてしまうのですが、思いがけない人がすぐ側まで来ているのです。私達は躊躇せず大胆に種蒔きをするべきです。すると種蒔きをするつもりが、いつの間にか刈り取りをもすることになる。種蒔きをしたなら待たなければなりませんが、今は恵みの時代だから種蒔きと刈り取りを神様は用意して下さっているのです。

私は仙台に来る時に神様からの御言葉がありました。その地は良い地であって天の恵みが潤っているというものでした。私達が来たその日に一人の方を救っていて下さいました。その方は自分で神様の前に出て救われ、私が着いた翌日に「私はイエス様を信じて喜びにあふれているのです。」と来られました。神様はそのように次々と救われる方を起こして下さいましたが、よく聞いてみるとその人達にはいろいろな方が福音を伝えていたのでした。私達は「今救われなければ」と”今”を強調しますが、いつでも誰にでもイエス様を分かち合う。そうすればいつの日にか、そこから実を結ぶようになっていく。そして種蒔きと刈り取りが同時に起こるようになるのです。私達の目には「この家族にはだめだ」とか「あの人はだめだ。」と思うのですが、こちらもあちらも色づいているのです。私達はその色づきに気付き大胆にお伝えしていく者になりたいと思います。神様はその中で主の業をなさって下さる。しかし信じるかどうかはその人自身です。私達は「信じさせなければばらない」と思ってしまいますが、私達は伝えるだけで良いのです。その方が受けとり信じたならば永遠の生ける水の川が流れるようになる。その時までは「しつこいな」と思われるだけで感謝はされないでしょうね。でも私達はそれをしていきたいと思います。

「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私がしたこと全部を私に言った。』と証言したその女のことばによってイエスを信じた。そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』」(39〜42節)

この女がこんなに変わったことに驚いて彼等は信じたのです。サマリヤ人はユダヤ人から見ると異邦人であり、神様を知らないと思われていた人達です。でもサマリヤの女1人を通して続々と信じるようになっていった。後にはピリポによって素晴らしい働きが起きましたが、これもこの様な働きによる中で起きていったことかと思うのです。

「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」(ヨハネ2章23〜24節)

過越の祭りでイエス様はいろいろな奇蹟やしるしを行ないました。多くの人が信じましたが、この時にはイエス様はご自分を彼らに任せなかった。表面的に信じると言っても心の深い所から信じているかどうか分からないと知っていたからです。ところがサマリヤでは異邦人である彼らにご自分の身を任せ,2日間そこに留まっているのです。神様から遠いと思われていた彼らですが、ユダヤ人はしるしを見て信じたのに対し、彼らはイエス様の言葉で信じたのです。そこに確かな信仰があったと思います。私達も神の言葉をしっかりと信じて受け取っていく信仰者になっていきたいと思います。私も信仰を持った時に奇蹟やしるしがあったならもっと確かな信仰が持てるのにと思いました。しかし私達の信仰は神の御言葉を受けとって信じることが大事です。その時に私達は揺るがない信仰に歩んでいくことが出来るのです。

私達はまだ時期が来ていないと考えるのではなく、多くの人が喜びに入っていくために御言葉を宣べ伝えていく者にならせて頂きたいと思います。私達は主によりそれぞれの場所に遣わされています。仕事も主の栄光により一生懸命になさるのがいいと思います。それが他の人を神様に導くきっかけにもなるでしょう。主の栄光のために共に主の前に歩んでいく決意を新たにしたいと思います。

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