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「しるしと信仰」

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2004年10月3日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ4章43節〜54節より
牧師 吉田耕三

昨日はイチロー選手が最多安打記録を作りました。84年間破られなかった記録を破ったという知らせが入ってきました。ホームランは非常に華やかで目立ちまですが、彼の場合は一本一本安打を積み重ねて地味な歩みかと思います。どこに投げても打たれてしまうので相手投手はイチローには会わないことを願うそうです。積み重ねの地道な歩みが人々に深い感動を与えるような気がします。私達はサマリヤの女が豊かに用いられて多くの人がイエス様を信じるにいたった、畑は色づいて収穫するばかりになっていることを見させて頂いた訳です。私達は自分のことばかりを見ていると分かりませんが、周りに神様を、救いを必要としている方々がいる。私達ももっとその方々に目を留めていきたいと思います。今日はその続きです。サマリヤを後にしてガリラヤに向います。

信じた時に従える

「さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」と証言しておられたからである。そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。」(43〜45節)

ユダの地からサマリヤを通ってガリラヤに行かれたのですが「ガリラヤの人達は私のことを受け入れないですよ。」と言っている文章です。ところが『イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。』と逆のことを言っている。歓迎されています。尊敬されるはずでしょう。でもその意味がこの後に出てきます。

「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。イエスはユダヤを去ってガリラヤにはいられてから、またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである。」(46〜54節)

「カナ」の地は結婚式でぶどう酒が足りなくなり水をぶどう酒に変える第1の奇蹟を行った場所です。そのカナの役人の息子が死にかけている。それで「イエス様どうかお願いです。私の家に来て息子のために祈って下さい。」ということです。カペナウムからカナまでは30km位です。車がある訳ではないですから、彼らが苦労して来たのかは分かります。「来て下さい。」と言っても大変です。でもイエス様が来て手を置いて祈ってくれたなら息子は治るという信仰を役人は持っていたのでしょう。でもイエス様は『「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」』と言うのです。

ガリラヤの人達が歓迎したのはエルサレムの地でイエス様がいろいろ不思議な事をして見せた。そのしるしや奇蹟を見て信じたのが彼らの信仰であった。でもそういう状態ではいけない。その信仰をもっと引き上げられていく必要がありますということなのです。役人は「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」と何とかしてイエス様を連れていこうとする訳です。役人は「イエス様は優しい方だから来て下さる。」と思っていたでしょう。ところがイエス様は「帰って行きなさい。」ただし、1つの約束を下さいます。「あなたの息子は直っています。」この約束と共に帰って行きなさいと言われたのです。

「わたしの言葉を信じて帰りなさい。しるしや奇蹟を見て信じるのではなくわたしの言葉を信じる信仰にあなたは変わるべきです」ということなのです。この人は是非来て欲しいと思っていました。でも彼は「直っている」という言葉に期待して帰って行った。今まではしるしを見て信じた。でもそれを見なくても御言葉を受けとって「そうなって欲しい。」と願う、レベルアップした信仰に導こうとしていたと思います。

彼が帰る途中でしもべに会います。家で看病していた人達が、息子が元気になったのでイエス様に来てもらう必要はないと思い、しもべに主人を迎えに行かせたのでしょう。そこで「直っています。」と聞いた。役人が「いつか」と聞くと「昨日の7時」多分これは午後の1時か2時ではないかと思います。その時刻は丁度イエス様が「あなたの息子は直っています。」と言ってくれた時間でした。その時間にイエス様のわざは成ったことを役人は知った訳です。それで役人と家の者はみな信じたのです。これを第2のしるしとして行なわれたのです。

私達もしるしや奇跡を見たいと思います。イスラエルの人々がエジプトから脱出した時に紅海が分かれたり、食べ物が降ってきたりといろいろなことがありました。私もこれ位のことがあれば信仰がもっと強くなると思ったのですが。しかしそれはしるしと不思議を見る信仰であるというのです。最初の段階はみなそうでしょう。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)

神様は弱さの中に働いて下さる方で私達はただそれに頼るだけでいいのです。あるいはしるしや奇蹟を見て「確かにこの方はキリストである。救い主である。」と信じる。最初はそうですよ。でもいつまでもそこに留まり続けているのではいけない。そうではなく御言葉を信じてそして従う。役人も「帰りなさい」と言われた時に「はい」と言わなければ、この奇蹟を経験したかどうか分かりません。「帰りなさい」と言われて嫌であったけれども従った時に息子がいやされた経験をしたのです。

従った時に結果を見る

私達は奇蹟やしるしを見て信じるのではなく、そのことが起こる前に御言葉の約束を信じて従っていくという信仰に導かれたいと思います。でもこれは結構大変です。弟子達を見ますと、ペテロはプロの漁師です。ガリラヤ湖を全部知り尽くしていると思っていたかもしれません。そのペテロが一晩中漁をしたが魚1匹も取れなかった。

「話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」(ルカ5章4〜7節)

普通の大漁ではありませんね。ペテロは「漁に関しては俺の方が上だ。」という気持ちがもしかしたらあったかもしれません。イエス様は素人です。多分ペテロよりも若かったでしょう。30歳の若造に言われて面白くないという気持ちもあったかもしれません。でもペテロは「おことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言ったのです。ここです。イエス様を信頼する、だから自分の考えや常識からは少し違うけれども神様のおことばですからそこに従いましょうという信仰。その時に結果を見るのです。網が破れて2隻とも沈みそうになる程の大漁です。こんな経験はペテロも初めてではなかったかでしょうか。まして夜通し取っても取れなかったのですから驚きです。

私達は神の御言葉を信じて従うことは、なかなか難しいと思いませんか。「今日はやっても仕方がないから止めましょう。」とイエス様を止めさせてしまうのが私達ではないですか。「お言葉ですから。」と従う信仰に神様のわざが現わされることを知って頂きたいと思います。

中国伝道の父ハドソン・テーラーは重荷が与えられて中国に赴く訳です。言葉も通じない世界に行くのですから「神が働いて下ださる」という経験がなかったならば、宣教師として行くことは出来ないと思ったのです。彼は医者の助手として働いていました。その医師は忘れっぽい人で「給料を渡すのを忘れるかもしれないからその時には言って下さい。」と初めにテーラーに言ってくれていた。テーラーはこれをその経験の1つにしようと支払いが遅れても絶対に言わないで、祈り、神様から答えを頂くことにしようと考えたのです。

案の定1月、2月待っても給料を忘れている。食べる物も無くなってきて苦しい状況で、求めていてもちっとも答えてくれない。葛藤です。食べ物も段々なくなり最後の銀貨1枚となった。彼は貧しい人の所に行って祈ったりいろいろな働きをしていたのですが、その時にも1人の子供が「お母さんのために祈って下さい。」とやって来た。その子の家は貧しく食べる物もない。医者に連れて行くのが一番必要だと思ったのですが、彼の手元には銀貨1枚しかない。彼は「これが2つに分かれていたなら、喜んで片方を彼らにあげるのだが1つしかない。これはあげられない」と思ったのです。それで祈り始めたのですが「嘘つき。偽善者」と言われている気がするのです。「あなたが今するべきは祈るよりも与えることではないか」と。彼はこの価が10対1であっても自分は喜んで小さい方を取り大きい方を彼らに与えることが出来ると思った。彼は小さいお金があればやっていけるという信仰があるのに、神様にのみ頼る信仰はないのだと知って惨めになった。

最終的には「僕にとってもこれが最後のお金なんだ。でも君にあげるからお母さんを医者に連れて行きなさい。」と言った彼の財布は空っぽになりました。でも心は軽く舞い上がるようになったのです。「与えなさい。そうすれば与えられます。」と聖書は確かに言っているのです。でもある時には与えられても、ない時に与えられますか。ある教会で会計がずっと赤字であった。その時に大切な働きをしていた団体から、その働きが非常に難しくなっているので是非献金をお願いしますとアピールがあった。彼らは自分達が赤字であるのに、信仰を持って「与えなさい。そうすれば与えられる」のだからと礼拝献金全額をその働きに捧げたそうです。その時から会計が黒字になったのです。普通の計算では出来ません。しかし神様は「与えなさい。そうすれば与えられる。」と言っているのです。でもその決断が私達には出来ない。御言葉に従えないのが私達です。

ハドソン・テーラーも迷ってそれをしたのです。財布は空になりましたが、心に喜びを持って帰って来た。でも現実が待っています。その日の夕飯は残っていたオートミールでしのぐことが出来ました。でも翌日の朝食からは何もないのです。「どうなるのかな。」と思いましたが心は平安です。普通の時刻ではない早朝に郵便配達人が来た。彼に封筒を渡したのですが宛名が読めない。封筒を開けると彼が子供に与えた金額の数倍の額が入ってた。そしてその後も豊かに食べることが出来て、お金がなくなる頃には忘れっぽい先生も「君に給料を上げていなかった」と思い出して貰えた。それで神様に信頼しきることが許されたと中国に向うことが出来たというエピソードです。しかし、そこまで神様に信頼しきる、頼りきるのは難しいのではないかと思います。

今日私達の信仰も奇蹟を見て「素晴らしい。」というのも良いかもしれないけれども、イエス様はそれを見る前に御言葉だからと受け止め従う信仰を持って欲しいと願っている。本当に信じたならば従うはずででしょう。役人は迷いながらも一応信じたから帰った訳です。そして本当にいやされたことを聞いた。それにより彼は本格的に信頼するようになったのではないかと思います。信仰は神様から与えられるものですが、筋肉みたいな面があると思います。信仰は与えられますが、訓練されていく必要があります。私達は信仰をどの程度働かせるかということです。ここで気をつけなければならないのは、「信仰を働かせること」と、「試す」ことは別です。サタンはここをついてきます。

「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」(詩篇91篇)

“神様に信頼する者”を神様はこのように守るのです。ところがサタンはこの箇所を使ってイエス様を誘惑したのです。

「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」(マタイ4章5〜6節)

こう書いてあるのだから、本当に石に打ち当たることがないかどうか試してみよということです。試せとは言っていないのです。神に信頼しなさいと言っているのです。信頼する所に神の守りがあるのです。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)

信頼する者に神の力が働くのです。これは神の祝福を受ける秘訣です。これをしっかりと学ばせて頂く必要があると思います。信頼する時に従うことが出来るのです。聖書の中には沢山の約束があります。でもほとんどの約束は同時に命令もついています。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4章7節)

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ11章9節)

神の御言葉を信頼するならばそこに従うことが出来るでしょう。そして従う時に私達は結果を見ることが出来るのです。役人も従った時に息子がいやされる経験をしたのです。でもここに葛藤があります、そこに戦いがあります。でも信仰を働かせていく時に実際に実を結ぶ経験をするのです。

ユダヤ人はエルサレムで見たしるしや奇蹟で「神様を信じます。」と言っていた。イエス様は「預言者は故郷では敬われない」と言っていたのは「おことばですから」と言って従っていく人がほとんどいなかったということです。その中でこの役人は従ったのです。そのように私達の信仰も引き上げようとして下さっている。「神のことばであるから。」と従っていく。神様はそれを祝福してくださり、そこに神のわざをなそうとして下さる。これが神様のやり方であると知って頂きたいと思います。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4章7節)

どんなに責め来る者があっても、御言葉だからと従い始めるならば、神様の勝利が私達に現われ始めるのです。どうぞ聖書の御言葉に従うことを是非なさって下さい。正直に不信仰を告白していいのです。「私は不信仰な者ですから簡単に御言葉に従うことは出来ません。でもそうさせて下さい。」と祈る時に第2のしるしを見たように、私達も神様の御業を見ることが出来ると思います。ただし試すのはだめですよ。試すのはよくありません。しかし信頼して歩むことは神様に喜ばれることです。筋肉のように少しづつ訓練していきましょう。あまり高望みしないで。「あの人のようになりたい。」これは危険です。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12章3節)

信仰を測りなおして主に願い、主の力と祝福を体験していくお互いとされていきたいと思います。

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