2004年10月17日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ5章9節〜18節より
牧師 吉田耕三
不思議な言葉があります。「義人が集まると争いが起こる」反対に「罪人が集まると平和になる」。「えっ」と思いますが、ある意味「真実かな」とも思います。自分は正しいと思っている人ばかりが集まると「あなたは間違っている」とお互いに攻め合いますから争いが多くなる。反対に罪人の場合は互いに「私が悪いのです」と言うので争いがなくなってくるわけです。一見逆のように思えますが、私達は正しい人間ではなくて罪人であるという自覚をしていきたい。私達は、人を裁いてしまう心が出てきますと神様の恵みさえも覆いをかけてしまい、素晴らしさが見えなくなってしまう。今日はご一緒にその姿を見ていきたいと思います。
表面的な意味しか見ない人々
「イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」(8〜10節)
前回からの続きですが、38年間の病が見事にいやされた。「素晴らしいね。良かったね。神様はすごいね。」と思ったでしょう。ところがユダヤ人達は「今日は安息日だから床を取り上げてはいけない。」と言うのです。これが律法主義。私達の姿にもあてはめられる、律法中心の心の姿であるともいえると思います。まず安息日とは何なのかを見てみましょう。
「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。−あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。−そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」(申命記5章12〜15節)
神様はさまざまな戒めを下さっていますが、それは私達が平安で幸せになるために下さった。6日働いて1日は休む。そうでなければ体は疲れてしまうでしょう。それに心についても安息日を聖として神様をほめたたえ、神様の前に静まる時を持ちなさい。それでこそ幸せになれる生き方が出来るのですという訳です。更に以前あなたがたが奴隷であった時には1日も休むことが出来なくて苦しかったでしょう。だからその日には奴隷も休ませるようにする。人間の幸せのために律法を下さったと同時に人間は神様を礼拝し、神様の前に静まることがなければ、あっという間に神様から離れてしまう。神様から離れた私達はすぐにイライラし、不安になって落ち込む。ですから私達はいつも神様と歩むように、6日働いたなら1日は神様と共に歩むことを特に覚える日を持ちなさいと教えた。
ところが彼らは言葉だけ『どんな仕事もしてはならない。』にこだわりますから、イエス様が安息日に彼をいやし床を取って歩き出したことを問題にする。ここで問題になっているのは、いやされたことよりも床を取ったことなのです。ユダヤ律法では床をそのまま動かすのは仕事ではないけれども床を取って歩くのは運搬の仕事をしたことになる。目の前で38年間病気であった人が治ったのです。「すごい。」と神様をほめたたえて賛美するのではなく「今日は安息日だ。」と律法主義の考え方になってしまっているのです。「何という風に考えるのだろう」と思いますが、私達もすぐに陥ってしまう考え方といえると思います。「自分の考えが正しくて他の人が間違っている。」と自分の考えにとらわれて、他の人を裁いて非難してしまう。
「しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(11〜14節)
彼はいやされた喜びの中でユダヤ人達から「今日は安息日だ。」と言われてもどうしたらいいのか分からない。ですから「私を直してくれた方が歩けと言ったので歩いた。」と答えるのです。ユダヤ人はそれが誰か尋ねますが、彼には分からなかった。イエス様はここで言い争いをしたいとは思わなかったのでしょう。さっと立ち去られた訳です。そして、宮の中で彼を見つけて確かな教えを伝えておこうと思った訳です。この人は38年間病気でしたが、その原因の1つには罪が関わっていたようです。それがどんな罪かは分かりません。「もう罪を犯してはなりません。」とこれからのことについてはしないように。ということはこれまでのことは処理して下さったということもここに含まれているでしょう。戒めとしてイエス様は言って下さっている訳です。
「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。」(15〜16節)
「このようなこと」とは安息日律法に違反したことです。いやしではなく床を取って歩いたことを問題にしている。掃除をして大体綺麗だけど細かい目につかない所にほこりが残っている。90%はいいけれども残りはだめ。それで全部がだめになってしまう。私達は時々そんなに重要でないことにとらわれて、全体としてほめることよりもけなしてしまう。律法主義と同じではないか思います。人の弱さをあげつらうことが私達の中にあるということです。これは律法を正しく理解していないところから来ているように思います。
「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」(マタイ12章1〜8節)
律法では宮に供えられたものは祭司以外は食べてはならなかったのですが、ダビデの一行がお腹を空かせた時にそれを食べたでしょう。戒めよりも人の命の方が大切であると教えているのです。それから宮で仕える祭司達は安息日でも仕事をしていたでしょう。それでも罪にはならない。神の律法は人間の幸せのためであって、その言葉にとらわれる生き方は間違っている。そればかりかイエス様は安息日の主なのだという考え方が大切であると教えた訳です。私達は御言葉を表面的にだけとって本当に言わんとしていることを受け取ろうとしない傾向があるかと思います。この傾向は先程も申しましたように、私達の中にの「自分の考えが正しい」ということに結びついている。「こちらの考え方が正しい。」とどこまでも自分の考えを主張しようとする。
例えば歯磨きのチューブをお尻から出すか、頭から出すかで喧嘩をしてみたり。それぞれのいろいろな考え方で違いがあるのですが、それを受け入れることが出来ない。そんな小さなことで大喧嘩をすることがある。このことを放っておきますと、
「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」(17〜18節)
この思いはイエス様に対する正しい見方を全く見えなくしてしまいました。「自分の考えが正しい。」という眼鏡で見ますとイエス様のことも正しく見えなくなってしまうのです。何を見てもかすんで素晴らしい光り輝きが消え去ってしまう。私達はこういう考え方から解放されていく必要があるのではないでしょうか。自分の考えや自分の正しさにこだわって、他の人の正しさや考えを簡単に否定していまう。そればかりか
「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」(ヤコブ3章14〜16節)
私達は自分の考えが正しいという思いに凝り固まっていますと、他の考えを全部除外したくなります。あくまでも自分の考えが正しいと主張したくなります。そしてそれが通らないと、いら立ちや敵対心まで出てくるかもしれない。こうなると危険領域にまで入っていると知っておいてください。どうでもよい小さなことから始って「こんな人などいなければいい」と平気で考えてしまう危険性があるということ。私達はそういう意味で自分の中に潜んでいる「自分が正しい」という考え方、あるいは正しいか正しくないかの表面的な判断だけを見て、深い意味を理解しないで裁く危険性から解放されていく必要があるのではないかと思います。そういう訳で私達は律法主義にならないための秘訣を見たいと思います。
裁きは神様の領域
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7章1〜5節)
私達の心の中にまず「裁かない」と定めていくことが律法主義から解放されていく秘訣であると思います。私達は裁く権利を持っていない。裁く権利を持っているのは神様だけであるという考え方に立つ。正しく評価することは良いことですが、その人をさげすみ、自分の方が正しいという考え方をしないで聞く耳を持つことです。少しでも裁いたなら「裁きました。神様、この裁きを取って下さい。」たとえ相手にどんな悪いことがあったとしてもまず「この裁きを取って下さい。」と歩む決意をすることです。そうする時に私達は律法主義から解放されていくのではないかと思います。裁く心こそが私達を傷つけだめにするのです。この箇所を準備しながら自分自身の中にあるその姿が段々と見えてきました。以前にも教えられたのですが、ことごとく自分の考えが一番良いと思っているのです。これが問題であるのだとつくづく分かってきました。私は「だって仕方がない。裁くようなことをするのだから」と言い訳している部分があったのですが、
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1章14〜15節)
私は自分の中に人を裁きたいという欲望があった。いつでも自分が上でいたい、自分が正しい考え方でいたいという心があるなと思える。皆さんはどうでしょうか。いつでも自分が一番で、自分が正しくて、人は認めてくれなくても自分の心の中だけは自分が正しいと思っていたい。実はこれが問題です。この心に誘惑されるとすぐに人を裁くのです。ここに私達はくさびを打ちこんで裁くことを止めさせて頂く。裁く心が出るのは越権行為。裁いた瞬間に自分が間違っている。どんなに人が間違ったことをしていても、まず私が間違ったことをしたというところに立つこと。自分の目の中に梁が入っているのに、他人の目の塵を取らせて下さいということをしているのです。私達の中にある裁きが少しでも出てきたならば「これは私の権利ではない。私の持っているこの裁きを取って下さい。」と祈ることを常としていきたいと思います。その時に私達は始めて律法主義から解放されていくかと思います。そしてもう1つ付け加えるならば
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章5〜6節)
『自分の悟りにたよるな。』というのです。自分が正しいとそこだけになってしまうのです。でも私にとっては正しいと思っているだけで、本当に正しいかどうか分からない。自分の悟りにあまり頼り過ぎないことが大切です。『あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。』私達は人のことを裁いてしまう訳ですが、その中に神様がおられること。神様がそのことを許された。この中にどういう意味があるのかを聞く姿勢を持つ時に、私達はそこでさまざまな新しい考え方を頂いていくことが出来るようになると思います。自分の悟りではなくて、神様の教えを、あるいは神様がそこで何をなして下さるかにいつも目を止めていきたいと思います。そうすれば『あなたの道をまっすぐにされる。』すこやかなまっすぐな道にして下さる。裁くことを止める。自分の考えが正しいという考え方を止めるということです。その考えが出てきた瞬間に「主よ、聖めて下さい。」と祈っていく必要があると思います。
神は憐れみは好むがいけにえは好まない。「神様、こんな私を赦して下さい。こんな私を変えて下さい。」という祈りを喜んで下さる。人のことではなくまず自分が変えられていくことを求めていく。そして律法主義から解放されていきたいと思います。裁くことは神様だけがなさること。私達は決してこれから人を裁かない。その瞬間に「裁きを取って下さい。」と共に求めていきましょう。