2004年10月24日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書申命記8章1節〜18節より
牧師 吉田耕三
全ての出来事は神様のご計画
本日こうして15年の記念礼拝を共に持つことが出来たことを感謝をしたいと思います。1989年1月国内宣教委員会という機関で「教会のない所に教会を作っていきましょう。」ということで仙台の地に決定しました。実は1988年からこの土地は購入されていました。でもそこに遣わされる人がいなくて、ずっと祈り中で覚えられていました。私自身も「神様、土地が家が与えられているのですから、どうか遣わされる方を起こして下さい。」と祈っていました。99年1月に委員の方から「仙台に新しい教会を作るのは神様の御心であり、土地も購入してあるけれども、吉田先生がそこに行って開拓することが御心であるかどうかを祈って下さい。」という依頼を頂きました。牧会していた教会はいろいろな意味でとても行ける状況ではないと思ったのですが、その時から次々と御言葉が与えられてきました。教会のスタッフとディボーションを持つ中で最初に出て来たのは、
「私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユ一フラテス川にまで行け。」(申命記1章6〜7節)
次の日には
「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。」(申命記2章3節)
国内宣教委員会では川越、久喜、もう1つ新しい開拓をしようとしていました。神様は私に「長らく回っていたけれどそちらではなくこちらだよ。」と直接的に言われたような気がしました。しかしいろいろなことを考えるととても出来ないこと。本当に悩んだり、考えたり、祈ったりしていく内に、最終的にはまた申命記から
「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、」(申命記30章19節)
この御言葉に「確かにこれが私の行く道である。」と平安と確信が与えられてこちらに来させて頂くことになりました。初めてこの場所を見に来たのが4月2日だったと思います。その朝に家内と一緒に聖書を読みました。民数記に、「カデシュバルネアの地からカナンにあなたがたを移す。その場所は祝福の地である」ことを聞いて偵察に向った。行って見ると確かに良い地だけれども、巨人はいる、城壁はある、とても自分達が占領するのは無理だと、それで占領することが出来なくなった。その結果イスラエル民族は40年間荒野を旅することになったのです。
地図では道路になっているけれども崖だった所が結構ありました。道に迷いながらやっとここに着くと、平屋の家が建っていました。そこを増築して2階建てにすると聞いていたのです。すると後ろは日照権の問題がある。それからこの山坂です。車がなかったら来られない。でも多くの車を置いたらたちまち文句を言われるのではないか。この地でどうやってやっていくのかどうしたらいいのかと思った時に、その日の朝に読んできた聖書のことを思い出したのです。「神様、どうぞ不信仰をお赦し下さい。神様が備えて下さる地であればきっとそれは祝福の地です。神様が導かれるのであればその地は良い地に違いありません。」と半分悔い改めながら、半分は「でも」と思いながら歩みは始めたわけです。
それから15年ここに記させて頂きました多くのことがありました。正直、多くの問題がありました。でもその1つ、1つは祝福に変えられていったのです。私はこれらの中にも神様の御旨があると思うのです。神様の道に従うのは決して楽な道ではない。いろいろな訓練や戦いがある。でも信仰をもってそれに当たっていく時に神様はそれを益に変えて下さる、祝福に変えて下さることを教会の建設を通しても教えて下さった。それはまた他でもない私達自身も多くの苦しみや悲しみや痛みや困難が後の日になって祝福に変えられることを既に体験をしていると思うのです。申命記の8章は私が仙台に来るにあたり神様がお示し下さった箇所の1つでもあります。
「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。」(申命記8章1節)
まず第1に神様が言われるのは「主に従う」ことです。どんなことがあっても主に従うならば神様は祝福して下さる。これが大事です。そのために何が必要か
「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」(申命記8章2〜5節)
私達は自分の歩んで来た過去を思い起こすことは大切かと思います。神様は私達の生涯に目を留めて下さっている。1つ1つに意味と示唆をもって臨んで下さっている。私達はそういう意味において教会の歩みも思い起こすことが大切だということです。その中には決して良いことだけではなく悲しいこと、いさかいがあったこともありました。でもそのことの1つ1つを私達はそれらをしっかりと覚え、神様はそこで何を語っていたのか、何を教えようとされていたのかをわきまえる必要がある。私達が通った喜びも痛みも悲しさも無駄ではない。そのことを通して神様は”私達の真実な自分”を示して下さるのです。私自身のことで言うならば、教会が始められて神様の祝福は溢れるようにありました。本当に「こんなにもらっていいのか」と思うほどに沢山下さいました。そうすると何度も言っておりますがすぐに鼻が高くなり口では「これは神様の恵みです」と言っていても、心の中では「私もなかなかだよ。」と。すると痛みを通らされて「確かに私は思い上がっていた。傲慢であった。」と悔い改める。
神様はいろいろな出来事、祝福、悲しみ全てを通して私達に語って下さる。そして「あなたの今の考え方は本当にそれでいいのですか。あなたは正しい所に立っていますか。ずれていませんか」とそれを聞く必要がある。そういう意味で自分が通らされた道を知ることは大切なのです。そしてここにおいて非常に大事なことは、彼らはマナを持って食べさせられたのです。砂漠に近いところを人々がどうやって40年間も歩むのでしょうか。普通なら生活していくこと、生きていくことが出来ません。ですから彼らは「肉が食べたい。スイカが食べたい。にんにくが食べたい。」とエジプトでは奴隷ではあったけれども、それらの物が食べられたと不平を言い出した。その時に「マナ」という不思議な白い物を毎朝、外に降らせて下さった。40年間何百万の人達が生き延びることが出来た。これは否定しようのない歴史的な事実です。エジプトから出た民がカナンという地に入っていった。彼らは生かされ続けたのです。私達は自分の才覚、力で生き抜くのだと思っている。果たしてそうでしょうか?私達は生かされていることを知らなければならない。しかし正直に言いまして立派な歩みをいつもしているわけではありません。神様に「従いなさい。」と言われても、
「あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。」(申命記9章7節)
私達も神様に逆らい通しの歩みですが、それでも1歩1歩神様がおられること、神様に頼ることが出来ること、神様と共に生きることが一番の幸せだと教えて下さっている。そして神様は私達をそのように生かすだけではなく訓練し導いて下さる。教会も同じです。私達1人1人も同じです。様々な訓練や試練を通して導き育てて下さっている。これが我らの神であります。
神様を心の王座に−苦しみが祝福へ
「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」(申命記6〜10節)
私はこの約束と共にここに来ました。「本当はどうかな。」と思いましたが、事実神様はそういう方々を起こして下さったのです。別の箇所には
「わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。」(ヨシュア24章13節)
「こんな上手い話があるのか。」と思っていましたが、本当に私達が何もしないのに、神様は人々を救って下さっていたことが事実起きているのです。私にとっては「小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブ油と蜜、鉄、青銅」とは皆さんのことなのです。私はやっぱり主に従ってここに来ることが出来てよかった、そして皆さんとお会いすることが出来て良かったと思っています。神様は本当に従う者に祝福を下さる。でも問題はそこに従っていくこと。
「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。−主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。−」(申命記11〜16節)
2番目に気をつけるべきです。私達は苦しい時には真剣に「神様助けて下さい。辛いんです。慰めて下さい。励ましてください。」と神様を求めます。でもそこを越えると「神様ありがとうございました。もう大丈夫です。卒業しました」という具合。それは危険です。だから神様は敢えていろいろな苦しみや悲しみも許されています。ある方は「神様を信じたら苦労はなくなると思った。」と言っていました。そうなら良いですね。でも信じた後も苦しみも、悲しみも、辛いこともあるでしょう。イスラエル民族が体験したように『燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ』たこともあったでしょう。でもそのことは『あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』私達が本当に主と共に歩む素晴らしさを味会わせるためであった。私達は十分満ち足りていると神様がいらなくなってしまう。弱いから、愚かだから、神様に頼る者にならせて下さるのです。
「あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」(申命記17〜18節)
私達の敵とは「傲慢」です。私達はどこまでも自分を誇る者。それが問題の根本です。私達に必要なのは「主を心に据える」ということ。是非覚えて頂きたいと思うのです。主を覚え、主にしっかりとつながり、主の御言葉を思い出し、主に従っていく。こういうことではないかと思います。神様は私達に多くのことをして下さいました。それらのことを通してもっともっと主に従うことを学びなさいと教えて下さっていると思います。
屋根が飛んだ時がありました。開拓当初の経済的に苦しい時でしたので「どうしようか?」と思いました。でも保険に入っていて大丈夫でした。ある時は落雷が近くの電線に入り電気系統が全部だめになったことがありました。この時も全部直すことが出来ました。シロアリを駆除したのですが、翌年また出てしまったために、全部無料で事務所に改造することが出来ました。神様はその都度に不思議に必要を満たして下さった。
皆さんも振り返ってみると確かに辛いことがあったけれども、何とか通り抜けて脱出の道を備えて下さることを体験してきているのではないかと思います。このことを是非とも味わっていって頂きたい。主の恵みを数え思い起こす時に、もう1度主を心に据えることを15周年にあたり覚えて頂きたい。私達はいざという時に、だれを心の王座にしているか。私達は自分がいつも中心にあると思います。でも本当の祝福の秘訣はそこに神様を迎えること。その時に神様は不思議にいろいろな危機や問題を乗り越えさせて、そこに祝福を与えて下さることを教えて下さっているように思います。
私達はいろいろな場面に出会うでしょう。今までも、これからもそうでしょう。その中で私達にとって大切なのは主の道に歩む、主を心に据えることではないでしょうか。その時に私達には何があっても「それで良し」とする生き方が出来るのではないでしょうか。神様は苦しみを通らせます。嫌なこともあります。でも最終的に神様はそれを全部益にして下さる。私達にはいろいろな苦しみやチャレンジがあります。でもそれにめげず信仰を持って前に向っていきたい。神様はそこで必ず脱出の道を備え祝福して下さる。それが聖書の約束であり、この箇所の語るところではないかと思います。遂には私達を幸せにするためである。共にこの道を進んで行きたいと思います。