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「いのちの道」

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2004年10月31日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ5章19節〜29節より
牧師 吉田耕三

私達の教会も今日から16周年の第1回目の礼拝になりました。先週は申命記から神様が成して下さった良きことを思い起こし、主を心に据えて主権を明け渡す時に、主は私達に素晴らしい業を成して下さることをご一緒に学ばせて頂きました。今日はまたヨハネ伝に戻り、ご一緒に学んでいきたいと思います。

イエス様のわざは私達が驚き怪しむため

「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」(ヨハネ5章17〜18節)

前々回までベテスダの池のそばで38年もの長い間病気であった1人の人物。そこにイエス様が来られて「立って床をとって歩きなさい。」と言うと立ちあがって歩き出した訳です。人々はそれを見て「神様はすごいな」とほめたたえるかと思いますと「今日は安息日だ。そんなことをしてもいいのか」と非難する。律法主義の考え方です。それに対してイエス様が語ったのが17節と18節です。ところがこれを聞いてユダヤ人達はもっと怒ったのです。それは「わたしの父は今にいたるまで働いているのです。ですからわたしも働いているのです。」と天地万物を造られた神を「父」と呼んでいることがけしからんという訳です。このことは少し説明しないとユダヤ人は何という人達なのだと考えてしまうかもしれません。ユダヤの世界では神に対してすごい尊敬をはらいます。神を畏れ敬う。ですから人間が神の子であるという考え方はとんでもないことなのです。例えばソロモンが新しい宮を作った時の祈りを見てみましょう。

「それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(第2歴代6章18節)

神様のために素晴らしい宮を作ったソロモンは、あの強い畏れるべきお方が本当に地に下ってくださることがあるのだろうかと言いました。神様はシェケナーという臨在を現わす雲を送ってそこを祝福して下さいました。天地万物をお造りなった神がこの地に下るとは確かによくよく考えると本当にすごいことです。ですので、イスラエルの人達は、罪を犯し汚れたことを言う口びるが聖い神様の名を呼ぶことは畏れ多い。「主」という言葉がくると口をつぐんだのです。現在は「主」という発音がどのようにされているのかはっきりと分かってはいません。恐らく「ヤハベー」か「ヤハバー」であろうと考えられています。それからもう1つの方法は当て字「エホバ」を使って現わしたこともあるのです。ですので「エホバ」が名前ではないことだけは確かです。日本人は何でも神様にしてしまうでしょう。こういう世界の者にとってユダヤ人が神を畏れるという考え方は理解しにくいと思います。ですのでイエス様が天地の造り主である神様を「父」と呼んだことをこんなにも怒ったのです。しかしこれは事実ですから驚きを持って受け入れるべきでしたが否定してしまった。このことでユダヤ人達はイエス様を殺そうとしましたが、イエス様はこのことを通してもっと深く教えようとしました。

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」(19〜20節)

『まことに、まことにあなたがたに告げます。』この言葉は本当に大事なことを言う時にいつも言われています。イエス様は天の神様を父と呼んだだけではなく、「わたしの行なうわざの1つ1つは父なる神様のなさることです。父なる神様のなさることを見てわたしは行なっているのです」と言う。「父とわたしは1つです」ということを語っている。本当にそのことをイエス様はここで証明した訳です。そしてそのことを『あなたがたが驚き怪しむためである』というのです。そういう驚きを私達はイエス様を信じて得ているかと言いますと「イエス様は私達のために死んでくれたのだよ。」と知ったか振りをしている程度の知り方。もっと深く、もっと重く、もっと大きな意味で知る必要がある。そのためにこのことを伝えていますということなのです。

「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(21〜24節)

旧約聖書の中で神様は人を生かしたり、人をいやしたりされました。神様にはそういう権利がある。同様にイエス・キリストは私達を生かすことが出来る。ヨハネの11章には3日間死んでいた人をイエス様は「ラザロよ。出てきなさい。」と言って墓から出させた。イエス様はこんなすごい力を持っていた。父なる神様は全ての権威をイエス・キリストに与えたのです。マタイの福音書の最後には『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28章18節)』と書かれています。現在は父なる神ではなくイエス様が人を生かす権利、人を滅ぼす権利をお持ちであるのです。そしてこのイエス・キリストの言葉を受け入れる者は『永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている』。イエス・キリストにつながること、信じること、イエス・キリストの言葉を受け取ることにより、こういうことが起こるようになると父なる神様は定めている。

私達はイエス・キリストをそんな風に受けとめているでしょうか。人間として来たので親しさを現わして下さっているのですが、それ故にイエス様の権威を引きずり下ろし小さくしてイエス様の言葉を「聞いたことがある」と軽いものにしてしまってはいないか。私達はもっと畏れおののきながらイエス様の言葉に耳を傾ける必要がある。イエス様が「命がある」と言ったら本当に命がある。この事実をしっかりと受けとっていきたい。そのことは『それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。』もしイエス様を真剣に受け取ろうとしないならば父なる神様を受け取ろうとはしないでしょう。私達は父なる神様を見たことはありません。でもイエス様はこんな風に赦して下さり、こんな風に受けとめて下さり、こんな風に支えて下さり、波を静めたり、天候を変えたり出来る。生殺与奪の権全てを持っているお方だということを私達は知ることが大切です。それにより父なる神様を敬うようになると勧める訳です。そしてさらに御言葉を大切にするということにおいてこう続きます。

イエス様とその言葉を受け取るめ

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(25〜29節)

この『死人』とは霊的な死人ということです。私達が神の言葉を受け取らず神のことを本当の意味で信じないならば、その人は霊的に死んでいるというのです。ルカ福音書15章に放蕩息子の話しが出てきます。自分勝手な道に歩み、父親の財産を持ち家を出て、全部使い果たし、食べるにも事欠く状態になった時に、我に返った彼は父親の元に帰るという話です。その彼のことを彼は死んでいた説明されています。彼が父の所に帰って来た時、死んでいたのが生き返ったと書いてあるのです。もし私達がこの神の言葉を真剣に受けとめるならば私達の内に命が宿るのです。でももしこれを否定し無視するならば、神の力は私達から遠ざけられるでしょう。厳粛な現実がここにあるのです。しかし私達はそんな重さをもってイエス様の言葉を聞いてきたであろうか、受けとってきたであろうか。そして世の終わりの時のことが語られています。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル9章27節)

イエス・キリストを救い主として信じた人の内には罪の赦しがあります。そして神の永遠の命があります。この永遠の命には神様の様々な祝福が含まれています。そういうものが与えられる。けれども、もしイエス・キリストの救いを受けないならば、その人自身が犯した罪の裁きを受けなければならないとここに書いてあります。

あなたは本気になって畏れをもってイエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストの言葉を本心から神の言葉として受け取っているでしょうか。そしてそのように生きているでしょうか。御言葉を聞き、御言葉に従う者になっているかと問われているのではないでしょうか。「そのうちに聞くよ。」とか「まあまあそれなりに」といい加減にしてしまう。イエス様は私達と共にいて下さる。神様は遠い方ではなく、私達を愛し、私達の所に下ってくださる。ソロモンが神様がこの地に下るということがありうるのであろうかと言いましたが、それがあり得たのですが、そのことを「そばにいるから」といって小さくしてしまうことのないようにしていきたい。イエス様の存在を本当に近いです。私達が「助けて」と言えば助けて下さいますし、「慰めて下さい。」と言えば慰めて下さる。けれどもこの権威を畏れ「この方の言葉はすごい」ということをしっかりと受け取っていくことが大切なのです。イエス様は天地を造られた時にどこにいたのか知っていますか。

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1章15〜17節)

イエス様は天地創造に携わったお方。父なる神様がすごい神様であると思うならばイエス様も全く同じ権威を持ったお方。そのようにイエス様の言葉を真剣に受けとっていく。その時に私達は生きて働く本物の信仰者になっていくことが出来ると思います。このことを忘れないようにとイエス様は語って下さっているのです。

アメリカの何万人もの信者を抱える教会の牧師が、開拓伝道を始めて2年間で17名の人が救われたそうです。日本であればこの人数は多いのですがアメリカでは多いとは言えない人数です。教会が独立出来ない状態でしたので、彼はスーパーで働きながら伝道をしていました。ある日400数十ドルの借金が出来てしまった。パートタイムではなかなかお金が得られません。その時に上役から「君は一生懸命にやってくれているからこの店のマネージャーになってくれないか」と言われた。非常に心が動いたそうです。マネージャーになれば伝道には力が注げなくなるけれども、借金は返せるからそうしようかと思った。でもある朝聖書を読んだ時に『また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。ピリピ4章19節』この御言葉が心にとまったそうです。そうしたらその日に突然友人から「君のために祈っていたら、神様が君のために献金をしなさいというのだよ。だから小切手400数十ドル送ったから」という電話がかかってきた。それが借金金額のプラスアルファであった。「神様が必要を満たして下さる。」彼は本当に喜んで神様は素晴らしいと言っていたのですが、その時に神様からあることを示されたのです。「わたしが今朝あなたに御言葉を与えた時にはあなたはそんなには喜ばなかったね。あなたはそのお金をまだ友人から実際に得ている訳ではないでしょう。ではどうして喜ぶのですか。」それが彼の悔い改めになり、それから非常に祝福されて歩んでいった。その秘訣はここにあったのです。本気になって神の御言葉を受け取る人生。天地を造られた神が私達と同じ弱さを持って人間となって十字架にまでかかってくださり語って下さった言葉がこの聖書の言葉です。このイエス様の言葉を私達は軽く見積もってはいないでしょうか。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(第1コリント1章18節)

もし本気なって御言葉を受けとるならば、御言葉は私達にとって力になるのです。喜びになる。希望になる。でも御言葉を信じないならば何の力にもなりません。私達は御言葉を本気になって受け取っていく。あるいは神様を本気になって信頼していく信仰を頂きたいと思います。

前に牧していた教会に、ご主人に先立たれて更に0歳の子供が成功率半々の手術をしなければならないという女性がおりました。

「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(ルカ12章6〜7節)

彼女がこの御言葉を読み祈っていた時に「イエス様はきっと守って下さる。」と確信が与えられ、笑顔で子供を手術室に送ることが出来た。それは信仰の結果である魂の救いを得ているからです。私達はどこまで本気になってこの御言葉を信頼しているか。本当に信頼するならばその力がやってきますが、受けとらなければその力はやってきません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(24節)

信仰は聖書の言葉を聞くことから始ります。『わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』これはイエス様のお言葉です。事実その通りなのです。問題は私達が受け取り切るか否かです。これらの御言葉に対して私達は今までいい加減な態度で歩んで来たと思います。私達は「本当に神様はすごい」と言えるように神様にもっと信頼して歩む。神の御言葉に委ねて歩む者となっていきたいと思います。神様はそのように歩む者に必ず報いて下さいます。私達も神は生きておられると体験していくことが出来るのではないかと思います。是非この主に歩んでいきたいと思います。

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