2004年11月14日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書申命記6章1節〜9節より
牧師 吉田耕三
今日は第2礼拝後に子供祝福式が行なわれます。そういうことでヨハネ福音書ではなく申命記の御言葉を読ませて頂きました。現代は大人だけでなく子供の社会においても非常に厳しい世の中になってきています。学級崩壊どころか学校崩壊が起きようとしている。先生が声を出しても全然聞こうとしませんし、物が飛び交う。授業にならないのです。45分間じっとしているということが出来ない。その間立ったり食べ散らかしたり。もちろん掃除など出来ない。家庭でしつけや訓練や我慢がなされていない。いくら学校で教えてもそれがもはや何の役にも立たなくなっているのです。先生の言い分、生徒言い分があると思うのですが、確かに言えるのは、この世の中は段々と乱れてきていて、正しい価値観や正しい歩みはほとんど通じなくなってきているということです。その中で私達は大変重要な役割を担っている。『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。』私達はこのことをしっかりと心に刻み込ませて頂く必要があるのではないでしょうか。
子供を祝福する。祝福するとは正しく導くことである。聖書の中に『むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。(箴言13章24節)』要するに訓練をしない親は実は子供を憎んでいることになるのです。子供が後でどんなに苦労するかということです。少年院に入った1人の少女が「家では何でも自由だった。親は自分がすることは何でもゆるしてくれた。でも自由というよりは放任であったのだ。いくつかの決まりを設けるくらい自分に関心を持って欲しかった。」と言っていました。彼女は全く自由であったがために少年院という自由でない所に閉じ込められてしまったのです。
確かに私達は正しい教えとは何かをきちんとわきまえなければならない。私達は聖書は何と言っているのかに耳を傾ける必要があると思います。申命記6章はイスラエル人が朝毎に夕毎にこの箇所を読んで暗唱している箇所です。神を恐れて生きるためにこのことをいつも覚えなければならないという訳です。聖書の戒めが何のために与えられているかというと、
「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」(申命記4章40節)
私達が幸せになり長く生き続けるため、平安な祝福された生き方をすることが出来るために、主の戒めをしっかりと心に覚えて、そこに歩むべきだと教えて下さっているのです。
私達が恐れるべきお方
「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令−おきてと定め−である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。」(1〜3節)
イスラエルがエジプトでの奴隷の身から解放されて、カナンに入ろうとする時に彼らがいつも覚えるべき言葉として残されたのがこの言葉です。申命記とは申し命じる記ということですが、モーセを通して民にもう1度心にしっかりと覚えるようにと命じた。あなた方が幸せになるためにまず第1に神を恐れること。『あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。』私達が神を知る、神を認める。これが人生の中で一番大切なことですと語るのです。
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1章7節)
これは箴言の代表的な言葉です。私達は人を恐れたり、転変地変を恐れたりする訳ですが、本当に恐れなければならないのは神である。神を恐れるか否かにより、その人の人生は全く変わってくるのです。神様ご自身を教えられているならば、いざという時に神様に助けを求めることが出来ます。また神様がこう語っていると教えられる時に素直に受けとめることが出来ます。もちろん反発心もあるでしょうが、基本的には神様に従う、また言葉に従うことが出来るでしょう。しかし神が伝えられていないならば、自分勝手に生きるしかありません。
神の真理が伝えられるためには、まず神様が伝えられている必要があります。親として本当に神を恐れることをきちんと教えることは大切です。この世で上手く生きるためには他人に対して成すべきことを教えることも大切です。しかし何よりも大切なことは神を恐れることです。人間の教育には3つの教育があると言われています。知的教育、社会教育(常識教育)人間が社会で生きていくための教育も非常に大事です。ある意味、知的教育よりも人間として生きるためにはこちらの方がもっと大切とさえも言えるかもしれません。しかしもっと重要なことは霊的教育(宗教教育)、何のために生きているのか、どの様に生きるべきか。これは正しい霊的教育が成されているか否かによって変わっていくのです。私達はこれをきちんと教えていく時に子供達は健全に育っていくことが出来る。
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29章25節)
私達は本当に恐れるべき方を恐れていない。そのために罠にかかったり、恐れる必要のないものを恐れたりしてしまう。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10章28節)
人間が出来る最大限のことでも人を殺すまででしょう。それ以上は出来ないのです。でも神は肉体だけでなく、魂も滅ぼすことの出来る方です。この方の前に自分が正々堂々としているならば、心が平安であるならば、結構人の前では堂々としていられるのです。
私が一番助けられる言葉は、『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。イザヤ41章10節』です。
私は元々非常に臆病な者で恐れの強い者ですが、この御言葉を何度が心の中で言う時に「そうだ神様がいるのだから大丈夫だ」という思いになって、心が強くなっていく。その内に恐ろしい場面でも普通にしていられるように段々と変わっていったのです。私達はこの神を恐れないから人や他のものを恐れている。恐れるべき方を恐れることにより、恐れる必要のないものからも解放されていく。これをしっかりと子供に教えること、また自分もそのように生きることが大切でしょう。このことが出来るならば私達は幸せになり、大いに増える。これは祝福されるということです。神を恐れることが本当の意味での幸せ、また祝福される存在の基であることを覚えたいと思います。
その方が私達を愛して下さる
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(4〜5節)
次に、私達が神を恐れる中で何が大切なのか。この方を恐れるだけで私達は他の物を恐れる必要がない。それだけではなくこの方を愛しなさいというのです。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第1ヨハネ9〜10節)
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(第1ヨハネ18〜19節)
私達は神を恐れるべきですが、同時にこの神を愛するべきだとも言うのです。両立するのは難しいように思います。神はまず私達を愛して下さった。神自らが私達のために犠牲を払い、命を捨てて下さった。その1人子さえも捨てて私達に本当の愛を現わして下さった。「神様がここまで私を愛して下さっているのならば何も恐れる必要はないのだな」ということです。この方の中で私達は守られている、愛されているという現実を知ることにより、ただ「怖い、怖い」ではない。ただ怖いだけであるなら「触らぬ神に崇りなし」となってしまう。私達の神様はそういう感覚ではない。確かに恐れるべきお方でありますが、このお方は大いなるお方であると共に私達を本当に守って下さり、支えて下さり、また導いて下さるお方、覆って下さるお方。この確信がある時に私達は喜んでお仕えしていく、従っていく力が出て来るのです。
私達は本当に神を恐れる。でも恐れるべきお方が罪のないイエス様を送ってまで私達のために救いを備えて下さった。そこまで私達を愛して下さっている。このことをしっかりと心に留め置き、このことが皆さんの内に受肉すると言いますか、「神様は本当に私を愛して下さっている。」ことが単なる言葉ではなくて皆さんの心に染みいる時に、先程の『私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。』という言葉が実現すると思います。自分の中にもまた神を愛する心、そしてあえて言いますならば隣人を愛する心が生まれてくると思います。
それが与えられてこないというのはどういうことかと言いますと神の愛を本気になって信じていない、受けとっていない、気付いていないということではないでしょうか。私達はもう1度そこまで愛して下さっているという事実を再確認にする。愛に気付かないでいることがあるでしょう。ある出来事を通して「ああ、この人はこんなに私のことを思ってくれていたのだ。」「この親は、この兄弟は、こんなに私のことを思ってくれていたのだ。今の今まで気がつかなかった。」そういうことがありますね。前からそのように思ってくれていても、私達が分からない。心を閉ざしていて分からない。私達は心を開いて神様の愛、真実をもっとしっかりと受けとっていきたいと思います。
「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。」(6節)
私達の信仰は、この祝福は私達だけでとどまるのではなく当然子供に、若い人に対して宣べ伝えていく責任があると思います。そのためには伝える本人自身がその言葉をしっかりと心に刻まなければなりません。親にとってはなかなか痛い言葉ではないかと思います。
「いつも注意しているように、また教えているようになかなか子供はならない。しかしやっているようになる。」とよく言われます。前にも紹介しました「若い父親のための10章」という本があります。簡単に要約しますが、この本の著者は、もしもう1度父親をやりなおせるならと言って、
「私は子供の母親である妻をもっと愛していたであろう。」文句を言うことはあっても感謝すること、愛することは少なかった。「もっと笑うようにしたい。」いつもしかめっ面で怒っていた。「もっと良い聞き手になりたい。」子供の言っていることを軽く聞いてしまっていた。「もっと正直でありたい。」正直に自分の弱さを出しながら人間として子供とつきあってきたかと言うとそうではない。「家族の心を傷つけたり、関係を痛めるような言動を慎み、出来る限り妻や子供を幸福にすることを願い、私自身が変えられていくことを祈りたい。」「もっと家族との時間を取りたい。」「小さなことにもっと気を配りたい。」「家族の一体感を保てるように心がけたい。」「神様のことをもっと語り合いたい。」
どれ1つとして十分に出来たものはないです。これでは理想的な者になろうはずがないと思うのですが、私達は自身自身がいかに生き生きとした信仰に生きるか。自分自身がいかに神様の愛に満たされて喜ぶか。それが子供や若者達に伝えていく一番の道ではないでしょうか。自分がその恵みの中に生きなくて人に命令をしても苦しみを与えるだけです。かえって聖書は苦しみの書になってしまうかもしれません。その素晴らしさを本当に味わってこそ神の言葉となるのです。
「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」(7〜8節)
彼らは聖書を持っていた訳ではありません。手を見たら、額を見たらと聖書の言葉を思い起こす。それは真実に御言葉を触れ合っていくように心がけた訳です。
1人の理想的な家族の姿を見るのですが、ルーファス・ジョーンズは「私の育った信仰の形は家族が朝集まってディボ−ションをするだけにとどまらず、もっと深い何かをもっていたように思う。生活そのものに真に愛し仕え合うことが満ちていたのである。今で言えば古いタイプの家であったのだろう。しつけと教育が常になされていた。家全体に薫陶の香りが漂っていた。今思えば人生を建て上げる場であったと言えるだろう。私の人生の基礎がそこで形作られたことは間違いない」と言うのです。
本当に平安と安心を頂けるような家庭。もし私達自身が福音に生かされ、御言葉に生かされていくならば「神様はこんな恵みを下さった」「こんなことをしてくれた」と神様の祝福が満ちあふれる場所となる。そしてその子供は当然のように神様の恵みと祝福を喜ぶ者となるでしょう。ともにこんな生き方を目指していきたいと思います。最後に
「これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」(9節)
「私はこの家でこの教えに従っていきます。」と主の民としてここに平安と勝利があることを知り、その道に共に進み、神様の栄光を頂いていくお互いにされていきたいと思います。