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「真実な証言」

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2004年11月21日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ5章30節〜47節より
牧師 吉田耕三

今日の箇所を「なるほど。よく分かった」と思う方はいますでしょうか。私が聖書を初めて読んだ時はあちらこちらに「?」をつけていました。何を言っているのか分からなかったのです。しかし時が経ってみますと、その箇所に「?」が何故ついているのかが分からない。神の言葉は本当に不思議なもので、私達の心にそのように響いてくるのです。しかしそうなるためには何が必要かをここから学ぶことが出来るのではないかと思います。

私の糖尿病が分かった時に、医者から説明されたのが「目が見えなくなりますよ。」とか「腎臓透析になりますよ。」とか「足を切らなければならなくなります。」などでした。ショック療法とでも言いましょうか。あまり私には効果がなかったのですが。ある意味今日の箇所も、ユダヤ人に対する一種のショック療法であるかなとも思うのです。まずヨハネ8章を見てみましょう。

神のことばに聞き従うなら

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネ8章44〜47節)

自分達は神の民であると信じているユダヤ人に対して『あなたがたは神から出たものではない』とか『あなたがたは悪魔から出たものだ』とイエス様は面と向って言われた。「私はクリスチャンだからもう大丈夫。」とか「私は神様を信じて生まれ変わったのだから」などと変な慢心をしてはいけない。「あなた方が本当に神の民となっているならば、聖書の言葉があなた方の中に留まるはずだ。そうなっていないならあなた方はもしかすると本当には神の子ではないからかもしれない。」という言葉がイエス様の口から語られているということなのです。彼らが陥った過ちは他でもない私達も陥る危険性があるということをきちんと学び、そのようにならないようにしていきたいと思います。

「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。」(ヨハネ8章30〜38節)

前回までの話の流れを思い出して下さい。ベテスダの池に38年もの間病に臥せっていた男性に「立って床を取り上げて歩きなさい」と言ったことにより、彼は立ち上がり、歩き出した。素晴らしい神様の業がなされたのですが、その時にユダヤ人は「今日は安息日なのに何故こんなことをするのだ」と責めたてた。いやされること、良きことが行なわれることよりも小さい律法のこと、それも正しい意味ではない小さいことを言ってしまう傾向があった。それに対してイエス様は「わたしの父は安息日にも働いている。だからわたしも働いているのだ。」との言葉に対して、彼らはイエス様が天地を造られた神を自分の「父」と呼んでいるのが許せない。「何という思い上がり。こんな奴は生かしておいてはならない。」とイエス様を殺そうとする動きに出て来る。それに対してイエス様はひるまず、わたしは父がやっていることを行なうのだと言われる。例えば命を与える。あるいは裁く権利も下さった。そういうことを通してわたしが神の子であることを現わしている。そしてそれを明確にしようという試みがここでなされていると思います。

第1にはバプテスマのヨハネは『見よ。世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1章29節)』と言いましたし、また『私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。(ヨハネ1章34節)』とはっきり証言しているのです。確かにバプテスマのヨハネの証言があるけれども、わたしはヨハネの証言を必要とする者ではない、それ以上の者であると言っているのです。それは父なる神様がわたしのことを証言してくれている。では何故バプテスマのヨハネを出したのか。人々はバプテスマのヨハネのことを知っていますから人々にとっては受け入れやすい訳です。でも本当はわたしは人の証言を必要とする者ではない。父ご自身がわたしを証言している。変貌山でも『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17章5節)』と言われました。またイエス様が洗礼を受けた時にも『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3章17節)』と言いました。神様が語っているのですが、人々は分からない訳です。更に御言葉を通しても語られている。モーセが書いた言葉自体がわたしのことを言っている。ところがあなた方はその言葉を信じようとしていない。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。わたしは人からの栄誉は受けません。ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」(ヨハネ8章39〜44節)

ユダヤ人達は熱心に聖書を勉強する人達です。13歳までに聖書の言葉を暗記します。彼らは「ラビ」と呼ばれる律法の先生からいつもそれを聞いている訳です。彼らは一生懸命に聖書を勉強するのですが、律法の言葉はよく知っていても本当の意味でその語る事柄を理解しようとしていない、それを受けとっていないのです。この律法は、このわたしのこと”イエス・キリスト”を語っているのだ。モーセも『私のような預言者が遣わされる』とはっきり語っています。しかしあなた方は「モーセ、モーセ」と言うがモーセの語っていることは、この”わたし”のこと。もしあなた方は聖書を読んでいるのならば”わたし”の所に来るはずでしょう。ところが来ようとはしない。

『わたしは人からの栄誉を受けいれません。』とは人からいろいろと言われたい訳ではないけれども、あなた方は「○○の友人だよ。」と言われれば受け入れるでしょう。知らない人でも受け入れるのに、神様が「救い主を遣わした。」と言っても受け入れない。お互いのことは受け入れるのに、神様のことを受け入れようとはしない。それはあなた方の中に根本的な問題があるのではないですかということです。神の言葉を受け入れるのではなくて、人間の思いを第1にする考え方に問題があるのではないですかと指摘しているように思います。

神の土台を据える

「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」(ヨハネ8章45〜47節)

あなた方は「私はこの聖書を知っている。聖書の律法を守ってきた云々」と言うけれどもあなた方は根本的な聖書の真髄を外してしまっている。すなわち、あなた方は神を求めていかなければならないのに、人の栄誉、人との関係、人間中心、自己中心が心の根本に座ってはいないですかと言われる。人間の考え方が中心ですから、そこからちょっとずれている教えがくると反発してしまうのです。

「なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」(第2ペテロ2章6〜8節)

イエス様は神様が送って下さった私達の人生の土台になるお方なのですが、私達は土台として受け入れるのではなく、自分の都合勝手に受け入れるか受け入れないかを決めている。自分の考えが基本にあるのです。そこにイエス様を入れば入れるし、入らなければ入れない。そうではなく土台にこそイエス様を置き、その上に家を建てるべきなのに、自分の考え方を土台としていますから、それに合わないものは捨ててしまう。私達は自分の考えが中心になってしまっていて、神様の教えに反発してしまう。ここに根本的な問題がある。だからあなた方はこのわたしも、聖書の言葉も受け入れることが出来ないのではないかと言うのです。神の言葉か、聖書の教えか、自分の考えか、自分の経験か、いつも葛藤があります。しかし神の言葉をとっていく時に、聖書が生き生きとしたものになっていくのです。聖書では『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6章33節)』と言われています。私達は都合の良い所だけ神様の真理を受け取るという考え方になってしまう。そこが問題なのです。聖書の教えを土台として受け入れる姿勢が必要だというのです。

「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3章10〜12節)

私達の中に神を求める心がないという事実に気付くべきです。私達の心には神に反抗する思いがあることを知っておいて下さい。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8章7節)

私達の中には肉があって、これが根本的に神に反するものです。神様の真理がくるとそれに反抗する心が出て来るのです。ここにおいて私達は砕かれていくことが必要なのです。私達は悔い改めに導かれる。人間中心の信仰なのか、神中心の信仰なのか、根本的な問題が問われている。私達が聖書を読んでもよく分からない理由の1つに自分の考えが捨てきれないというのがあると思います。「そんなことを言ったって」と思ってしまいます。そういう状態では聖書の御言葉を本当の意味で受け取れなくなってしまう。ここにおいても私達は砕かれていく必要がある。聖書の教えが人生の土台になっていくことが大切です。

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ローマ2章4〜5節)

神様は私達を悔い改めに導こうとされているのです。私達の考え方を造り変えようとして下さっている。人間中心の考え方から神中心の考え方へ。これが真の神の民の姿勢です。ところが私達は神様が様々なことを通して語り教えて下さっていることに対してなかなか耳を傾けようとしない、心を開けようとしない。そのために聖書の真理を受け取ることが出来ないのです。神の慈愛が悔い改めに導こうとしているのに、私達は真剣に悔い改めて自分の考え方や捉え方を「変えて下さい。主よ。頑なな心を砕いて下さい。」と祈ることが必要なのに、そのことを放っておいて変えられていこうとしない。このことに対して警告を与えて下さっている。

ヨハネ福音書を通して教えられている私達のこの弱さに気付いているでしょうか。自己中心、人間中心の考え方が根本的に変えられていかなければならない。神中心の考え方。これが聖書的な考え方、クリスチャンの本当の姿です。ここに直面する時に、砕かれなければならない部分が沢山ある。御言葉に直面する時に悔い改めが出て来る訳です。その時に聖書の御言葉が私達の中に迫ってきて力となっていくのです。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(第1コリント1章18節)

もし私達に悔い改めが起きてくるならば、そこに神の言葉が命の言葉として迫ってくる体験をするのではないかと思います。この箇所は私達に悔い改めを迫っている。

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章8〜9節)

この箇所を通して自分の中に神の言葉を素直に受けとめようとしない頑なさがあることを気付かされる必要があります。そして主の前に「私の中にはそのような傲慢さ、頑なさがあります。」と告白することが大切です。「私は大丈夫です。」と言っているなら、あなたの内に真理はないと聖書は語ります。「本当に頑なであった。御言葉をそのまま受け取ろうとしていなかった。これは自分の問題であった。」と正直に主に申し上げていきましょう。同時に『神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』とありますから、イエス様を見上げ、私の全ての問題は十字架により解決していると気付かされていきましょう。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3章14〜18節)

ユダヤ人達は一生懸命に聖書を読んでも、おおいが掛けられているために、その真意を読むことが出来ない。結果としてイエス様をも受け入れることが出来なかったのです。ヨハネ伝が語るのは、だから何が必要であるのかということです。このバプテスマのヨハネの証言を通しても受け取ることが出来るでしょう。またイエス様の成した御業からも受け取ることが出来るでしょう。メシヤ(救い主)が来た時には次のようなことが行なわれると書かれています。

「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(イザヤ35章5〜6節)

ベテスダの池の男の人に成された業。38年間歩けなかった人が歩くことが出来た。神の御業だとほめたたえることが出来たのに、彼らはそれを見てもイエス様をキリストと認めることは出来なかった。更に聖書を読めばイエス様が救い主であることが分かる訳です。だとするならば、彼らはイエス様を信じるべきであったのに信じない。信じないから覆いが取り除けられない。取り除けられないからいつまで経っても信じられない。どうしたら覆いが取り除けられるのか。それはイエス様の所に来ることです。「イエス様がこの私のために十字架にかかって下さった。イエス様、私に本当の真理を教えて下さい。」とイエス様のところに行く時に、私達から覆いが取り除けられて様々な真理が明らかにされ、御霊による自由や幸いを味わうようになっていくのです。私達も同様に弱さのあるものとして、様々な覆いを外して下さい。聖書の様々な真理に対して、イエス様の言葉を素直に受け留めて歩んでいきたいと思います。

分からない箇所に「?」をつけておくと、イエス様の所に素直に来る時に、その「?」が何故ついているのかと不思議に思うようになると思います。ご一緒にこの真理に深く与かっていくために、イエス様にいつも向っていきたいと思います。

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