2004年12月5日 日曜礼拝メッセージ
旧約聖書イザヤ61章1節〜3節より
牧師 吉田耕三
今週は風邪をひいて声が出なくなりました。前日までゴホゴホとしていたのに、こうして日曜日にはお話出来る。不思議な神様の力を感じます。ここまで守られて本当に感謝しています。さてクリスマスとはどんなイメージですか。あちらこちらで華やかな飾りつけがされています。でも本当のクリスマスは華やかでも賑々しいものでもなかった。どちらかというと暗い寂しい所に本当のクリスマスが起きた訳です。イエス様は何のためにクリスマスをもたらしたのか。それは闇の中に光を持ちこむため、私達が生きる希望と喜びに満たされて歩むためである。是非ともこのクリスマスに「本当にそうだ。アーメン」と言える者にならせて頂きたいと思います。そのために必要な事柄が何かといいますと「いやし主」ということを心に受けとめさせて頂きたいと思います。
キリストはいやし主
「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」(イザヤ61章1〜3節)
イエス・キリストが再びこの世に来る時に、私達の体は栄光の体に変えられる。ですから、その時までこの肉体の体は完全にされることはないでしょう。時々奇蹟のようなことが起こることはあります。でも多くの場合はそうではありません。しかし心においては神は私達を完全にいやそうとされていることを知って頂きたいと思います。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53章5節)
これは今から2700年前、イエス様の生まれる700年前にキリスト(救い主)の姿を預言した言葉です。「その者は十字架につけられ血が流される。その打ち傷の故にあなた方はいやされたのです。たとえ私達の心の傷がどのようなものであったとしても、いやされることが出来るのです。」それは無理だと思うかもしれません。でも神様にとっては可能なのです。イエス・キリストは私達に生きる命、生きる希望を与えて下さいましたが、同時に私達の心の傷も完全にいやし、私達を本来あるべき姿に戻そうとしているのです。どういうことかといいますと、聖書には神様が私達を造られた時私達は『非常によかった』のです。「それならば何故今がこうなのか」と言いたくなります。それは罪の結果として「損なわれた」「傷ついた」「変わった」「変質した」「腐った」といろいろな言い方が出来ますが、現在は本来のあるべき姿ではなくなってしまっているのです。イエス・キリストによって神は私達の罪を赦して下さるだけではなくて、私達を生まれ変わらせて、傷もいやして新しい生き方が出来るようにして下さった。是非とも私達はその道に立ち上がっていきたいと思うのです。でもそれを妨げるのが”心の傷”なのです。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」(ローマ10章17〜18節)
聖書は『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1章19節)』と言っています。信じる者に神様は偉大な力、驚くべき力をもって今の時代でも本当に働いて下さる。
以前お話した好地由太郎は若くして父親が長男と長女を連れて出ていってしまいました。残された母と自分は掘建て小屋のような所に暮し、食物もない苦しい生活を強いられました。学校にも行けず悪事をして捕まってしまった。その後彼を雇って下さった女将さんに暴行を加えて殺し、放火をして逃げた。本当ならば死刑だそうですが、未成年の故に無期懲役となった。その時に1人の清清しい青年に会った。この人は伝道者で福音を伝えたので捕まってしまった。好地由太郎が「どうしてあなたはそんなに清清しい生き方が出来るのですか」と尋ねると「聖書を読んで下さい」と言われた。彼はその時の本音を書いています。「聖書を読んで自分も良い人間になろうというつもりはなかった。この人は耶蘇(やそ)の特別な力を持っているように見えた。だからその力をもって脱獄してやろうと考えた。」そうです。聖書を差入れてもらったのですが、字を読んだことがない。看守に教えてもらいながら読んだのですが、それでも分からない。
ある時に「取って食べよ。取って食べよ。それはあなたの救いになるからだ」という夢を3回も見た。「取って食べよ」とは聖書のことではないかと思い、もう1度聖書を読むことにした。今度は字を習い真剣に読んでいった。新約聖書を全部覚えてしまったというのですからすごいですね。本来ならば死刑であったはずの彼の変わり様はすごいのです。聖書を通して「イエス・キリストが自分のために死んで下さった。自分の罪のために死んで下さった。」と分かった時に、何をするにも彼は命がけでした。刑務所内の看病房で看病の仕事をするようになった。その時に機械が壊れてしまったために梅毒の人の膿を自分の口で吸い出した。彼は「自分はこうやって救われたのだから。」とその人達に命がけで仕えていく。彼は模範囚となり、恩赦が出て自由の身になった。そして刑務所を廻り昔の自分のような人達にイエス・キリストを宣べ伝える者となった。人間がどうしてそのように変わることが出来るのでしょう。それはイエス・キリストに出会って変わることが出来るのです。私達はこの朝「人は本来良いものであった。その良いものに戻るために、イエス・キリストを信じて新しい命を頂いてその傷をいやされていく必要がある。」ということを是非知って頂きたいと思います。
傷を神に告白する
私達は自分が傷ついていないと思っていることが多い。私達は罪人です。自己中心です。こういう人に育てられたらその子どももまた傷つきます。一生懸命にやってきたつもりでも不必要なところで感情的に怒ったり、叱ったりとしてきた。それは相手を傷つけてきた訳です。私達は親からも、また状況や社会からも傷つけられている。あらゆることを通して傷を受けている。そしてその傷が神の言葉を素直に受けとめられなくしているのです。「そんな上手いことがある訳ない」とか「そんなことを信じて後で馬鹿を見たくない。」とか御言葉に対して疑いを持ち、本心から信じることが出来なくなっている。
先程言ったように信仰は聞くことから始るのですが、傷があるために素直に聞くことが出来ない。そのために私達は御言葉を受け取れないから、神様の力も受け取れない状況の中にある。でも知って下さい。今日読んだ箇所はキリストは私達の心の傷をいやすために来たというのです。たとえ皆さんがどんな傷を持っていても、どんな裏切りや無視やいろいろなことをされたとしてもキリストはその傷を癒すために来たのです。
「私はそんな傷は何もありません。」と思っている方も実は心の中では大きな傷や痛みを持っていると思うのです。自分でも分からない行動を取ったり、無性に不安になったり、怒りっぽかったり、イライラしたり、誰のことも信用出来なかったりと様々な心の傷を持っている訳です。その傷がクリスマスの恵みの主であるイエス様が来られていても、その恵みを味わうことが出来なくなってしまっている。私達の心の傷をいやすために神はイエス様を遣わしてくださった。
「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」(1節)
キリスト(救い主)は私達の心の傷をいやすために来られた。私達はしっかりとここを受け取らなければなりません。そうでなければ、私達は健全な成長、回復が出来ない。神様が造って下さった本来の私達自身は素晴らしかった訳です。神様は『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(イザヤ43章4節)』と言って下さっています。宝物だというのでしょう。その宝物に戻るためには心の傷がいやされなければなりません。この世のどこに行ってもその傷は治らないのですが、イエス様の所に来る時に心の傷はいやされ、そこから解放されていくのです。是非とも私達はこの恵みに共に与っていきたい。そのためにはまず「確かに私は傷ついていた。気がつかなかったけれども、あそこでも、ここでも傷ついていたのだ。」と認めることです。
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139篇23〜24節)
多くの傷には蓋をしてきていますから自分では傷などないと思っているのです。それは「そんなことを考えても仕方がない。いちいち小さなことを言っていたら生きていけない。」と思っているからかもしれません。どうしようもないとあきらめてしまうのです。転んだ膝の傷は治ります。でも心の傷は簡単には治りません。蓋をしているだけですから、それは残っています。私達はそういう傷をあそこでもここでもいろいろな所で受けているのです。小さな傷ならば確かに治っているものもあるでしょう。でも結構大きい傷が心の中にはあるのではないでしょうか。傷をそのままにしていてはいつまで経ってもいやされないのです。自分で乗り越えたと思っていることでもただ蓋をしているだけ。そうではなく「私はこのことで傷ついていたのだ。」と正直に申し上げることが大切ではないかと思います。
「また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」(第1サムエル1章5〜10節)
エルカナには2人の奥さんがいる。まず問題の第1はこれです。ペニンナには子どもがいますが、ハンナにはいません。そうするとペニンナはハンナが悲しむような言葉を突きつけるのですね。ハンナは悲しくて、辛くて心が痛んで主に祈って激しく泣いたのです。私達に必要なのは本当に主に激しく祈ること。これが大切なのです。彼女はあまりの悲しさに言葉も出てこなくなった。祭司がハンナが酔っていると思うほどでした。その時に祭司エリは
「エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」(第1サムエル1章17〜18節)
彼女が激しく泣いて神様に訴え出た時に、彼女は前のようではなかった。私達はあまりにも神様の前に綺麗事で終わらせているのではないでしょうか。「神様。悔しいですよ。辛いですよ。悲しいですよ。」と訴えかけない。神様こそそんな私達を抱きかかえて慰めて下さるお方なのに、その方ではなく、せいぜい「大丈夫よ」と口任せしか言えない人間に期待するのです。そうではなく神様に叫ぶ。これが大切です。
「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」(詩篇62篇8節)
皆さんは神様の前に本当に注ぎ出して祈ったことがありますか。人の前ではそういう経験があったかもしれません。泣いたことがあったかもしれません。けれども神様の前にそのように泣いたことがあったでしょうか。「神の前に注ぎ出してごらん。」というのです。神様こそあなたの傷をいやして下さるお方なのです。イエス様はあなたのその心の傷をいやすために遣わされたお方だと聖書は宣言しているのです。本当に私達の心にいやしを与えることが出来るのです。あなたにどんな悲しみ、どんな痛み、どんな苦しみがあったとしてもそこに神様の方法があるのです。私達は是非とも「主よ。」とそのことを持ち出して祈るべきでしょう。本当に祈っていくならば綺麗事ではいられません。神様に正直な気持ちを訴えている人は、あまり人には言わなくなるのです。逆に神様に言わない人は、人に言ってしまう。神様の方に方向転換して自分の気持ちを訴え出るようにして欲しいと思います。そうする時に神ご自身が触れて下さるのです。
私達の罪のために、この傷のためにキリストは砕かれる。その砕きが私達に平安をもたらし、私達をいやしたと書いてあるのです。十字架はもう成されたのです。神のひとり子としてこの世に来て下さった。永遠の神、栄光の神、天地を造られたお方が人となって来て下さった。これは考えられない、信じられないことです。だからイエス様は多くのしるしを見せました。死んだ人を生き返らせ、盲目の者を見えるようにしたり、耳の聞こえない人を聞こえるようにしたり、あるいは奇蹟を行ない、五千人の人に食事を与えたり、あるいは風や波を静めたり。これはイエス様は特別な人。神のひとり子ではないのかと信じざるをえないようにしてくれた。そういうお方が何故十字架にかからなければならないのですか。それはこの方の打ち傷の故に私達がいやされるためです。この方が受けて下さった打ち傷により私達はいやされるのです。問題は私達の傷が癒されて素直に神の言葉を受け取っていくか否かです。もし受けとって行くならば私達にその力が現われてくるのです。
「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章31〜32節)
私達には傷がありますから「そんなに簡単に信じられない。」と思います。しかしイエス様の御業を見て、この方が信頼出来る方かどうか考えて下さい。私達がイエス様の言葉を信じるならば、受けとめるなら私達は本当に主の弟子となり、私達を自由にすると言っているのです。この恵みに与っていきたいと思います。
好地由太郎は聖書に出会い変えられましたが、「また自分が元に戻ってしまうのではないか」という不安も持っていたようです。一生懸命に悔い改めて徹夜で祈ったこともあった。ある時そのようにして祈っていた時に蚊に沢山食われた。「蚊に食われて痒くてお終いか。何も変化がないではないか」と思った時に、ある人の言葉「血を吸った蚊は次の年も生き延びられる」という言葉を思い出した。それを思い出して「私の血を吸っただけで蚊が1年間生き延びられるのならば、イエス様の血は私の罪を本当に赦すことが出来るかもしれない、私の傷もいやすことが出来るかもしれない。」と思った時に
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第1ヨハネ1章7節)
この言葉が彼の心にズシンと受けとめられた。その時から彼は嬉しくて仕方がなくなり、神様の愛をあちらこちらで宣べ伝えるようになっていった。彼を通して刑務所で100人以上の人が救われています。
私達は健全な成長を遂げるために、御言葉を受けとめることを妨げる傷を主によっていやして頂きましょう。「いくら神様でも」という気持ちが私達の内にあると思うのです。それを正直に打ち明けて告白しましょう。それを正直に訴えかけて欲しいと思います。その時に私達は神様が私を全く責めていないことを知ると思います。私達は本音を出すと自分の中に汚い思いがあることに気付かれると思います。「あの人が悪い。この人が悪い」と言いますが一番悪いのは自分ですよね。ところが私達はそれに気づかないでいる。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章8〜9節)
我慢しているとはある感情を抱えて隠して押さえ込んでいるということです。それを表面に現わさないように我慢しているだけ。もう少し素直に出しますと「この人を裁いていた。恨んでいた。憎んでいた。嫉妬していた」と分かるのです。そのことが出せる時に「主よ。そうでした。私は確かに恨んでいました。憎んでいました。裁いていました。」と告白できるのです。イエス様は「その罪はもう十字架で赦された。」と言って下さるのです。その時に私達は心に平安を受けるのです。是非ともこの平安、このいやしをもっと味わっていきましょう。そして神様によって頂く新しい命を謳歌するもの、喜ぶ者となっていきたいと思うのです。私達は正直に自分の心の傷を告白し認めましょう。それを主の前に注ぎ出していきましょう。その時にその傷が永遠の祝福、永遠の喜びの泉へと変わるのです。
「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。」(詩篇84篇6〜7節)
イエス様の所にに行けばよいと知っている人は本当に幸いだよというのです。涙でいっぱいだった所を祝福の泉にして下さる。心の傷は完全にいやされるのです。そして真理を知ることによる自由を味わい「イエス様はすごいよ。解放して下さったよ。自由を与えて下さる。愛を下さる方だよ」と友達に家族に伝えていきたいと思います。まだこの方を信じていない方は是非信じて新しい生涯を歩み出して頂きたいと思います。