2004年12月12日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ1章26節〜55節より
牧師 吉田耕三
今日はクリスマス待降節の第3週です。クリスマスイブの夜にも共にクリスマスの恵みを味わいたいと思います。クリスマスの恵みはたくさんあります。前回は心をいやすために来て下さったということを学ばせて頂きました。私達が本当にどうしようもないと思う心を神はいやすことが出来る。そして今日は心がいやされるだけでなく、生まれ変わることが出来ることをご一緒に学ばせて頂きたいと思うのです。
へりくだる心
イングランドのロドニー・スミス(別名ジプシー・スミス)は貧民街で伝道をしていました。ある集会が終わり帰ろうとすると上着を引っ張る人がいた。振り返るとクシャクシャの紙包みを持った女性が立っていた。「何ですか」と優しい声で聞くと「実は私の父があなたの集会に出席してイエス様を信じてから本当に変わったのです。それまでは酒がきれたことはなく、暴力をふるい皆が悲しんでいたのに、その集会に出てから変わったのです。是非これを持っていって下さい。」と自分が出来る精一杯の喜びを彼に下さった。スミスは深い感動を持ってその紙包みを受け取った。神様は私達に素晴らしい約束を下さっています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」(第2ペテロ1章4節)
私達が神様のご性質にあずかることが出来ると聖書は言っているのです。神様は私達の内にそういうものを作り出すことが出来ます。でもそのことを私達は十分に味わっているでしょうか。小中学生4300名のアンケートがあります。
自分の性質が気に入らない人40%時々自分はまるでだめだと思う47%私は人の役に立たない人間だ40%
誰でも本当は自分の中に「これでは良くないな。変わりたいな。」と思っている部分があるということではないでしょうか。私も聖書やキリスト教に関心を持ち始めたのはそれでした。「生まれ変われる」と聞いても、劣等感の固まりでしたからそうは思えませんでした。でも「そんなの嘘だ。」と思いながらも「本当にそうならば知りたいな。味わいたいな。」と思っていました。そしてそれは確かに事実でした。そのことをご一緒に今日マリヤの姿の中にどのように変えられていったのかの秘訣を学ばせて頂きたいと思います。この瞬間皆さんがマリヤになってどう感じるかを思いながら聞いて下さい。
「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(ルカ1章26〜33節)
マリヤは何気ない普通の生活をしている。もしかしたら少し静まっていたかもしれません。すると突然光るものが目の前に現われる。そして「おめでとう。恵まれた方。」と言われて戸惑うのが正直な気持ちではないでしょうか。でも「恐れるな」とか「マリヤ」とか自分の名前を呼ばれた。マリヤは非常に冷静ですね。
「そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1章34節)
私達なら慌てて言葉も出ないかもしれませんね。でもマリヤは冷静にまだ結婚していない自分に子供が出来るとは変なことを言うと考えた訳です。その心を見通すかのように御使いは言います。
「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。」(ルカ1章35〜36節)
聖なる霊があなたをおおう時にあなたは力を受けて子供を宿すという。マリヤは「そんなことはあり得ない。何を言っているのだ。」と思ったことでしょう。そして御使いは「それならばあなたの親類のエリサベツのことを考えてご覧なさい。」と言うのです。エリサベツが何歳であったのかは聖書に書いてありません。言えることは子供が出来るはずのない年齢でした。そのエリサベツに子供が生まれようとしている。これは否定できない事実です。ということはマリヤも「もしかして」と、すると御使から
「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1章37節)
と励まされるのです。ここまできても皆さんならば「そんなこと言っても」というのが、素直な気持ちではないでしょうか。ところがマリヤの言葉は
「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」(ルカ1章38節)
このマリヤの言葉に私達が神様の恵みに与る1つの秘訣が記されているのではないかと思います。「ほんとうに、私は主のはしためです。」という言葉。はしためとは女奴隷という意味です。「私はあなたの恵みに与かるような者ではありません。」ということです。でも同時に「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」「もしこんな私に恵みを下さるというのならば、この者の上にそのようになりますように。」というマリヤの心の中にはへりくだりの心があります。私達が学ぶべきこと、またマリヤがこのような恵みを受けた秘訣の1つはへりくだった心ということが出来ると思います。
私達は「これだけきちんとしているのだから、神様にどうのこうの言われる筋合いはない。」とか「私はこれだけ一生懸命に奉仕もしているし、あれもしている、これもしている。だから私は神様の恵みを受けるに違いない。」というのはだめだというのです。卑下しすぎる必要はないのですが、自分を高ぶらせることは神様の恵みを頂けなくする1つの原因であると言えます。水は高い所か低い所に流れます。神の恵みもまたへりくだる者に下るのです。「私はあれだけのことをした。これだけのことをした。だからこれをしてくれてもいいでしょう。」という心にはあまり恵みは注がれないかもしれません。でも「こんな私は神様の恵みを受ける資格はない。」とへりくだったマリヤに神の子が宿らされたということです。
それと同時に「あなたのみこころとりになりますように」ということは、マリヤがそこまで考えたのかどうか分かりませんが、当時婚約中の女性が子供を宿したならば即刻石打の刑で殺されます。子供が宿ったのは神様が与えてくれたと誰が信じますか。これはマリヤにとっては命をかける献身であった。その中で「神様どうぞあなたのお言葉通りになりますように。」と言ったのです。彼女の中には神様のなさることは一番の最善であるという信頼感があったのではないか、そしてこの通り素直な従順な心。これが彼女に恵みを受けさせる原動力になったのではないかと思います。
マリヤは神様の特別な業であったと聞いた時にエリザベツに会いたくなった。ナザレからユダの町は何百キロもあります。現代のように自動車や新幹線でいける時代ではありません。大変な犠牲を払ってそこに向った訳です。
信頼する心
「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1章39〜45節)
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いた時、エリサベツのお腹の赤ちゃんが動いた。胎動というものがあるそうですが、ただ動いたというのではなさそうです。どんな動きがあったのでしょうね。それだけではなく彼女は御霊に満たされた。神様が私の所に来て下さったと喜びに溢れたのだと思います。嬉しくて仕方のない状態が彼女の心の中にあった。そして「あなたは女の中の祝福された方」「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」という言葉が出てきたのではないかと思います。
今日のテーマは「信じる者に神の恵みが」としました。神様の恵みは全ての人に等しく提供されています。それが受け取る人によって変わるのです。その人がどう受け取るかによって、その人の内に働く力が変わってくる。私達が本当にこの方に信頼していくときに、その恵みが注がれるのです。ここはマリヤの賛歌と言われています。
「マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」(ルカ1章46〜48節)
私達の心がこのようにへりくだる時に神の恵みが注がれます。本来受ける資格のない者に主は憐れみをかけて下さる。不思議なもので、神様の恵みを感じる時というのは、結構自分が「だめだ。弱いな」と感じている時に分かるのです。「なかなか私も大したものだ」と感じている時は神様の愛があまりよく分からない。正直に自分を真正面に見るならば弱く、貧しくて、愚かえで盲目であること、そういう自分を見る時に「こんな自分をなお神様が憐れんで下さる。」と知る時にじんわりとした嬉しい気持ちが湧き上がってくるのです。「この卑しいはしためを神様は忘れるのではなく目を留めて下さった。声をかけて下さった。これから後のどの時代の人達は私を幸せ者と言うでしょう。」確かにそうですね。世界中最も有名な女性はマリヤではないでしょうか。
「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」(ルカ1章49〜55節)
私達はマリヤのように主の前に全く自分の権利や姿や誇りを一切捨てて、ただ主の前に立つ。私達は肩書きや外周りのものをいろいろと持っています。そういった一切がなくなる時に自分が実に寂しい者、悲しい者、孤独な者、空しい者であることに気が付くのではないでしょうか。そしてその姿を持って私達が神の前に出るということです。「私は神様からの恵みを受ける資格のない者です。でもその者に神の恵みが今も注がれている。」
エレミヤ書、イザヤ書には「イスラエルの民が反逆を繰り返した。彼らは立ち返ってこないので、わたしは彼らを憐れんだ。」と繰り返し語られています。変な論理です。反逆したのだからその民を捨てたというのなら分かるのですが「そういうどうしようもない彼らだから神は憐れんだ」というのです。私達は自分自身を真実に見る時に自分がそういう存在であることに気付かされるのです。そして神様はそんな私を捨てるのではなく憐れみをかけて下さる。このことを本当に受け取っていく時に確かに私達の内に新しい命、性質が宿り始めるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)
このキリストに正直に素直に心を開いて祈る時、神様は私達の内にその恵み、祝福を注いで下さるということです。ではそのヒントはどこにあるのでしょうか。
「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)
本当に信頼する者、そのことを本当に信じきった人はその力を味わうことが出来るということなのです。私達は本当に素直にこの神様に心を寄せていきたい。その時にそのことがあちらでもこちらでも起きてくるのです。イエス・キリストが私達に成して下さるのは改善や努力でなく、新しい誕生。マリヤがイエス様を宿したように、私達には新しい命、神の命が宿る。それは神のご性質です。そして私達は日毎にその神様の姿に変えられていくのです。
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3章16〜18節)
私達は自分を見るとだめだと思ってしまいます。私達のために十字架にまでかかって下さったお方を見上げる。ハドソン・テーラーは自分が変わっていかないことでとても苦しんだ。一生懸命に祈り悔い改めても変わらない。ある時に『私達に良きことを全うして下さる方が』と言われた時に、はっとした。彼はいつも自分ばかり見て「だめだ。これは無理だ」と思っていた。でも自分を生まれ変わらせ、自分に良き事をして下さる方を見上げることが出来た時に、彼はその心が全く変わっていった。
「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」(イザヤ30章15節)
神様を見上げる。落ち着いて神様に信頼する。この方は決して悪いことはなさらない。この方は必ず守って下さると信じていく時に、私達は力が出てくるのです。今までとは違う新しい自分が出てくるのです。そしてこれからの生涯はどこまで自分が新しくされていくか。それは神様がご計画されていた一番最初からの”非常に良かった存在”に向って日毎に変えられていく生涯に入っていくことが出来るのです。この世のものや考え方を見るのではなく、私達を変えて下さるために来てくれたイエス様。私達のために命まで捨てて下さった。こんな友達がいますか。イエス様はあなたのために命さえも捨てて下さった。その方にもっと信頼してもいいのではないでしょうか。その時に私達は力を得て新しくされ、キリストの似姿に近づいてくお互いにされていきたいと思います。