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「クリスマスの恵みは誰に」

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2004年12月19日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ2章1節〜20節より
牧師 吉田耕三

神が私達を造り変えてくださる

今日はクリスマス礼拝となりました。この喜びを分かち合いたいと思います。クリスマスおめでとうございます。「おめでとう」と言うけれども「何がおめでたいのか」と感じている方もおられるかもしれません。これは今から約2千年前の出来事であるのに、何故今も祝うのか。それは21世紀に生きる私達1人、1人に希望と喜びを分かち、その中に生きる者とならせて頂くためです。聖書の中には多くの素晴らしい約束の言葉があります。例えば、

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41章10節)

「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」(詩篇121篇8節)

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10章13節)

聖書は私達が苦しみに会わないとは言ってはいません。でもそこから脱出させて下さる力を与えて下さると言っています。これら全ての事柄はこのクリスマスに由来します。もし神の独り子がこの世に降ったという事実、そのお方が十字架にかかって下さらなければそういったことは何一つ実現されなかった。このことを受けとめる時に人が変わっていく。これが聖書の語るメッセージです。実際に現代にいたるまで多くの人がこのことを体験います。

1人の女性がおりました。彼女の父親は小学校4年生の時に交通事故で亡くなった。お母さんは再婚もせず3人の子供のために一生懸命に働くのですが楽にはならない。そのことを知っていますから子供として親に言うことは出来ない。学校に支払わなければならないものがあっても言い出すことが出来ない。あるいはいじめられていることを言えば母親が苦しむのは分かっている。だから黙っているしかない。彼女が中学を卒業した辺りから耐えられなくなり家を出てたまり場に出入りするようになった。母親のいない時に金をかき集めて遊びに使うような生活になった。彼女が自分で言っている言葉ですが、

『小学生の時、父が亡くなってからは内心は臆病で気の弱い私は冷たい目で見下す世間に負けまいとするあまり、群れを組んで生きるしかなかった。口の暴力と腕力で人を食い荒らし、負けたことのないのを自慢し、獣同然に征服してのしあがった。子供が生まれてからは母や兄や弟を利用するだけ利用し裏切り、子供達の心を傷つけてきた。そんな私にイエス様は語りかけてこられました。「人間はそんなことでは勝てないよ。愛をもってわたしと共に生きなければ本当の勝利は得られないのだ。」はっと胸をつかれました。どういう言い訳をしようとも、この35年間私は人を苦しめ自分勝手に生きてきたにすぎませんでした。「イエス様。ごめんなさい。十字架にかかるのはあなたではない。私なのです。この私を十字架にかけて下さい。」天をつき抜けるような叫び声で罪をお詫びし3日3晩泣き明かしました。すると体の下の方から熱いものがこみ上げて来て一気に天に上って行き、心の中がぱかっと真空状態になりました。そして1度も味わったことのなかった完全な平安がやってきたのです。どこからか、のどかな小鳥のさえずりも聞こえてきそうなほどでした。「あらっ。私どうなってしまったのだろう。」牧師は「神様に罪赦され、聖霊に満たされたからですよ。」と教えて下さいました。こうしてイエス様は今も生きて働いておられることをはっきりと体験させて頂き、35歳を境にきっぱりと古い自分に死んで新しい第1歩を踏み出しました。』

自分で自分をどうすることも出来ないのが私達ではないでしょうか。頑張って頑張って歩むことは出来るかもしれない。最初は純粋に真面目に生きていこうとしていても、社会の荒波にのまれていく時に「そんなきれいごとは言っていられない。打ち勝っていかなければだめなんだ。」といつの間にか自分もどろどろになっていく。

社会を変えなければと使命に燃えたある1人の方がいました。自分こそ社会を変革する土台になるのだと一生懸命に生きたのです。しかし10数年後彼は地下組織に入り表に現われない世界に生きるようになっていた。彼の兄はクリスチャンとなっており、何とか弟にこの希望を持って欲しいと福音を伝えようとしても、どうやって連絡をすればいいのか分からない。しかし不思議なことにお兄さんがアメリカ留学から帰国した時に彼が港に迎えに来ていた。弟に「私と一緒に教会に行ってくれないか。」と言うと、「No」と言うと思っていたのに「うん。お兄さん僕一緒に行くよ。」と答えた。2人で教会に行くと「イエス様が十字架にかかり私達のために死んで下さった。そしてよみがえって下さいました。この方を信じるならその人は新しく生まれることが出来る」という単純なメッセージでした。彼は頭も非常に優れた人物でしたので、もう少し知的なメッセージをしてくれないかとお兄さんは思ったそうです。

次の週に「もうだめだろうな」と思いながら誘うと「うん」とついてくる。今週は別の先生が来ていると思ったら先週と同じ先生で同様に単純なメッセージをした。その集会の最後に「皆さんの中でこのイエス・キリストを信じる方がいますか。」と聞くと彼が手を挙げイエス様を信じると言った。帰り道に「お前どうして信じたんだ」と聞くと「兄さん。僕はイデオロギーが社会を変えるし、人を変えると信じて本当にやってきた。頑張ってきた。でも実体を知る時にそうではない。段々汚れていって段々と言っていることとやっていることが全然違ってきて、そのことを非難していた自分がいつの間にか同じことをする自分になってしまっていた。兄さん、イデオロギーは人を変えられなかったんだ」と答えた。既に引退されていますが、後にイエス様を伝える人にまで変わったのです。

イエス・キリストの福音は昔も今も変わらない。2千年前も現在も人を変えることが出来る力を持っているのです。私達はここにその秘訣を見てみたいと思います。

神の御言葉を心に刻む

羊飼い達がどのように神様を信じるようになっていったのか。パレスチナ地方では生活のために羊を飼いますが、決して楽な仕事ではありません。大半の時間は羊達と共に寝起きをする。寒くても熱くても、夏の日に日影に隠れたいと思っても出来ません。そして1匹の羊のために谷底まで追っていく。ある時にはライオンや熊とも素手で戦う。過酷な仕事です。そんな何気ない日々の生活の中に、ある日突然とんでもない出来事が起きた。真っ暗闇の中、羊の番をしながら見張りをしていると天が明るくなったと思ったら天使が来て、

「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(10〜12節)

彼らは最初は何を言っているのか分からなかったかもしれません。どうやらダビデの町(ベツレヘム)で何か特別なことが起きた。キリストと呼ばれている救い主が生まれたらしいことは彼らにも分かったでしょう。そればかりではなく

「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(13〜14節)

御使い達の天空に響く心を動かす賛美を聞いた後で彼らは再び静かな静寂を見た。その時彼らは「今のは一体何であったのか。」「夢か幻か思い過ごしか。それにしてはあまりにも強烈すぎる。」と考えたでしょうね。そしてとにかく見てこようと思ったようです。

「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」(15〜16節)

ベツレヘムに向って行くと、言われた通りに家畜小屋の飼葉桶に生まれたばかりの赤ちゃんが寝かされている。これは聞いた言葉の通りであった。

「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(17〜20節)

皆さんがこんな出来事にあったらどう感じるでしょうか。ここに3つの反応をしめした人達がいます。第1は羊飼い達です。御使いが突然現われて驚いた。そして聞いただけではおられずベツレヘムの町に1歩足を踏み出しました。そして聞いた通りのことがそこにあった。彼らは「これは本物だ。」と素直に心から信じたと思います。そしてこのことは彼らの人生の中で忘れられないものとなったでしょう。神の御子が来た。救い主が来た。人間には希望がある、命があることを彼らはいつも心のどこかに覚えて歩むことが出来たと思うのです。

第2に生まれたばかりのキリストに出会った人々。そこにはきっと多くの人がいたと思うのです。『それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。』とあります。びっくりすることは沢山あります。信じられないことが多くあります。でも多くの人は聞いても「本当かな?」とそこで終わってしまい、それ以上は調べなかった。彼らにとっては通りすぎた出来事でしかなかった。第3にマリヤ。『しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。』彼女自身が不思議な経験の中で子供が生まれると聞いていましたから、受け取りやすかったかもしれませんが、そのことを思いめぐらしていたと記されています。

私達はこういった出来事や聖書の言葉を聞く時に、どういう反応をするかにより全く違う経験、全く違う思いになるのです。私が聖書に初めて触れたのは高校生でした。「聖書は世界のベストセラー」と言われていますから「ちょっと知らなければならないかな」と思って買ってきた。最初に開けたのは5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人が食事をしたという話でした。「何という馬鹿馬鹿しい話なんだ。こんなのを本気になってクリスチャン達は読んでいるのか。」と思いました。それで「前から読んでみよう」と開けると今度は「神は天と地を造られた」と書かれている。ますます愚かしと思い、それきり閉じてしまいました。馬鹿馬鹿しいと思った私には何の影響も与えない書物でした。

しかし大学で英会話のクラブに入りました。宣教師が無料で英語を教えて下さるのですが、半分はフリートーキング、もう半分はバイブルスタディとして聖書の勉強をするという条件でした。私は「神なんかいない」と確信していましたから、宣教師にいろいろと食ってかかるのです。正直、議論としては私の方が勝っていたと思います。でも不思議なもので議論としては勝っているにも関わらず、聖書の言葉が少しずつ心に残っていくのです。私にとって一番大きかったのは「生まれ変われる」ということでした。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5章17節)

本当なら生まれ変わりたいと思いました。強がりは言っていても私は劣等感の固まりでした。いつも死ぬことを考えていました。世界中で一番自分が嫌いでした。本当に生まれ変わるということがあるのだったらそうなりたいと思いました。ついにある集会の中で「本当に神様がいるならばそのように造り変えて下さい。」と祈ってしまった。私は父親が大嫌いで見るのも嫌でした。その父親のことを「もし本当に神がいるのならば、その気持ちを変えて下さい」と祈りました。すると心の中の氷がとけていくような感覚があっただけではなく、実際に父を見た時にその思いがなくなっていた。そこで本当に深く信じていったのかといいますと、いろいろなことがありました。ある時には「変わると言ったのに、全然変わってない」と思ったこともありました。でも信じてから30数年。嫌いでならなかった自分ですが、ドジを踏んだり、愚かなことばかりする、失敗ばかりする、それは今も変わらないのですが嫌いじゃないのです。劣等感の固まりであったのが、ひとつひとつ確かに神様は変えて下さった。神の言葉は本当に私達を造り変える。

クリスマスは神が私達にそんな恵みを注ぐために与えて下さったのです。神様は私達の中の様々な問題、心の傷の問題、あるいはマイナスイメージ1つ1つを取り除いて下さり、私達を根底から造り変えて下さるお方なのです。そうするためにクリスマスの夜に飼葉桶に寝かされた。飼葉桶は赤ちゃんを置く所としては最悪の場所ではないですか。それはイエス・キリストは汚れや醜さ、そういったものを全部背負うために来て下さった、そういったものを解決するために来て下さったということなのです。だれも信頼出来る人がいない孤独で寂しい私達に「わたしはあなたを救うために来たんだよ。」自分でもどうしようもないと思っていた人達のために神様ご自身が御声をかけて下さったのです。

クワイ川収容所の話を聞いたことがありますか。アーネスト・ゴードンはその収容所にいた人物です。最初の内は読み続けるのが嫌になるほど、日本軍の捕虜に対する酷い仕打ちが書かれています。途中からがらっと話が変わるのです。たった1冊だけ聖書が彼らの手に入った。その聖書を読むようになった時から彼らの雰囲気が変わり始めた。わずかな食事しか与えられない捕虜達。それでも強制労働に駆り出されます。そのわずかな食事を隣の人にあげてしまう。そしてあげた人は餓死していくのです。またある時シャベルが見つからなくなった。そのため1部隊全員が殺されそうになった時に「私です」と言って彼は殺されました。しかし後で分かったことのはシャベルはそこにあったのです。彼が皆が殺される代りに自分が身代わりになれば全員が助かると思い、自分を犠牲にした。

日本兵が彼らに酷い仕打ちしている訳ですが、日本兵も失敗をすれば、上官から処罰があります。彼らは失敗した日本兵のために、自分達の貴重な水をこっそりと与えて救おうとした。地獄絵のような状況の中でこのようなことが行なわれた。敗戦後日本軍が帰る時も、この地域からは復讐や反撃は全然出なかったそうです。

私達がどんな中にあったとしても神様は私達を変えることが出来るのです。どんなに汚れた醜い者であったとしても、自分で自分を諦めたくなるようなものであったとしても、神はそんな私達に触れることが出来るし、変えることが出来る。そのために来て下さったのがクリスマスなのです。私達はこの方にどう対応するのか。聞き流すのか。感動するだけか。驚くだけか。それとも本当にこの方を心の真中にお迎えするか。それはその人その人によるわけです。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)

『わたし』とはイエス様のことです。『戸の外』とは私達の心を表します。私達の心は外から叩くことしか出来ないのです。心の扉には外から入る取っ手はないのです。開けるかどうかはその人自身が決めることです。どんなに大声で呼ぼうが、脅迫しようがその人が「開けない」と決めていれば絶対に開かないのです。でも心を開けるならイエス様は私達と共に食事をされます。私達が心を開きさえするならば、イエス様は私達の所に来て下さる。そして私達は新しくされていくことが出来ると言ってくださっているのです。

神様は今の時代でも生きておられ、どんな状況の中でも私達を変えることが出来る。それにはその方を心の王座にお迎えして、信頼して共に歩む決心をする。どんなことがあっても神様は「あなたから離れない。」と言って下さる。試練に会わないとは言っていませんが、耐えられない試練に会わせることはないし、そこから脱出する勇気や力を与えて下さるとも約束して下さっている。あなたに必要なのは羊飼い達のように心を素直にして受けとめること。出来ればマリヤのようにそれを思いめぐらしこの方に生涯を委ねて歩んでいけばいいのだと心が整えられていく時に、私達の中に神様が生きておられる。また神様が私を造り変えて下さったという恵みを味わっていくことが出来ると思います。クリスマスはだれにでも提供されています。私は聞いても以前はそれを拒絶していました。その時には何の力もありませんでした。でもその言葉を少しづつ聞き始めた時に、

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(第1コリント1章18節)

この言葉通りに、聖書の言葉が力となり、喜びとなり、希望となり、変えられていくことを味じ会わせて頂きました。神様はあなたにもその恵みを提供してくださっています。このクリスマスに心を開いてこの方を受け入れて頂きたい。クリスマスのメッセージを心の真中にお迎えして頂きたいと心から願ってやみません。

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