2005年1月9日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ6章16節〜21節より
牧師 吉田耕三
私達は時間が過ぎるのを止めることは出来ません。今年も約10日が過ぎようとしています。時間はあっという間に過ぎ去ってしまうものだなと思います。今年度、私達は神様をもっと知り、愛する者になっていけたらと思います。
不信仰な私達の姿
そういう訳でイエス様の姿を学んでいますが、前回は5千人の給食、しかし恐らくは2万人以上の人がたった5つのパンと2匹の魚で満腹したという話。この記事だけが4福音書に載っている。これがイエス様の力を現わすキーワードではないかと思います。目の前で5つのパンと2匹の魚が無限に増え、実際に彼らは食べたのです。そのことにおいて彼らはこのお方が本当にすごい方であることを目の当たりにしたのです。皆さんもこういう出来事を経験したら信仰もすくすくと成長していくのにと思いませんか。私もそう思っていましたが、現実にはそうではないのです。実は今日お話することがマルコ福音書にも書かれています。
「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。」(マルコ6章52節)
「彼ら」とは弟子達のことです。後の日にイエス様を伝えた弟子達の何と頑なな固い心。「弟子達でさえこうならば私でも大丈夫かな。希望が持てるな。」と少し安心しませんか。弟子達もイエス様をなかなか理解出来なかった。しかし後の日にははっきりとイエス様を知っていくことが出来たのです。
5つのパンの出来事はユダヤ人達に、あることを彷彿させると思います。モーセがイスラエル民族を率いてエジプトから脱出して来た時に、特別な食物”マナ”を食べたのです。彼らは40年間荒野をさまよっていましたので、食べ物はありません。でも朝起きるとその”マナ”が露のように地面に落ちていて、煮たり焼いたりして食べていた。神様のパンを頂いたという経験。そして今イエス様によって奇蹟のパンを実際に食べた。神様がモーセに与えた預言が申命記に書かれています。
「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」(申命記18章18節)
この『預言者』が”キリスト”である。キリストとはモーセのような預言者。先祖にマナを食べさせられたように、今こうしてイエス様によってこのパンを食べている。この方こそキリストなのだと彼らは喜びました。そして彼らはイエス様を自分達の王として持ち上げようとしたのです。しかしイエス様は「1人1人の心の内にキリストの国を作り、救いをもたらしていく。」という自分の思いとは違うのでそれを断わる。ユダヤ人達が考えたのは『ダビデやソロモンの時代のように自分達の国を世界の冠とする国に導いてくれるのが”キリスト”である。やっとローマの圧制に打ち勝てる』と思ったわけです。恐らく群集が「王様だ」と浮き足立って留めようとしたのでしょう。イエス様は弟子達を舟に乗り込ませたのが今日の個所です。
「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。」(マルコ6章45節)
「夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。」(16〜19節)
彼らが舟に乗ったのは夕方です。同じことがマタイ14章、マルコ6章にも書かれています。それを見ますと午前3時から6時の時間になってもまだ湖の真中にいるのです。順調に行けば2、3時間で向う岸に行ける距離です。それを10時間以上も強風と波風の中にほんろうされている。強風と波風ですから月も星も出ていない暗闇ではなかったかと思います。その時段々と近づいてい来る人影が見える。それがイエス様の幽霊だと思ったのです。こんなところに来るはずがないと、それで怖くなったのです。
「しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」(20節)
『わたしだ。』これはギリシャ語で「エゴーエイミー」と言います。元々の意味は「あってあるもの」「わたしだ。あってあるものだ。全能の神だ。大いなるわたしだよ。だから恐れてはならない。」と言った訳です。この言葉を聞いた時に彼らは
「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」(21節)
喜んでイエス様を迎えたら進まなかった舟があっという間に岸に着いていた。
私達がここから学ぶのは「神様の御心にかなう歩みをしていても苦しみの中に置かれることがある」ということです。彼らはイエス様によって強いて舟に乗りこまされたことが書かれています。そこに行ったことは間違いなく神様の御心です。私達は神様と共に行くのであれば何もかもスムーズにいって、何もかもが祝福されて素晴らしいことがあると思いませんか。ところが実は反対であった。彼らは2、3時間の距離を10時間以上ずっと波に悩まされ、俺達は一体どうなるんだと苦しいところを歩んだのです。私達は「神様を信じているのだから苦しみや悲しみはないだろう。」と思ってしまいがちですが、そんなことはありませんね。その中で「なぜなのだろうか」と考えることが大切です。
もちろん神様に背いているために災いに遭うこともあります。旧約聖書のヨナは明らかに神様に背いていたために、彼の乗った舟が大嵐にほんろうされた。彼が悔い改めて、海に投げ込まれた時に嵐が静まったと記されています。ですから苦しみに出会った時に「何か悔い改めなければならないことがあるのでしたら教えて下さい。」と神様に聞くことは大切です。そして気付いたなら「私はそういう悪い心を持ちました。悪いことを考えたり言ったりやったりしました。赦して下さい。」と悔い改める。イエス様の十字架によりいつでも赦されることを忘れないで下さい。神様は私達を責めるために悔い改めを迫るのではありません。そのことを赦し、聖めるために告白させようとしているのです。しかし悔い改めても解決しないことがあります。その時には「神様が何かを教えようとされている」と気付いて頂きたい。もし皆さんが長い苦しみの中に置かれているならば、こういう記事で慰めを得て頂きたいと思います。弟子達も2時間、3時間、4時間、5時間経っても解決しない。俺達は助かるのかと絶望的な気持ちが出て来たと思います。
「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」(箴言13章12節)
期待していることがなかなか成就しないと嫌になって心が病んでしまう。
神の御心に沿った歩みをしている時でも、神様に従っている時でも苦しみに会うことはあるのだと知っておいて頂きたい。ではどうしてそれが起こったのでしょう。イエス様は彼らに1つのことを教えておきたかったように思います。ここには「イエス様を見て恐れた」と書いてあります。普通ならイエス様を見たなら喜ぶのではないですか。どうして恐れたのですか。彼らはイエス様がまさかここに来るとは思わなかったのです。水の上を歩いてくるとは思いませんからね。それで幽霊だと思ったわけです。イエス様にはどんなことでも出来るという信仰が消えてしまっていた。5つのパンと2匹の魚で2万人以上の人が満たされたことを自分達自身も経験していた。でもこの嵐の中で、そこでも何かが出来るはずのイエス様を見ることが出来ない、受けとめることが出来ない。
私達も同様に、あることにおいて神様のすごい力を体験したからといって、次の時もまた神様を信じるられるかというと、信じられないことが結構ある。弟子達は目の前ですごい奇蹟を見たのですが、嵐の中で湖の上を歩くことが出来るイエス様を信じることが出来なかった。不信仰は私達の中から信仰の力を削ぎます。変な言い方ですが、どんなに深い大きな罪でも信仰があれば赦されますし解放されます。「イエス様の十字架が赦し、聖めて下さる。」と信じるならば本当にそうなり、心に平安が与えられて喜びも出てきます。でも小さな罪や小さな問題でも「いくら神様でも」と神様を除外していたら何の力にもなりません。私達が神の力を体験出来るかどうかは神様に対する信仰にかかっています。
不信仰の中にイエス様を迎え入れる
「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)
信じる1人1人によってその受ける量や力は違ってくるのです。私達が信じる時に神の力はどんどんその人の内に新しくされていくのです。ところが弟子達は恐れてしまう状態であったわけです。そういう弟子達にイエス様は「エゴーエイミー」と言ったのです。「わたしはあってあるものだ。」重い言葉として、大きな言葉として彼らの耳に届いたでしょう。「そうだ。イエス様は全能の神様だったのだ。どんなことでも出来るお方であったのだ。」と再び信仰が芽生え始めたのです。そうした時に彼らはイエス様を喜んで舟に迎えました。私達が本当に喜びのクリスチャン生涯を歩む秘訣はこの信仰に歩むことです。不信仰をいつも払拭して「どうせ」とか「だって」とか「だめに決まっている」ではなく「主には出来る」という信仰を持つ。
「イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18章27節)
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4章13節)
私達はこの御言葉に立っていきたいと思います。その時に私達は神様が本当に生きておられると証しすることが出来ると思います。そうなるためにどうしたらいいのでしょうか。彼らはイエス様を舟に迎えたでしょう。ならば私達も心に迎える。もっと言うならば問題の只中に迎えるということです。私達にもこの問題、あの問題と様々な人生の嵐が吹き荒れていないでしょうか。そして弟子達のようにイエス様とは関係なく自分の力で一生懸命に頑張ってきたわけです。それでイエス様が来た時に否定してしまうばかりか怖がってしまう。私達の心が不信仰になっている時にイエス様が近づいていても私達は喜ぶのではなくかえって怖がってしまうこともあるのです。でも知って下さい。イエス様は弟子達に語って下さっているように私達にも「エゴーエイミー。わたしだ恐れることはない。」と語って下さっています。イエス様は天に帰られて私達に御霊を送って下さいました。御霊はイエス様と同じ力を持ったお方です。私達が心を開きさえするならば「エゴーエイミー」と言って下さる方がすぐ傍らにいることに気付くのです。このことに気付かないと私達は相変わらず苦しみや困難の中で落ち込んだりしてしまう。この問題の中で、あの問題の中で「無理だ。出来ない」という思いが優先してしまい、神様に迎い入れようとしないで、神様にまで蓋をしてしまう。神様の力が出せないようにしてしまう。不信仰は本当に恐ろしいですね。必要なのは問題の只中に、劣等感の中に、不安の中に、悲しみの中に私達が持てる全ての問題の只中にこのお方をお迎えすることです。その時に私達の中に不思議な平安が、かえって喜びさえもが出てくるのです。
ある事業家が厳しい状況下でとうとう不渡りを出してしまった。彼は聖書の言葉を聞いていた人物でした。その頃彼は新聞で「一家心中」の文字を見る度に明日は我が身かと思っていたそうです。そんな中『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第1コリント10章13節)』の御言葉に出会った時に、彼の内に不思議に力と希望が出て来て色々なことを思いついて、状態は変わっていないのに心が穏やかになり、冷静な力が出て来た。そして会社も建て直すことが出来た。
以前この教会にも来て下さいました元カネボウに勤めておられた三谷氏は会計をやっていたのに、営業責任者を任された。彼は神様の前に静まっていく中で、一つの御言葉『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。(イザヤ41章10節)』が浮かんできた時に、力が出て来たそうです。彼の前任者は親分肌で皆をまとめていくタイプ。しかし彼はどちらかと言いますと小心者で臆病でなかなか人にも言えなくておどおどしているタイプ。でもその御言葉が来た時に、元気になって前任者が立てていた5倍の売上をあげることが出来た。
私達が心を開いて本当に神を迎え入れるかどうかが大切です。ほどなく弟子達は目的の地に着いたのです。これによって分かるのは不信仰な姿と共にイエス様を迎え入れることが大切なのだと実地体験をもって彼らに教えられたのだと思います。色々な出来事は無意味にあるのではありません。そのことを通して神様は何かを教えようとされている。私達は困難や苦しみの只中でイエス様をそこにお迎えすることが大切ではないかと思います。
私が初めて仙台に来た時のことです。少しバランスの調子が悪かったせいもあるのですが、高速道路を運転していて風にハンドルを取られて1、2メートルほど横に流されてしまったのです。大きなトラックが横を走るとまた横にずれる。横にずれる度に怖くて怖くて。やっと仙台に近づいて来た時に思い浮かんだのがこの弟子達の姿でした。「そうだ。彼らはイエス様をお迎えした時に岸に着いたのに、私はこの中にイエス様をお迎えしていなかった。自動車と共にイエス様が歩んで下さる。」と思いました。そこで運転しながら「イエス様。あなたが本当にここにいたことを忘れていました。今あなたをお迎えします。今私と共にこの車を運転して下さることを感謝します。」と祈ったら、横に流されるのも神様と共に流されるのですから大丈夫と思い、気分が急に変わりました。自分で何とかしなくてはと思うとハンドルを自分で戻そうとするのです。緊張して。するといよいよ車は不安定になるのです。イエス様が一緒だと思うと流れても元に戻れる。
私達は色々な問題の中にイエス様をお迎えする。皆さんの嵐が何であるのか分かりません。その嵐の只中でイエス様は「エゴーエイミー。わたしだ。恐れることはない。」と言って下さることを覚えたいのです。「イエス様は神様である。神様が私達の中にいて下さる。」この確信が私達に平安をもたらすのです。「いくらイエス様でも無理だ。」という不信仰な思いを捨てて、問題が大きくて小さくてもその中にイエス様をお迎えしていきたいと思います。色々な問題や悲しみを「もう仕方がない」と神様に委ねた時に全ての問題が解決していくことが結構あるのではないかと思います。神様はそのように神様に信頼していくことを待っておられます。最後に詩篇91編を読んで終わりにしたいと思います。
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。」(詩篇91章1〜8節)
主に信頼する者を主は守られる。この後に、試みの時にイエス様が守ってくださるという言葉が続くのです。イエス様は本当に守ってくださるという信頼を共に持っていきたいと思います。イエス様は命さえ賭けてくださいました。父なる神様は1人子さえ私達に与えて下さいました。この神様が私達に良きものをどうして与えて下さらないことがありましょうか。この方にもっと信頼して、問題の只中にお迎えしていきたいと思います。