2005年1月16日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ6章22節〜29節より
牧師 吉田耕三
「2006年問題」をご存知でしょうか。団塊世代と言われる世代が定年となる年です。これから670万人の退職者が出てくると言われています。最近東京で面白いセミナーが行われました。田口さんという方なのですが「企業戦士よ。定年後に戦死するなかれ」というテーマのセミナーです。彼自身が定年後、生活が変わり非常に寂しい感じを持ったようです。世の奥さん方が話しているのは、
「主人が3食一緒に食事をするなんて嫌よね。」「私達にも定年が欲しい。」「昼頃に起きてくるとイライラするのよね。」こんな会話であった。
田口さんもごろごろとしていたら、奥さんがイライラしたのでしょうか。蹴られて本当に肋骨を折ってしまった。そんな出来事があって、少しずつ「どうしようか」と考えていく中で、教会に足を運び、特に『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。マタイ16章26節』この御言葉から神様のところに来るようになって、段々と心が開かれ「自分は生かされてきたのだ」ということが分かり、ボランティア活動などもするようになった。
ある日老人ホームに行った時、1人の大きな会社の創業者がいた。その方は定年してすぐに認知症状態になり、毎朝起きると「これから社員に訓示を垂れなければならない。」とパジャマの上に燕尾服を着せてもらっている姿を見て「この世で成功したという人が、定年後にもきちんとした備えがないならば、それは成功したとは言えない。」と思うようになった。それで先程のテーマでセミナーを開いて自分の生涯の働きにしていこうと思ったようです。
今日はイエス様の言葉の中に、私達が一体どういうことを土台にして、念頭にして生きているのかをチャレンジされるような言葉が記されているように思います。私達もともすると本筋のことではないことに目を白黒させて歩む中で、本当に肝心なことを見失ってしまうことがあるのではないかと思います。
悔い改めて神様の元に行ったはずが
前回は弟子達が嵐の中で舟に乗っていくイエス様が湖の上を歩いて来られた時に、幽霊だと恐れた。その時に「わたしだ。恐れることはない。」というイエス様の言葉を聞くことが出来たのを見たわけです。私達もそういう風にイエス様を信頼していきたいと思います。さて、5千人の人達が食事をしたその地では、この出来事が起きたのを彼らは覚えていました。湖には舟が1隻しかなくて、それに弟子達を乗り込ませた。けれどもイエス様は残って山に行って祈られていた。舟は1隻しかなかったのだから、ここにいるばずだと探してもイエス様はどこにもいない。その時にテベリヤから舟がやってきたので、もしかしたらカペナウムに行ったのかもしれないと思ってそこに向った。カペナウムに着いてみると、イエス様がいたのです。
「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」(22〜25節)
私なら「どうやってここに来たのですか。」と聞いてしまうかもしれません。舟は1隻しかなかったのですから。
「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(26節)
ところがイエス様の答えは「あなた方はわたしを一生懸命になって探しているけれども、しるしを見て『この方こそキリストだ。』と思って従っているのではなくて、単に満腹したからでしょう。」というのです。簡単に言えば「この人について行けば食いはぐれることはない」と思うからついて来ているのでしょうと言われるのです。「あなた方の心の奥をよく考えてご覧なさい。」ということです。もしかするとそういうことが言えるかもしれない。イエス様は時々辛らつな言葉を言います。その時に「そんなのおかしい。」とか「いやだ」と直ぐに否定してしまうのではなくて「これはどういう意味で言っているのかな」と探ってみる心の余裕を持ちたいものです。よく考えてみますと、確かに私達の心の中にあることかもしれない。私達は神様を認めて、悔い改めてイエス様に従う決断をして歩んできたわけです。悔い改めは”方向転換”と言われますが、気をつけないともう180度回って、また元に戻ってしまうということがある。神中心の生き方を始めたはずが、いつの間にか元に戻って自己中心に返ってしまうことがないかを問われてみる必要があるのはないでしょうか。
確かに聖書には素敵な優しい言葉が沢山あります。『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。マタイ7章7節』『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ11章28節』とか。そういう言葉に惹かれて、導かれて神様を求めるようになって、神様を少しづつ分かってくる時に「私はこの神様を全く否定した生き方をしてきたのだ。ここが問題であったのだ。何故自分がこんなに空しいのか。何故自分がこんなに寂しい生き方しか出来ないのか。それはこの神様を無視していることが問題なのだ。このことを知って悔い改めて、これからは自己中心ではなくて神中心に生きる。」と決めたはずなのに、いつの間にか元に戻っていることはないかと問われてみる必要があるのではないかと思います。そう考えると私達も色々なことを言ったり、やったりしていますが、どれだけの部分を神の栄光のために生きているでしょうか。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第1コリント10章31節)
美味しい物を食べるのもよいでしょう。素敵な服を着るのもいいでしょう。神の栄光のためにそれをするならば良いことなのですが、そうでないならば、それは結局自分の腹を満たすためでしょう。要するに自己中心のため。「それは違っています。」と言って下さっているのです。私達は仕事をするにも、家事をするにも、神の栄光を求めてこそ、本当に意味があるわけです。私達は神の栄光のために造られているのです。ですからそのことをずらしてしまうならば、何の役にも立たないのです。
小さい頃にぜんまいのおもちゃで遊んでいまして、1つの歯車が廻ると全体が動くのをとてもいい感触で見ていました。でもそれがずれて1つだけで動いていても、周りとかみ合わないと意味がない。でも元々作った意味にのっとって廻り始めると、自分自身が小さくてもそれにより全体が動いていきます。私達が本当に神の栄光のために生きるようになる時に、自分だけでなく周りの中にも神様の祝福やご支配が注がれていくのです。ところがその歯車としての自分の役割をやめて、自分勝手に生きますと周りに何の影響も与えない。あなたの生き方はどうですか。自分の幸せのためにだけ生きていませんかと問い掛けてくるのではないかと思います。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(27節)
人々はイエス様について行けば食いはぐれることはないと感じてイエス様を求めたかもしれませんが、イエス様からもらうことが出来るのは、永遠の命にいたる命です。心の中の空しさから解放されて、本当に意味ある生き方が出来る。その土台をしっかりとこの主に学んでいく必要があると思います。それではこの永遠の命に至る食物とはどんな生き方なのでしょう。
永遠の命にいたる食物
ヨハネの4章でサマリヤの女との話の中で、弟子達はサマリヤの町に食物を買いに行ったと書かれています。そして彼らが帰って来てこういったのが書かれています。
「そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください。」とお願いした。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4章31節)
「自己中心に自分の願い事を叶えていくことが幸せではなく、私を遣わした神の御心を行い、成し遂げていくことが永遠にいたる本当の祝福なのだ。」とイエス様は語って下さっているのです。自己中心の生き方に舞い戻ってしまうのですが、神の栄光のために生きる者となっていくことが大切なのですと教えて下さっているのではないかと思います。
父なる神様は様々なことによってこの方こそキリストであると認証されましたし、それが多くのしるしであるということが出来ると思います。このように言われた時に人々は何と言ったでしょうか。
「すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(28〜29節)
イエス様が父の御心を行うことが永遠の命にいたる食物なのだと言いましたから、ではその御心を行うとは具体的に何をすればいいのかと聞く訳です。イエス様の答えは「あれをすること。これをすること」ではなく「信じることである」と答えます。ここに行いと信仰の典型的なメッセージがあると思います。私達はどうやったら神様に受け入れられ、どうやったら喜ばれ、どうやったら神様の恵みを受けることが出来るかと考えてしまいます。しかしあなた方に一番必要なことは「神様を信じること」。愛の世界においては信じること、信頼することに勝ることはないということです。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11章6節)
私達はイエス様によって全ての罪が赦され、今神の子供とされ、神の恵みを受けることができるようになった。私達に必要なことは神様を信頼していくこと、あるいは委ねていくこと。信じるという言葉にはイエス様の中に私達の身を投げ込んでいく、委ねていく、そういうような意味なのです。
ある種の大きな蓮の葉の上には人が乗れるようですね。そう言われて乗れますか。沈むのではないかと乗りきれないと思うのですが。私達も同様に、「イエス様に乗っても大丈夫かな。」と片足だけ乗せている感じになっていることが多いかと思うのです。全面的に両足をちゃんと置いてイエス様に自らを投げ込み続けていく、委ね続けていくことが大事だというのです。神様に信頼し続ける、神様に委ね続ける。そこに神の業が起こるし、またそれが出来ること自体が神の業ですということなのです。色々な出来事に対して「聖書の御言葉で神様はこう言っているのだからそこに信頼しよう。」でも私達はそこに信頼し続けることが出来なくなってしまうことがありますね。
私はこういう風に思い浮かびます。鉄棒にぶら下がる状態。イエス様を掴んだ。掴んでいると段々と疲れてきますね。そして疲れて手が離れてしまう。「ああ、落ちてしまう。もうだめだ。」と落ちていくかと思ったら、少し位落ちたかもしれませんが、そこで留まっている。ある意味、手を離したその時から本物の信仰が始るといっても良いかもしれません。自分で掴みきれなくなった時に、神様の手の中にあったのだと初めて気付かされていく。このことを味わっていくことが私達の信仰の歩みということが出来ると思います。でも私達はいつも新たに新たにこの方に委ねること。これが大切です。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(第1コリント6章19〜20節)
私達は本来罪の奴隷であったのですが、十字架という代価を払ってキリストは私達を買いとって下さったのです。それならば私達は誰のものですか。もう私達のものではなく、買いとって下さった方のものである。だから私達は自分のために生きることは本筋ではないのです。それに気付いて「この人生、私自身をあなたにお返しします。どうぞ自由にして下さい。用いて下さい。あなたの栄光のために用いて下さい。」と神様にお返ししていくのが私達の本筋です。私のこれからの生涯、何もかもをあなたに捧げます。全てのことをあなたのため、あなたの栄光のためにとこれが私達の本来の生きる生き方なのです。その時にこそあなた方は永遠の食物を求めたことになるのです。私達はイエス様の指摘の中で2つのことをはっきりとさせておきたいと思います。
第1に私達は悔い改めて神のために生きるようになっていた自分の生涯が再び自己中心に陥ってはいなかったか。方向性がずれていなかったか。クリスチャンになったのに、力がない、元気が出ない。それは何か方向性がずれてしまっているからではないでしょうか。神のために生きる人生がいつの間にか自分の腹を満たす人生になってしまっている。美味しいものを食べるのも、きれいな服を着るのもよいでしょう。でも何のために?神様の栄光のためにそのことをするべきだったとここに返ってくるべきですね。食べるにも、飲むにも、何をするにも神の栄光を現わすためにする。この時に私達の中から空しさが消えていくのです。小さなことをするにも、これで神様に喜んでもらえる。本当にそれが喜びなのです。私達の生き方が再び自己中心に舞い戻っていなかったかを考えてみましょう。
第2には、永遠のいのちにいたるために働く。要するに神様のために働く。それは具体的にいうと、神が遣わした方を信じること、信頼すること。神様に信頼する時に、その道が真っ直ぐにされる。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章5〜6節)
私達はあらゆる所に主を認める。主は守って下さる。主は最善をして下さる。どんな中にあっても神様は確かに悪いことをなさらない。そういう主に対する信頼。ヘブル書を読みましたが『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。ヘブル11章6節』この神様を信じる。神は必ず脱出の道を備えて下さる。神は必ず守って下さる。だから私は大丈夫だといつでも神様の御手の中、イエス様の守りの中にそこにお捧げしていく。今までは「イエス様、こちらがいいと思いますから、こちらに来てください。」「あちらもいいと思いますからあちらに行きましょう。」と自分の道にイエス様を導く人生でありましたけれどもそうではなく、「あなたにお従いします。あなたに私の人生をお捧げします。あなたがそこで私を必ず祝福し、必ず守って下さることを信じます。感謝します。」と神様を信じていく。これが神様の業ですと言っているのです。
ベサニー・ハミルトンはハワイのトップサーファーです。彼女がサーフィンをしている時に、鮫に片手を食べられてしまった。サーフィンは両手でバランスをとって波にのります。片手がなければ無理ですね。周りからは「あきらめなさい」と言われても彼女はあきらめなかった。練習を重ね再びトップサーファーになったのです。彼女の通っている教会の先生は「いつも彼女は未来に向っている。そして何とかして自分が命を持っていること、そしてそれを喜んでいることを示したい。そうするためにはどうしようかといつも考えているのだ。」と言っています。私の生涯を通して神様を現わしたい。こんな中でも本当に喜ぶことが出来ることを現わしたい。そういう風にいつも彼女は考えているのです。良い時だけではなく、悪い時でも、その中で神様の栄光を現わすための生涯。彼女は色々なボランティア活動にも参加して活躍しているそうです。
私達の人生は神の栄光を現わすためなのだ。この基点にしっかりと立ち「私自身を捧げます。」と神様に自らを捧げていく。神様を信じるという歩みにしっかりと立っていきたいと思います。その時に神様は私達を小さなぜんまいの歯車のように、私達自身の歩み方は小さくても、神様の中にすっぽりと入ることにより、それが神様によって用いられていく時に、全体が動き出す。ずれていると空回りするだけですが、ピシっと入ると自分の小さな回転が全体の大きな動きにまで変わってくる。私達自身がこの神様に自らを委ねて捧げていく時に、私達を通して全体が動いていく。神の栄光がそこに現われていく。そんな生涯に共に導かれていきたいと思います。私達の歩み方は再び自己中心に陥っていないか。本当に神を神と認め、自らの生涯はこのお方に従っていくべきなのだと本当にそう思っているだろうか。そしてこのお方を信じて神様の栄光のために私自身を捧げますと捧げていく歩みに進んで行けたらと思います。
信仰を持ったばかりの姉妹が教会の婦人会の会長を依頼された。その時に「とても自分としては出来ない。」と思ったそうですが、ある時にそれは高慢だと教えられた。それは自分の力でやろうとするから出来ませんと言うのです。でも神様ならば私をそのように強めると信じるなら、私は弱いからさせて頂きます、変な論理と思えるかもしれませんが、それが成り立つのです。「私は弱い。でもその私をあなたに捧げます。ですから力を与えてさせて下さい。」とこれがクリスチャンの本来の生き方です。
ある方は1つのことを祈っていたのですが、なかなかそれが起こらない。ついに「神様、信じることが出来ないのです。どうかこんな私を憐れんで下さい。」と祈った時に、その願ったことがスッーと応えられた。私達は正直に自らの弱さも何もかもを含めて主に委ねていきたいと思います。そして私達もまた主の栄光のために用いられていくものとされていきたいと思います。