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「塩味の効いた歩み方をしなさい」

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2005年2月13日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書コロサイ4章2節〜6節より
メッセンジャー仙台福音自由教会高橋勝義師

塩は料理に欠かすことの出来ない調味料です。料理を美味しくするのもまずくするのも塩の量で決まるわけです。漬物は塩によって作りますが、塩辛くなりすぎた漬物の塩をぬくのに塩を使うのです。ところでイエス様はマタイ5章13節で『あなたがたは、地の塩です。』と語りましたが、それは私達にこの世の塩の役割を担って欲しいと願っているからでしょう。イエス様はあなたに期待しているのです。あなたは職場や地域社会の中で塩としての役割を果たしているでしょうか。それともこの役割を重荷と感じているでしょうか。それとももうどうでもよいと感じているでしょうか。今朝はどうすればこの世の塩になれるのかを教えられたいと願っています。

目を覚ましていなければならない2つの理由

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」(2〜4節)

パウロはたゆみなく祈りなさいと命じつつ、自分達のためにも祈って下さいとお願いしています。「たゆみなく」とは諦めずに日々祈り続けることです。私達は祈りが聞かれないと直ぐに諦めてしまう弱さがあります。しかしどんな状況、どんな状態であろうとも、神様に期待して『たゆみなく祈りなさい』とパウロは命じたのです。パウロは牢に入れられている自らの状況を語っています。それなのに「牢から一刻も早く出られるように祈って下さい。」とはお願いしていないのです。皆さんは問題や困難の只中にいるとするならば「この問題から救って下さい。」と祈りのリクエストをするのではないでしょうか。しかしパウロは自分の置かれている状況に全く関係なく奥義を語れるように、しかもはっきり語れるように祈って下さいとお願いしているのです。パウロの頭の中は常に人を救いたいという思いでいっぱいのようです。

「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」(ローマ1章14節)

と自ら告白している通りです。パウロのような熱き思いが自分の中にあるであろうかと心の中が問われるような気がします。さて、パウロは最初に『目をさましていなさい』と命じました。2つの意味において目を覚ましていなければなりません。第1にイエス様がいつこの地上に来られても良いように備えのため目を覚ましている必要があります。

「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」(マタイ24章34〜44節)

「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1章9〜11節)

イエス様はいつ来るか分からない。そして天の父だけが知っていると言っていますから、イエス様自身もその時は分からないのです。目を覚ましていないと待ちに待ったイエス様が再び地上に来られたのに、迎えることが出来ないからです。イエス様がいつ来られても良い様に目を覚まししっかりと備えをしておきたいものです。

第2番目には悪魔と戦うために目を覚ましている必要があります。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(第2ペテロ5章8〜9節)

イエス様も『いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。(マタイ10章16節)』と言うのです。私達はこの狼、悪魔の只中にいるのです。そして悪魔は私達の信仰を奪いとろうと必死になっている。このことをしっかりと受けとめる必要があります。「とんでもないところにいる」と思うかもしれませんが、これが聖書の語る現実です。しかしこれは驚くことでなく『ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。(第1ペテロ5章9節)』既に私達の信仰の先輩達が通って来た道であり、私達だけが苦しむ道ではないのです。ではどうすれば悪魔に立ち向かうことが出来るのでしょうか。

神の武具を身に着ける

神様は私達が悪魔に立ち向かうための秘密兵器を備えてくれました。「あなたは戦いの中にいるのだから、自分の力で戦え」と言っている訳ではないのです。私達は神様が備えてくれた秘密兵器をしっかりと身につけて戦えばいいのです。その秘密兵器とは何でしょうか。

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6章11〜17節)

ここに私達が持つべき武器が備えられています。ですから悪魔の策略や誘惑に立ち向かうために、神様の秘密兵器を身に着けて立ち向かえばいいのです。しっかりと身に着けて立ち向かうならば私達は勝利を得ることが出来るでしょう。しかしどんなに素晴らしい武器であっても、もし寝ていたなら何の役にも立ちません。ですから目をさましている必要があるのです。あなたは神の武具を身に着けていますか。それとも身に着けてはいても、居眠りをして悪魔に隙を与えていることはないでしょうか。

「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」(5〜6節)

信仰は日々の生活の中で生かされてこそ、力になり、慰めになり、励ましになっていきます。信仰は態度や言葉に現われ、そこからその人の品性が明らかにされていくのです。私達は信仰と現実の生活を区別してしまう傾向にあります。「この世は厳しいし、そんな聖書のことを言っても通用しないから、これとこれは別だ。」ということはないでしょうか。仕事は今まで自分が培ってきたものだから、そこには神様はいらない。あるいいは主婦の方は台所で一生懸命に料理をしてきた。神様が直接料理を教えたわけではありません。しかし食材を用意したのは神様ではないでしょうか。勉強はどうでしょう。科学は神様が造られたものを発見するに過ぎないでしょう。「神様は何の関わりもない」のではなく、全てにおいて関わってくるのです。ですから区別などあり得ないのです。ですが私達は案外と自分の経験や能力で、実際の生活と神様を区分しやすいことがあるように思います。私達は新しい歩みにされたにも関わらず、

「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」(第1コリント3章3節)

パウロが言っているように「ただの人のような歩み」になってしまうこともあるのです。救われて新しい人になっていても、信仰と生活は別という風にしているならば、ちっとも変わらない歩みになってしまうのです。ヤコブはこのような歩みに対して厳しく戒めを与えているのです。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」(ヤコブ1章22〜24節)

はっきりと『みことばを実行する人になりなさい。』と言っているのです。信仰や品性は決して一晩で完成するものではありません。様々な試練や訓練を通して練られていくものなのです。苦しみを通して色々なことを経験しながら、様々なことを学び、それが出来るようになっていくのです。信仰も同じです。試練を、訓練を通して私達の信仰が練られていくのです。あなたが実際生活の只中で御言葉に聞き従って歩む時、御言葉から教えられる経験をするのではないでしょうか。そしてこの経験で学んだことや教えられたことを通して、神様への信頼と信仰が強められ、私達の品性が造られていくのです。そして言葉や態度が自然に親切になり、塩味の効いたものになっていくのです。ところが私達の現実は沢山の失敗をし、その度毎に自暴自棄に陥ったりするわけです。けれども神様は失敗をも用いて、その失敗でなければならないことを通して、私達に大切な真理を教えることもあるのです。全てが神様の恵みであり、憐れみによって信仰が成長させられていくのです。

では反対に塩味の効かない歩みとはどんな歩みでしょうか。それは御言葉を自分の都合に合わせ、この世と妥協して歩む信仰生活です。確かにこの生き方の方がこの世との摩擦は少なくなりますし、物事がスムーズにいきます。「御言葉はこうであるけれども、自分の経験を優先する。」これならばこの世と戦う必要はないでしょう。一見この世の成功者であるように、また信仰もスムーズであるように見えます。無理して摩擦を起こす必要はないのですから、楽な歩みなのです。でもイエス様は『塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるでしょう。何の役にも立たず、ひとびとに踏みつけられ、外に捨てられる』と警告をしています。塩が塩気をなくしたら役に立たずに外に捨てられ、人に踏みつけられる。信仰に生きるのも、やめるのもそれを決めるのはあなた自身です。神様はここまで強制はしません。その決断は私達に委ねられています。

さて、塩味の効かない歩みについて述べてきましたが、逆に塩味の効きすぎる歩みもあるのです。それは愛のない律法主義です。言っていることは的を得て正しいのです。正論ですから聞く側も納得するかもしれませんが、そこに愛がなければ相手の心を傷つけるだけで終わってしまうのではないでしょうか。また自分自身も律法に縛られているので、いつも不平不満を抱えることになります。するといつの間にか人々はあなたを避けるようになる。切れるナイフにはだれも近づきません。すると自分1人の苦しい歩みになってしまう。ですから効きすぎてもだめなのです。ではどうすればよいのでしょうか。パウロは同じコロサイ書の中でこう言います。

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3章12〜13節)

愛を身につければ、あなたの言葉や態度が塩味の効いたものとなります。もちろんあなたが意識して塩味を効かそうとするのではなく、神様がそれを成して下さるのです。あなたの歩みは塩味の効いた歩みでしょうか。それとも効いていない歩みでしょうか。それとも効きすぎる歩みでしょうか。

塩味の効いた歩みになるには、目を覚ましていることです。眠っていてはだめなのです。何故ならイエス様がいつこの地上に来られてもよいように、目を覚ましている必要があるからです。ではなぜイエス様を待つのでしょう。それは私達の国籍は天にあるからであり、これが私達の希望であり、望みだからです。それと同時にイエス様の与えて下さったこの素晴らしい望みと希望について、もっともって声を大きくして語らなければなりません。

天に望みがあるからといって、この世の歩みがどうでもいいのではありません。世捨て人になるのでもありません。なぜならあなたは悪魔と戦うために目を覚ましている必要があるからです。イエス様を信じた者は神の子です。悪魔はその神の子に対して策略をめぐらし、私達の信仰を奪い取ろうとしているのです。私達の戦うべき相手は悪魔です。1人1人置かれている状況は違いますから残念ながら戦いのための手引書はありません。しかし神様は様々な戦いに対応出来る聖書を備えて下さっているのです。1人1人状況は違うのですから、解決方法も違うのです。私達は聖書を読みますが、なかなか難しくて分かりません。分かることもあれば、分からないことの方が多いかもしれません。「これは一体どういう意味だろう」そんな時に神様は聖書を「自分で読んで解釈しなさい。」とは言わないで、私達の内に住んで下さる聖霊が、その時に必要なことを私達に教え諭して下さるのです。そのように私達は聖霊の助けを得ながら、また御言葉を通しながら、この素晴らしい武器を持って悪魔と戦うのです。でもこの武器を持っているからと教会を出た瞬間に塩味の効いた歩みをしようと気負う必要はありません。かえって気負えば気負うほど態度は硬くなり逆効果になってしまうでしょう。

あなたに必要なのは現実の只中で御言葉に聞き従う歩みをすることなのです。ヤコブが「みことばを実行する人になりなさい」と言っている正にその通りです。簡単でしょう。簡単なのですが、これがなかなか難しいのです。でも御言葉に聞き従って歩む時に、神様が丁度良い時にあなたの働きを用いて下さるのです。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。伝道者3章11節』とあるからです。私達は自分の願いや思いを優先して「この時にこうして欲しい」と思うことがあるかもしれません。でも案外と的が外れるのですね。しかし神様が成された時には、後になって「これでよかった」と思うことが沢山あります。

主がいつこの地上に来られても良いように、また悪魔の策略に立ち向かうために、目を覚まして歩むことが必要なのです。その時に神の栄光を現わし、人を救いに導くことになるのです。その結果としてあなたの歩みは塩味の効いたものになっていくのです。神様は私達がこのような歩みになることを期待されています。あなたは世の光、地の塩ですと言われているのは、神様は本当にあなたに期待してこのような歩みになることを切に願っているからです。このことを覚えて下さい。さてあなたは目を覚ましているでしょうか。眠ったままでしょうか。今主の前に静まり応答の祈りを捧げましょう。

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