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「うわべを見ないで」

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2005年2月27日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ7章14節〜24節より
牧師 吉田耕三

80年代末のことですが、アメリカのタイムという雑誌にパリセイド高校の卒業式のことが掲載されました。名づけて「黄金時代の幕開けに立つ高校生」と題されていました。その地域に住む人々は例外なく大富豪だそうです。そしてその題名に目をとめた2人のジャーナリストが10年後の彼らの姿を追跡調査しました。その結果は麻薬中毒者、アルコール中毒者、家出の常習者、結婚と離婚の繰り返しをする者、刑務所に入っている者、犯罪に巻き込まれいる者が多くいた。表面的に見るならば本当に幸せそうに見える。しかし私達は深い部分を見分けることが出来ませんし、そこに騙されてしまうことが多いのではないかと思います。

今日の最後の箇所でイエス様は『うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。』これは「正しい判断をしなさい。正しい裁きを裁きなさい。」という事です。私達は惑わされてうわべだけで判断してしまっていることが多くはないかと問い掛けているのです。

色眼鏡を外して

「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」(14〜15節)

「仮庵の祭り」の期間には多くの人がエルサレムに集まってくるから、そこに行って自分の名前をあげたらいいとイエス様は兄弟達に言われたのです。実は兄弟達も表面的には信じている振りはしていても本当は信じてはいなかった。イエス様は「わたしの時はまだ来ていないから行かない。」と答えましたが、兄弟達が行った後に『内密に行かれた』と書かれています。『わたしの時』とは十字架を指していたのですが、イエス様は神の時を意識して歩んでいる。私達はそのことを意識しないで歩んでいる、自分勝手な生き方をしているのであります。私達もイエス様のように歩ませて頂くことが大切ですというのが前回の話でした。

今日はイエス様が突然皆の前に現われていろいろな話をする場面です。人々がどんな反応をしたのか。レビ人は皆の前で律法を話すことはあったのですが、イエス様の話し方は言葉に確信と権威がある。イエス様は大工ヨセフの息子です。レビ人は律法を専門の勉強をしていた。しかしイエス様は正式に勉強した訳ではないのに、旧約聖書のことをきちんと教えるので驚いたのです。それでも彼等らはイエス様を神と認めようとはしない。「すごいな。」と思ってもそこまでどまりなのです。

「そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(16〜18節)

イエス様が説明したのは、自分は人間の言葉として言っているのではなく、父なる神様から聞いて悟らされて、それを語っていると言うのです。そしてこのことはだれの栄光を求めているかによって分かる。その人が本当に真実な人かどうかの見分け方は、自分を自慢しようとしているか、それとも他人のためにしているか、これによって信頼性が分かります。私達は自己中心ですから、何でも自分のため、自分の徳のためにやりたいわけです。でも本当に真実な人は、他人の栄光のために事を行おうとする。イエス様は父なる神様の栄光のためになさった。ですから真実な心、素直な心であるならば、私達にはそれが分かる。私達も偏見が入っていないと人のことを結構客観的に見られるますね。そうすると「この人は信頼出来る」とか「この人はそうでもない」と分かってきます。色眼鏡が入ってしまうと、正しく見えなくなる。人間が最も陥りやすい罪の1つは悪い考えです。悪い考えが入ってしまうと、良いものを見ても悪くしか見えません。ここで言うのは”神の御霊”が宿っているならば、神様は私達の心に神の律法を書き込んで下さるとペテロ書や旧約聖書に書いてあります。その言葉を聞き分けるようになっていく時に、私達はそれが真実かどうかを見分けることが出来るのだというのです。

「モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」(19〜20節)

ユダヤ人の役人達はイエス様を殺そうとする気持ちにまでなっています。13節に『しかし、ユダや人たちを恐れたために、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。』とあるように、人々もイエス様の側についたなら、自分が不利な立場に立つことになると薄々と感じているのです。そのことについてイエス様は言及します。

「イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。」(21節)

これはベテスダの池で38年間寝たきりの人がイエス様の「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」という一声に立って歩き出したことです。彼らは驚きはしましたが、この出来事を通して「イエス様素晴らしい」と言うのではなく、安息日であったから「こいつが神から来たはずはない。神様から来たのであれば安息日を守っているはずだから。」と結論を出した。そしてこれをきっかけにイエス様を殺そうとし始めたのです。

「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。−ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。−それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。」(22〜23節)

ユダヤ人とはアブラハムの子孫です。彼らは神の子供であるという契約「割礼」(男性生殖器に傷をつけ皮をとる)をしました。これは生まれて8日目に受けます。たまたま安息日にあたることもあったでしょう。それならば安息日に割礼をしているのはよくて、安息日に人をいやすことが問題になるのはおかしくはないか。片手落ちではないかとイエス様は言うのです。そして最後に

「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(24節)

と教えて下さっているのです。実はこのような捉え方や考え方はユダヤ人だけでなく私達もしばしばしてしまうからです。ある1つのことに対して正しさを求める。そのことは良いことでしょう。でもそのために別の正しいことを無にするということもあるわけです。ユダヤ人達は自分達は律法を守っている。だから割礼もするし、安息日も破らない。ところが「こやつは安息日を守っていない。だから殺してしまえ」なのですが、安息日を守ることも律法ですが、聖書の非常に大切な戒めの1つは「殺してはならない」。安息日を守る、律法を守ると言いながら、「人を殺してはならない」という律法を無視しているのです。それでいながら自分達は正しいことをしていると思っている。私達も案外同じことをやっていると思いませんか。皆さんは「この人が訓練を受けるためには少し苦しんだ方がいい。」と思ったりしていませんか。でもそれは愛でしょうか。聖書は愛をもって真理を語りなさいと教えています。しかし裁きをもって真理を語れとは言っていないのです。もし裁きがあるならば、まず裁きを取り除くことが先決問題だといっています。

「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」(マタイ7章1〜4節)

私達は人のことを「それは間違っています。」と言うが、あなた自身の中に裁きがあるならば、それを取り除くことがまず第1に必要なこと。裁きが入ると人の言葉はまともに聞けなくなります。イエス様は38年も寝ている人をいやされた。そのすごいことを見た時に彼らは「こやつは安息日を破った。」とだけ見たのです。裁きが入ってしまう時に、素晴らしいものも素晴らしいとは見えないのです。かえって良くないこととしてしか見ることが出来ない。これが私達の問題なのです。私達は正しく物事を見させて頂くことが大切です。

『心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。』という御言葉があります。心がきよいとは「Singleeye」1つの目ということですが、これは神をもって物事を見るということ。自分の偏見などを取り除いて神様の目を通して物事を見始める時に、私達はきよい目となり物事を正しく見ることが出来るようになっていく。

これは私自身が経験したことですが、『すべての事について感謝しなさい。』や『神はすべてのことを働かせて益として下さる。』という御言葉があります。これを思い起こして「どんなことがあっても主よ、感謝します。意味は分かりませんがこのことを感謝します。」と祈ると非常に良い見方になっていく。これが良い見方になっていく秘訣だと思います。私は多くの場合、嫌なことがあった時に「この嫌なことを感謝します。」と祈っている内にどうして神様がそのことをお許しになられたのかが分かってくるのです。少しいい気になっていたとか、上手くいかない方がよかったとか。感謝した瞬間からそのことの意味が分かってくる。全てのことの中に意味がある。神様は良きこととして全てのことをなさって下さっている。

ところが神様を通して見ることが出来ないと、そこには裁きや妬みや嫉妬などの悪いものが入ってきてしまい、良きこととして見ることが出来なくなってしまう。私達はいろいろな出来事の中で裁く心ではなく、素直な心で、特に聖書の言葉を素直に受け取っていく心を持ちたいと思うのです。御言葉を素直な心で受け取るならば、私達にはそれが力となり、喜びとなり、命となるのです。私達は御言葉を知っているからといって神を経験するのではありません。本当にそれを味わえるのは御言葉を素直に信じているかどうかです。信じて受け取る時に結果がともなうのです。

アウグスチヌスは神様から全く離れた生活をしていましたが、神様により捉えられて素晴らしい神学者となりました。彼は「理解は信仰の報酬である。」これは「分かるというのは信じた結果である。」ということです。相手を知るためにはその人を信頼しないと無理です。疑っていれば相手のことを知ることは出来ません。信頼してはじめて相手が分かるように、理解出来るために信ぜよ。神の御心を行おうと思うことは、信じるということと同じである。「分かったら信じましょう。」ではなく信じたら分かるようになる。その時に聖書の言葉、神の御心が分かってくる。

イエス様の業を見ても彼らは素直に信じるのではなく裁きの目で見て殺すまでにいってしまった。素直な目で見たならばこんなことが出来るのは神様しかいないでしょう。生まれながら目の見えなかった人がイエス様によりいやされた。その時にパリサイ人がそれは悪霊によってやったことだと言うと、彼は「今まで目が見えなかった人の目が見えるようになった。ということを聞いたことがありますか。どんな悪霊がそんなことをしましたか」と言うと、パリサイ人達は慌てて「お前は罪の中に生まれたのに、俺達を教える気か」と反論しました。彼はイエス様によりその力を味わったのです。私達も素直に御言葉を信じる信仰にすすんでいきたいと思います。

そういうわけで私達が御言葉を読む時に大事なのは、理解するよりも信じて受け取ることです。その時に私達に神様の力が伴う。そうでないと折角の良い御言葉が刺すものになってくる。素直に御言葉を受け取るために、私達の中にある”受け取れない心”を聖めて、素直に受け取れるようにして下さいと祈っていくことが大切です。私達の中には素直に神の言葉に応答しない部分があるのです。もし御言葉が心にちくちくと刺してくるならば、正しく受け取っていないということです。聖書はそれが赦される、聖められると語ります。すると「感謝します。」となるのです。聖書にはいろいろな戒めがありますが、これらは私達を責めたてるために与えられたものではありません。ある時期まではそういう風に感じることがありますが、聖書が言わんとするのは「あなた方には出来ないでしょう。あなた方に罪があるということが分かったでしょう。こう言わなければ「私には何も悪いことがない。」とあなたは言うでしょう。」だからイエス様が必要であると悟るために神の言葉が生きて働くようになり、こんな私が赦されている、受け入れられている、愛されているというところにすすむのです。

私達は御言葉をまず信じるようにしましょう。そしてそれを受け取り感謝していく者になっていきましょう。神様は私達に聖霊を与えてくれました。もし私達がイエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じるならば、その人の内に御霊を宿らせ、御霊により御言葉を素直に受けとめる力を下さる。そして判断する力を与えて下さる。表面的なものではなく、それがどういう意味か、聖書の世界、神様が本当に言わんとしていることが分かってくるのです。私達は「ああこうなんだ」と表面的なところだけで捨ててしまったり切ってしまったりする。そうではなく神様がここで言わんとしていることが何であるのか、このことに光を当てて下さい。教えて下さいと祈りながら読んでいく時に納得する部分が増えていくのではないかと思います。私も最初はクエスチョンマークが沢山ありました。でも神様の命がやってくる時に起きることがいくらでもある。私達はそのような世界になるために「どうぞ私にこの御言葉が分かるようにして下さい。そして信じられるようにして下さい。」と求めていきたいと思います。そして神様の力をもっともっと具体的な生活の中で共に味わっていく者とされていきたいと思います。

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