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「よみがえられたのです!」

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2005年3月27日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ルカ24章1節〜9節より
牧師 吉田耕三

今日はイースターです。ご一緒にご挨拶をしたいと思います。「ハレルヤ!イースターおめでとうございます。」

本当に勝利の日です。ある人達は教会の悪口を「堅い、暗い、つまらない」というそうです。”厳かに”といえば聞こえは良いですが、厳か過ぎて堅い感じになってしまっているところもあるのではないかと思います。私達は何故日曜日に礼拝を持っているのでしょうか。ユダヤ教では土曜日が安息日として、土曜日に神様をほめたたえていた。それがクリスチャン達は日曜日に行った。それはイースター、復活があったからです。

十字架により完全に罪が聖められて新しい生き方、新しい命にあずかることが出来るようになった。「主はよみがえった。主は勝利して下さった。」このことをほめたたえるのが日曜日の礼拝なのです。でも現実には「堅い、暗い、つまらない」と言われてしまう理由の1つは、私達がなかなか全ての罪を赦し勝利して下さったところに立つことが出来ないのが原因ではないか。暗い穴の中に入れてしまわれたように、恐ろしい不安の中に閉じ込められ奈落の底に突き落とされたように「あの問題はどうしよう。これはどうしたらいいのか。こんな状態で神様はもう何も答えてくれない。見捨てられたのではないか」と思いめぐらして、いつの間にか顔も心も暗い状態になってしまう。そうではなく「主はよみがえった。勝利して下さった。」と本当に心の底から「アーメン。感謝します」と言える者になりたいと思います。

聞いた御言葉をそのまま受け取る

「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。」(1〜4節)

この女性達は非常に信仰深い人達です。いつもイエス様と共にいて、イエス様と共に苦しみを乗り越えて、人々がイエス様から離れていった時でもなお、イエス様に従って十字架にまでもついて行った女性達です。その彼女達がイエス様の墓に行った時に、墓が開いていてそこにあるはずのイエス様の体がない。それを見た彼女達は『とほうにくれた』のです。もしもイエス様の言葉を彼女達が覚えていたなら、反応が全然違ったはずなのです。

「そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」(ルカ9章22節)

「さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(ルカ18章31〜33節)

素晴らしい約束ではないですか。本当にむごたらしい十字架です。酷く惨いイエス様へのこれでもかという鞭打ち。でもイエス様は「3日目によみがえります。」と言ったのです。十字架で終わりではない。ですから彼女らがこのことをしっかりと心に覚えていたなら、墓石がのけられてそこに布切れが落ちていたなら「やっぱり、イエス様はよみがえってくれた。嘘ではなかった。感謝します。」と言いえたはずなのです。ところが信仰深いと思われていた彼女達は途方にくれたのです。しかしこれは彼女達だけではなく、私達の姿でもあるのです。聞いていてもそれが力にも希望にも喜びにもならない。何故ならイエス様の言葉を本気になって受けとめていないからです。この朝ご一緒にイエス様の言葉を本気になって受け取らせて頂きましょう。どうして彼女達はそのことを受けとめられなかったのでしょうか。それを十分知っていた神様は御使いを送っています。

「恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」女たちはイエスのみことばを思い出した。」(5〜8節)

まばゆいばかりの光とはどんな感じでしょうか。彼女達は自然に頭を伏せるしかなかった。一体何事であるのかと恐れおののく態度が自然に出てくるほどのまばゆい光があった。そしてこれは特別な方であると意識したのでしょう。その言葉は『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』彼女達は墓の中で死人のイエス様を見つけようとしていた。でもよみがえったのだからいくら死人の中で探しても見つけることが出来ません。ところが私達もしばしば同じことをやっていると思いませんか。敗北の中にしかイエス様を見ていない。苦しいこと、悲しいこと色々な出来事があります。「神様は本当にいるのだろうか。もう神様は私を見捨てたのだろうか。神様は死んでしまったのであろうか。」とそんな思いの中で一生懸命に探しても見つかりません。イエス様はよみがえられたのです。そしてよみがえられたイエス様は

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28章18節)

と言っています。詩篇の記者も『たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。詩篇139篇8節』と言いました。皆さんがトイレに入っても、狭い所に隠れてもそこに主はおられます。自分は神様から遠く離れて地の果てに行ってしまったと言っても、その人の所に主はおられます。そしてそこにおいて全ての権威を持っておられる。ということはこの方は敗北の方ではありませんからどんな所にも勝利をもたらすのです。私達が「敗北」と思って見ていますから敗北にしか見えないのです。神様はそこにいて権威を持ち、勝利をもたらそうとされている。私達が「主はよみがえって、今も生きておられる」という信仰に生きているかがキーワードです。

私の信仰生活に非常に大きな変化をもたらした言葉がありました。『すべての事について、感謝しなさい。第1テサロニケ5章18節』です。「嬉しいことや楽しいことには感謝出来ます。でも全てというのは嫌なことも含まれます。自分にとって嫌なことを感謝するなんてそんなこと」と思いました。それにはきちんと理屈もあります。何故なら『神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8章28節』からです。「神様が全てのことを働かせて益として下さるから、全てのことについて感謝する」理屈から言えばそういうことです。実際にそのように感謝した人が多くの祝福と恵みを受けているのを見て私も「それならば」と感謝の祈りをするようになりました。そしてその時から本当に変わりました。今まで一生懸命に「神様、答えてよ」と死の世界で神様を探していたので分からなかったのです。神様は勝利して、そのことを祝福して下さっているのですから、そのことを感謝したそばから、何故そのことが起きたかと意味が分かるのです。なので長く悩む必要はないのです。神様はむやみにこんなことをしているのではないと分かってきたんです。

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12章11節)

「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12章5〜6節)

何故私達が苦しむのでしょうか。神様があなたを見捨てたからですか。愛する者を懲らしめるからであることが分かってきたのです。そしたらそのことであまり悩まなくなってきました。そればかりか、心の中が痛いのですが、そこに何とも言えない癒しの力が働くのです。心が嬉しくて充実した清々しい気持ちが同時に起こる不思議な感覚が出てくるようになりました。そうしたならばその苦しみにあうことも、かえって喜びとなりました。長くそういうものがないと、逆に「あれ、神様最近どうしたのかな。訪れてくれないな。あの甘酸っぱさが欲しいな。」と思うくらいです。本当に主の慰めや癒しを味わい始める時に神様の御手は本当に甘いのです。神様は敗北した訳ではないし忘れているのでもない。訓練として私達を育てよう、愛するからこそ懲らしめて下さっている。このことが受けとめられるようになってくると信仰生活がガラッと変わってきます。嫌なことが感謝なのですから。このことは聖書全体が言っていることです。

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3章19節)

私達は「主はよみがり、勝利を持っておられる。だからただむやみに苦しめたり懲らしめたりすのではない。意味があるのだ。」と分かってくると「イエス様が私と共にいて下さる。」と受けとめられるようになってくるのです。苦しみや悲しみが痛みではなく、それを本当に喜びとして受け取れるようになる。

スエーデン人のレーナ・マリヤさんをご存知だと思います。生まれながら手足に障害をもっています。でも彼女は本当に明るいでしょう。彼女は「私は障害者であると思ったことはない」と言っています。本当に神様が私をこのようにお造りになったのだと受けとめています。彼女は「私が歩く時には不恰好な歩き方しか出来ないのです。でも私にとっては歩く姿がどうであるかは関係ありません。私にとって大切なのは、どこに向っているのか、誰と共に歩んでいるのかを知っていることが大切なのです。そして本当に感謝している。」と言っています。もしも私達が苦しみの中に神様を見出すことが出来るとしたら、私達はそこで勝利者となる。どんな困難や苦しみがあったとしても、主を見上げることが出来ると思います。

もう1人の方を紹介します。彼女は子供が5歳と7歳の時に癌になり手術をしましたが、しばらくして癌が転移しているのが分かった。彼女は夫と話し合い、これ以上の治療を受けないことに決めた。それは治療で苦しむよりも残された時間を子供達のために精一杯生きたいという理由でした。それで彼女は子供達のために手紙を書き始めたのです。その時には子供達も7歳と9歳になっていました。子供達が9歳に、10歳に、11歳になった時に毎年の誕生日のために、あるいは入学式、卒業式と機会あるたびごとに何十通もの手紙を書いていった。そして子供達のために絵本も書いた。それを通していつもで子供達が自分に会うことが出来る。自分の残された時間を精一杯そのことのために使っていった。

そして全てのことを成し遂げて、最後に彼女は「私は病気になる前よりも、病気になってからの方がはるかに自分らしい生き方が出来るようになった。それまでは人と比べたり何とかして1番になろうと色々な思いがあって本当に自分らしい生き方というものが出来なかった。でもこの中で本当に自分らしくなることが出来た。そして家族も自分のことを愛してくれていることが分かるようになった。本当に幸せでした。これから私は先に行きますが、天国に行くことを本当に喜んでいますので、悲しまないで下さい。子供達とこんなに早く別れることは少し残念ですが、きっと子供達は安らかに強く生きると思います。神様に一切を任せましたから何の心配もありません。でももし子供が落ち込んでいる時には慰めてあげて下さい。きっと私の顔と皆さんの顔がだぶって見えて子供達には励ましとなるでしょう。本当にありがとうございました。皆は私の分まで長生きして下さい。」と言った。

これが敗北者の言葉でしょうか。人間が打ち勝つことの出来ない”死”に直面しても彼女は前を向いて希望をもって歩むことが出来た。それは正しく復活の信仰をはっきりと受けとっていたからです。私達は死からよみがえって下さったお方を聞いて終わりにするのではなく、その方を自分のものとして受けとめて頂きたいと思います。

「それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。」(マルコ6章5〜6節)

イエス様は故郷ではあまり力ある業を行うことが出来なかった。彼らはイエス様を見上げることが出来なかったのです。「あれはヨセフの子ではないか。」と神として見ることが出来なかった。私達も同様に復活の主を見上げることが出来ないかもしれません。大きな問題や苦しみが次々にやってきて、ちっとも上手くいかない。そんな時によみがえると言われても信じられない。でも大事なのはそこで神の言葉に返るということです。イエス様ははっきりと3日目によみがえると言っていました。その御言葉をそのまま受け取るべきです。自分の経験や考えで割り引きしないで、御言葉を本気になって信じていく。

もし信じていたら彼女達はどうしたでしょうか。墓の入り口が開いていた、布が落ちていた。「ハレルヤ!主よ、感謝します」と言えたはずなのです。その時の状況は本当に喜ぶべき状態でしょう。イエス様はよみがえって勝利して下さったのですから。喜べばいいのに、彼女達は途方にくれてしまっていたのです。私達もこういう中に歩んでいはいませんか。イエス様は死からよみがえられて天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられる方して見ることが少なくなってはいないでしょうか。御言葉をそのままに受け取ることが弱くなっていないでしょうか。もう1度この御言葉をそのまま受けとめていきたいと思います。

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル10章35〜39節)

弟子達も確信を投げ捨ててしまったのです。私達もしばしば投げ捨ててしまっているのではないでしょうか。イエス様はそのことをよくご存知です。ですから確信を投げ捨ててはならないというのです。御言葉をいつも受けとめていきたいと思います。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇2〜3節)

御言葉にいつも留まり、反芻し、口ずさみ、従って信じて生きる時に、不思議なこの世で味わうことの出来ない力と希望と命を体験させて頂けるのです。この世界に生きる者となりましょう。私達は死人の中にイエス様を見出そうとして「神様が見えない。神様が分からない」と言ってはいないでしょうか。それはマイナス思考の中で神様を探そうとしているからではないですか。そこにいないのです。見つかりません。何故なら神様は勝利したのです。私達がこの勝利をしっかりと受け取り、神は生きておられ、私を励まし助けて下さるという信仰に立ちましょう。『女たちはイエスのみことばを思い出した。』とありますように私達も御言葉を思い出して恵みの中に共に歩んでいきたいと思います。

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