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「眠った人々のこと」

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2005年4月24日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書第1テサロニケ4章13節〜18節より
牧師 吉田耕三

今日は召天者記念礼拝です。皆さんようこそお越し下さいました。悲しみも苦しみも様々なことがこの1年間あったことであろうと思います。そういう中で愛する人々が御国に行っていることは皆さんにとって大きな励まし、また希望であったのではないかと思います。何故ならばキリストにある死者は幸いですというメッセージを聞いたと思うのです。その全ての労苦は彼と共に、全ての悩み悲しみはもう取り去られた。

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21章3〜4節)

人間は生きている限り様々な苦しみ、悩みを持つものですが、神様は涙を拭いとって下さる時が来るから慰められなさいと言い、また励みなさいと言って下さっるのです。今朝もう1度私達がどの様な道を歩もうとしているのか、愛する方はどの様な所にいるのかを心に留め、主の平安と慰めを受けて頂きたいと願っているのです。

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」(13節)

イエス・キリストがこの世に来て33年の生涯の最後の3年半に聖書の言葉を伝えました。これを「福音」と言いますが、十字架の苦しみを受けて死んで下さった。ところが死んで終わるのではなく、キリストは死を打ち破ってよみがえられた。これが教会がずっと伝えてきたことであり、そこに不可能を可能にする神の力を宣言しているのです。それがいつなのかと言いますと、イエス様が再びこの地に来た時であると聖書に書いてあります。

クリスマスはよくご存知だと思いますが、イエス・キリストは地上に1度来られました。しかしイエス様はその時に初めていたのではありません。元々おられたのです。しかし人間の罪の身代わりになるために今から約2000年前に人の形をとってこの地にくだった。優しいこと、真実なこと、正しいことをしていながらも人から馬鹿にされ、除け者にされ、鞭打たれて血だらけになり、頭にはいばらの冠を被らされた。しかしその苦しみの故に彼は満足すると書いてあるのです。何故ならその苦しみや痛みこそが多くの人を義とし救うからであると聖書は語っているのです。

イエス様は「わたしは死んで3日目によみがえる」と語っていましたが、そんなことが起これば大変だと墓場に番兵をつけたのですが、墓石は動かされイエス様の体は無くなったのです。そしてその後人々に現われました。ある時には500人以上の人が集まった所にも現われてよみがえったことを示されたのです。そして多くの人々が見ている中でオリーブ山から元々おられた父なる神の御元に帰って行かれました。その時に「再びキリストはこの世に来る」と言われました。私達は色々な苦しみの中にありますが、その時には全ての苦しみから解放される真の勝利がやってくるというのです。

聖書によればその時に私達の体は完全にされ栄光の体に変えられると書いてあります。多くの方は亡くなる時に様々な病を持っていたでしょう。でもそういった全ての病や苦しみから完全に解放される命が与えられる。何の悲しみもない、苦しみもない、病もない、夜もない、眠る必要もない体が与えられる。そんな馬鹿馬鹿しいことがあろうはずがないと思うかもしれませんが、聖書の言葉はことごとく成就しています。

ノストラダムスの大予言というものがありました。1999年の7月に何かあったでしょうか。でも聖書の言葉はその通りになっているのです。聖書は何千年前から、ユダヤ民族に対して、もしあなた方が神に従えば祝福を受けるが、神を捨てるならばバビロンという国に襲われると預言をしていました。そしてそれが事実となりました。更にそれでもあなた方は改めないのならば全世界に散らされるとの預言通り、紀元70年にそのことが起こりました。しかし同時に神は「わたしはこのイスラエルの民を忘れることはない。世の終わりにはもう一度彼らを元あった国に戻す。」とも言われました。私達はその預言の成就をこの目で見ています。1948年にイスラエルは誕生しました。イエス・キリストについての預言。救い主がどこで生まれるのか。ベツレヘムにユダヤ部族の中に生まれる。処女から生まれる。彼は銀30枚で売られるとまで預言されていた。聖書の言葉はその通りになったのです。

リー・ウオレスはそんなとんでもないことを言う奴はもうグウの音も出ないようにしてやろうと、聖書の1つ1つの記事を調べ、聖書が間違っているのを証明しようとしました。彼はパレスチナに飛び、色々な文献も読み進む中で、第1章を書き終えました。その本を5年掛かって書く予定でしたが、2年経過した時に彼の筆は止まってしまった。彼は「私は圧倒される史実の前に、この聖書の神が真の神であると告白せざるをえない。」とクリスチャンになった。そして後に調べた物を元にして1つの歴史小説を書きました。それが有名な「ベン・ハー」です。

聖書の言葉はことごとくその通りになっているのです。そして亡くなった方々についても神ははっきりと語っています。苦しみも悩みもない世界に導かれる。この尊い救いを私達が体験するならば、それはどんなにか希望と喜びを持って生きることが出来るでしょうか。

3月13日にテレビで世界的ウインドサーファーの飯島夏樹氏のことが放映されたのを見た方はいますでしょうか。8年間連続でワールドカップに出場し非常に優れた力を発揮した。しかし癌が発生し治療をしても再発し、余命何日と言われるまでになりました。彼のドキュメンタリーでした。彼が召されたのが今年の3月4日でした。日を経ずして放映されたわけです。そこに写された彼の顔は本当に穏やかで魅力的な「本当に癌なのかな。本当にその日が迫っているのかな」と思うほどの明るさを持つものでした。段々悪くなっているようだと他人事のように彼は言います。そして3月4日に召されたのですが、残された4人の子供達は「パパ天国に行ったね。」と明るく言っているのです。ハワイオアフ島にあるマキキ聖城キリスト教会で「飯島夏樹記念感謝礼拝」と名づけて葬儀がもたれました。本当に明るい希望と平安に満ちた式の様子が映されていました。7日後に遺言であったのでしょうか、海への散骨をする舟の上で皆さんがアロハ・オエを踊っていました。アロハ・オエには「また会う日まで」という意味が含まれるのだそうです。その歌詞の意味は

潮の香り海を見てもあなたを思う愛しい人よさようならまた会う日まで

この思いを込めて家族も遺族も揃って船上で踊ったのだと言っていました。この家族ははっきりと天国を見ているのだと映像から感じ取ることが出来ました。別れの悲しみがないのではありません。でも希望がある。あの苦しみの中にいるよりも、このほうがずっと良いのだと彼らはそこに希望と喜びを見出したのです。もし私達がこのことをしっかりと受け取るならば、この希望を持って生きることが出来ることを知って頂きたいと思います。

教会に来ておられた1人の方が私に「飛行機に乗ることがどうしても出来ないのです」と言ってきました。「あんなに大きな機体が宙に浮くのはどうしても信じられない。いつ落ちてもおかしくないのだから乗ることは出来ない。」と言っていました。しかし本当の問題は、聖書の言葉を100パーセント受け取り切ってはいなかったことでした。学びを通して彼女は段々と自分が永遠の命を持っており、いつ死んでも素晴らしい所に行くことが出来ると分かった時から、死ぬ恐怖もなくなり、飛行機に乗ることも怖くなくなったそうです。聖書には私達をそのような恐れから完全に解放する力を持っているのです。

イエス様が再臨した時に、素晴らしいことが起こると言われているのに、イエス様がまだ来ない内に死んでしまった人達がいました。イエス様がもう一度来るのに間に合わなかった。そういう中で語られた言葉が本日の箇所です。

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(13〜18節)

イエス様はよみがえられた時に人々に現われました。ある時には閉めきった部屋に入ってこられたのです。ドアを開ずに直接ドアをすりぬけて来たと思われます。イエス様の体は限界によって閉じ込められてしまう体ではなくなった。そしてあなた方もその様になるのですと聖書は言うのです。完全な体になると言いましたが、まずあなた方が心配しているイエス様にあって亡くなった方々が先に栄光の体に変わり、そして生き残っている私達もその場で栄光の体に変わると語っているのです。初めて聞かれた方は「そんなこと信じられない」と思うかもしれません。当然であると思います。でも知って下さい。聖書の多くの箇所がその通り実現したように、このことも起こるであろうと私は信じています。その時に私達は全ての悲しみ苦しみから解放されていくのです。

私が以前牧会をしていたのが埼玉の大宮でした。その教会で私の前に牧師をしておられた先生が、まだイエス様を信じていない方と話をされていた時のことです。外で大きな「ドーン」という音がした。先生は「ほら来た!」と叫んだのです。ここに書いてある『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きとうちに、ご自身天から下って来られます。』から叫んだのでしょう。私達がこれらの言葉を本気になって信じているならば、私達は平安であり心配はいらないのです。私達はその様な平安を共に受けていきたいと思うのです。

徳島の副知事をされた方が年齢を経て自分の体が弱り死期が近いという時に、クリスチャンの姪御さんが「伯父さん。本当は死ぬのが怖いのでしょう。」と図星に言われた。「怖いものか」と強がって全然聞く耳がなかったそうですが、更に体が弱ってきた時に、もう一度「伯父さん。本当は不安なのではないの。イエス様を信じて下さい。イエス様は本当にそこから救い出して下さいますよ。」言われ、さすがに彼も心を開いてイエス様を受け入れ信じた。人間不思議ですね。心に平安がやってくると体も元気になってくるようです。危ない状態であったのに回復し、その後何年も生きたそうです。そしていよいよ召される時には「俺は先に行っているから皆、後からついて来るんだぞ。」と力強いメッセージを残して天国に旅立っていった。

聖書ははっきりと私達がその様に力強い確信を持って生きることを約束しています。私達は是非ともそのことを受けとめて、まず故人が本当に安らかであること、「成仏してないのではないか」という心配は全くないのです。イエス様の元で本当に安らかになっていることを確信して頂きたいと思います。それだけでなく自らもその平安の中に生き、そしてこのことを他の人にも伝える者にならせて頂きたいと思います。神様は私達を天国に連れて行きたいと思っていますが、皆が入れるわけではありません。何故ならば罪があるからです。罪を持ったままでは天国に行くことは出来ないからです。イエス・キリストがこの世に来て私達の全ての罪を身代わりに受けて下さった。ですからこのイエス・キリストを信じる者はだれでも天国に行く事が出来るようにされたのです。このことをある人は信じ、ある人は受けとめないでしょう。でも私達はその方に伝えるという大切な役割があるように思います。

友人の牧師は年配の女性に危篤状態の中で福音を伝えました。そんな時でも耳は最後まで聞こえているのだそうです。彼女は回復して元気になりました。彼女は「私の所に黒い本を持って神様のことを伝えに来てくれた人がいた。そして私はその時に神様を信じた」と語っていました。

こういう方がいました。奥さんと子供達はすでにイエス様を信じていて、常々「パパ。イエス様を早く信じてね。」と言われていました。でもなかなか「うん」とは言わなかった。彼が交通事故に会い瀕死の状態で「自分はこれで死ぬのだな」と思った時に「自分は死の備えをしていない。自分の罪や過ちはそのままだ。」と思い、その場で「私は今まで多くの罪を犯してきました。でもイエス・キリストがそのために死んで下さったと聞きました。もしそうならば私の罪を赦して下さい。」と祈った。彼の心に平安がやってきたのでしょう。「自分はこうして神様を信じ救われたけれども、家族はきっと自分が天国に行ったことを気が付かないであろうな。」と思いつつ召されていくつもりだったようです。彼は幸いにも回復しました。交通事故前はまだ信じていませんでした。しかし事故の後で既にイエス様を信じクリスチャンになっていたのです。ですから私達は諦めずに伝えることが大切です。

「しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」(ローマ10章6〜8節)

私達にはだれが信じたのか、信じていないのかは分かりません。でも伝えていくならばその人が信じなかったとだれが言えましょうか。伝えておくならば、自分の意思をもって神を受けいれないとだれが断言できるでしょうか。私達は伝えていく。その後をどうするかはその人自身が決断していくことです。私達は神様は「この人をきっと良きにして下さる。」と期待することが出来るのではないでしょうか。

神様は私達に人間は死んで終わりではないと語られています。裁きを恐れるのではなく、キリストにより解決されている道を受け取り希望と平安をもって歩めたならば幸いです。愛する方々は、既にそこで安らぎと平安を頂いている。私達もその方に会えるように備えていけたらと思います。そして主の平安と慰めが1人1人に豊かにあるようにお祈りさせて頂きたいと思います。

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