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「真理はあなた方を自由にします」

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2005年5月8日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書ヨハネ8章31節〜47節より
牧師 吉田耕三

今日は母の日です。アンネ・ジャービスさんの母親が教会学校で「何かお母さんに感謝を表すことを考えたらいいですね」と子供達に話す言葉を聞いていた。そしてその母親が召された時の記念会で、アンネ・ジャービスさんはカーネーションをたくさん飾ったそうです。それが非常に評判がよく、あちらこちらでするようになった。そしてマナンメーカーという百貨店がカーネーションを配り始めた時から広がった。私達も聖書の『あなたの父と母を敬え』という大切な真理の言葉を心がけてみたいと思います。今日の「真理はあなた方を自由にします」とありますが、御言葉に従う時に私達には不思議な力が出てくるのです。御言葉の奥義を一緒に学んでいきたいと思います。

本当の自由とは

今日の箇所は先週からの続きで仮庵の祭りに来た人々に、権威を持って語るイエス様の言葉に多くの人が信じたとする言葉が出て参ります。

「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。」(ヨハネ8章30節)

信じた人達に対して、その信仰が確かなものとなるようにと語り掛けているのが今日の箇所です。

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(31〜32節)

今月の御言葉はこの御言葉です。『真理はあなたがたを自由にします』を自分のこととして体験していきたいと思うのです。その意味で御言葉をしっかりと受けとって頂きたいと思います。主の言葉に留まるとは、ただイエス様を信じるのでは足らないという意味ですね。もしかしたら欠けがあるかもしれない。聖書には時々厳しいと思える言葉が出てきます。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7章21節)

私達は御心を毎日行っていると言えますか。「私はだめだわ。」という言葉が出てきますよ。これは信じ方に注意しなさいということです。どういう風に信じるのかをもう1度問うたのです。後で細かく見ていきますが、正しい信じ方をするならあなた方は自由を得る。非常に魅力のある言葉は「自由」ではないですか。でも「自由」を取り違えて、やりたいことをするのが自由だと思っています。しかしそれは自由であると思いますか。ギリシヤの哲学者達は「賢い人だけが自由を持つことが出来る。愚かな者は奴隷だ。」との言葉に、ソクラテスは「人は快楽に支配されているのに、君はどうして自由であると言えるのか」と言ったそうです。本当の自由とは何かと問いかけているようです。

実は自由とは目的や意味がなければ空しいものです。実際に「今日1日何をしてもいいよ」と言われると何をやりたいのか結構分からないのです。目標がないと自由が空しくなってくるのです。本当の自由とは神と共に生きる自由、神の御心を行うことが出来る自由を神様は私達に与えて下さるのです。ところが反対に私達は神様から自由になろうとするのです。神様から自由になろうとすると私達は空しくなるのです。何をしていても一体何のためにしているのか分からなくなる。聖書には『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(第1コリント10章31節)』と書いてあります。神様のためにしているのなら意味があるのです。料理を作る、仕事で汗を流す、どんな時でも、何するのでも神の栄光のためなのです。意味があるのです。私達は神と共に生きるために自由になっていく。その時に生きる力と希望と喜びが出てくるのです。ですから神から自由になろうとはしないで下さい。

皆さんの中で自分は本当に悪い人間になりたいのだという人はいますか。とにかく悪党になりたい。人のことをいじめぬいて何とかしたい。悔しくてそうする人はいるかもしれませんが、本音を聞くならばそんなことはしたくないと言うでしょう。恨みや悲しみがあるからそうしてしまうかもしれない。でも本当は人に喜ばれることをしたい、役に立つことをしたいのです。私達はその様な者になっていく自由があるのです。それがキリストにある自由です。このことをご一緒に学びたいと思います。

イエス様が「真理はあなたがたを自由にします」と言った時に彼らは

「彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」(33節)

ユダヤ人達は奴隷になったつもりはなく、いつも神に従ってきたという誇りがあったのです。たとえローマに支配されようとも純粋な信仰の道を歩んだ。私達はしっかりやっているのだという感じです。ところがイエス様は

「イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。」(34〜35節)

罪を行っている者は罪の奴隷であると言うのです。1度も罪を犯したことはないですか。それならば皆さんも罪の奴隷でしょうか。ここの意味は常習的に、習慣的に、それしか出来ないような状態になっている人のことを言います。イエス様は彼らがそういう状態になっていることを指摘しようとしています。そして奴隷であるならば、いつそこから追い出されるのか分からないのです。それに対して息子はいつまでも家にいますね。それで次に、

「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」(36〜38節)

アブラハムが神を信じた。そのアブラハムの子孫がユダヤ人となったのです。確かにアブラハムの子孫ではあるが、あなた方は彼のように神の言葉を受けいれようとはしていないことを指摘しているのです。アブラハムは素直に神の言葉を受け入れたが、あなた方は受け入れない。それはアブラハムの霊的な子孫になっていないからではないかと言わんとしているのであります。

御言葉に従う時にその自由が与えられる

「彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(36〜38節)

大変厳しく難しいことを言い始めます。神から聞いたわたしの言葉を聞かないのは、あなた方がアブラハムの子孫であっても、アブラハムの霊的な子孫になっていないからだ。もし本当にアブラハムの子孫であるならば、アブラハムが受け入れたようにあなた方も神の言葉を受け入れるでしょう。アブラハムはいつも神を受け入れる心があったのです。

ある時に神からの使いがやって来ました。アブラハムはそれとは知らずに御使いを接待していた。その内の一人は恐らく潜在のイエス様。2000年前に肉をとって現われて下さったイエス様がその時に御使いの一人としてやって来たであろうと思われるのです。そのように神を受け入れる者となっていった。ところが一方彼らは、神から遣わされたわたしの言葉を受け入れようとしていない。もし本当にあなた方が神様からの者ならば、わたしの言葉も受け入れるはずですと言われた。

何を言いたいかというと、私達は御言葉に対してどういう姿勢を持つかは非常に重要ですということ。私達は御言葉に対して、真剣に受け取るか、それとも否定するか。イエス様の言葉に対してユダヤ人達は良いところだけは信じて、そうでないところは否定してしまう傾向があったのです。既に学びました6章にはそれまでは「イエス様。素晴らしいです」と従っていたのに、イエス様が『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ』と言い始めるととイエス様から離れてしまったと書いてあるのです。自分の気に入る部分は従うけれども、気に入らない部分ではイエス様に従っていかない。自分の考えの方がイエス様よりも上なのです。ですから自分で取捨選択して利用する。

そうではなく私達は本当に神の御言葉に従う姿勢、本当に受けとめる姿勢が大切ということ。そうしないならば、私達はその御言葉から受け取ることが出来る「真理の自由」も頂くことが出来ない。神様は私達に素晴らしいものを与えようとして下さっているのですが、表面的にしか受け取らないならば、折角の恵みを自分のものとすることが出来ないのです。ではそのために何が必要か。彼らは自分の先祖とか自分の力とか才能に重きをおいたのですが、そういったものをかなぐり捨てて、自分はどうなのだという現実を見なければならない。

あなた方はこの神の言葉を受け入れられますか。正直言って私達も御言葉を読んで「こんなことは出来っこない」と捨ててしまうことはありませんか。彼らと同じことをしている危険性がありますね。確かに出来ないのです。でも私達はそれを神の言葉として受けとめておくことは大切です。出来ないことは出来ないとしておいて良いのです。でもそれが間違っているとか、自分の考えの方が正しいと考えるのはよくないと思います。イエス様は弟子達に『イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13章7節)』と言われました。今のあなたの経験や状態では、意味は分からないけれども後でそれが分かるようになる。ですから今は出来なくても、今は分からなくても「分からない」としておくことが大切なのです。

例えば「右の頬を打たれたものは左の頬も出しなさい」という戒めをご存知でしょう。皆さんはそうしていますか。聖書にはそう書かれています。でもここで言っているのは、「右を打たれたら直ぐに左を出せ」ではないのです。私達は簡単に表面の意味だけをとってしまうのですが、少しだけ解説を加えますと、右の頬を打たれたその人は、もし相手の人がそれで納得がいって心が癒されるならば、喜んで左の頬も打たせなさいという愛の心です。ただ反対の頬を出せと言っているのではないのです。愛の心を持ってそのような犠牲を払いなさいということが出来るかということです。形としては出来るかもしれないが心を込めてすることが出来るか。右頬を打たれて、左頬を出すだけでなく、そればかりか心を込めてそれをするのです。そんな無茶苦茶は出来ないと私達は捨ててしまう。そうではなく御言葉を「それが出来れば幸いだ。」と受けとめることです。言っていることは真理であり、正しいと受け取ること。次に必要なことは「でも自分には出来ない」と正直に認めることです。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7章24〜25節)

私達が真理による自由を経験するには「自分は出来ない」ことをしっかりと認めることです。出来ないからそれはもういいんだと捨ててしまうのではないのです。そのことは正しい、でもそれは私には出来ない、その力がないことを、自分の弱さ、足りなさを認めていくことです。そして次に

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8章1〜4節)

自分には出来ないということを認めて「神様どうか私にその力を下さい」と祈り求めていくことです。そして神様に信頼していく時に事が起こるのです。御言葉を捨ててしまうのではなく、御言葉をまるごとそのまま受け取り「それが出来るようにして下さい。」と主に委ねて求めていく時に出来るようになるのです。もし神の御霊が私達を支配するならば、こういうことが起こる。そして私達は自由を体験するのです。罪に負けない愛する自由が与えられ始めていくことに気付くのです。

大和田広美さんは1歳9ヶ月で失明し中学3年生の時に友達からイエス様のことを聞いて関心をもち、高校生の時にイエス様を救い主として信じた。今までは何のために生きているのか分からなかった。何故私ばかりこんな状態になってしまったのか。親に迷惑をかけないで死ぬ方法はないだろうかといつも考えていたのだけれども、イエス様を信じた時から変化が起こりました。何か自分が出来ることはないだろうかと考えるようになっていったそうです。その時から、神様を伝えるために小さい時から習っていたピアノで弾き語りをしイエス様のことを伝え始めた。それに皆が感動して、あちらこちらから声が掛かり証しをするようになった。それまでは何故自分はこんな風なのかと思っていましたが、ある時から、自分は神様から2つの賜物を頂いていると考えるようになった。1つは音楽の賜物、もう1つは目が見えないという賜物。これがなければ私は人に伝えることは出来なかった。私が盲人であることのゆえに、色々な所で証しの機会が与えられた。私程度の力を持っている人はいくらでもいる。ところがそんな私が感動して受けいれられるのは私にそんな弱さがあるからだと本当に喜んでそこに生きられるようになっていったというのです。

彼女は韓国からも呼ばれて奉仕に行かれた時に、疲れ果ててしまった。これから弾き語りの賛美をしなければならないのに、証しが出来る状態ではなかった。「神様助けて下さい。私にはそんな力もありません。でも神様あなたが助けて下さい。出来るようにさせて下さい。」と1曲1曲そうしていった時に、今まで国内では味わったことがないような、1人1人がその音楽を通して心に触れて多くの人が涙してくれたのですね。そのことを通して分かったのは、私の音楽がどうこうではなくて、神様が働いて下さるということなのだ。私が出来ることは弱いままをお委ねすればいいのだ。そうすれば神様が働いて下さるということが分かったそうです。

私達はこの神様にあって自由な生き方が出来るのです。そのために大切なのは本気になって神の言葉をそのままに受け取るのです。「それは無理だ。出来っこない」と言わずに「私には出来ません。でもどうか出来るように変えて下さい」と求めていく、あるいは委ねていく。その時に大和田さんに起きたことが私達の中にも起こり始める。そして自由を味わい始める。出来なかったことが出来るようになってくる。そういう生き方が可能になる。神様は私達にこの自由を味合わせたいのです。でもそのためには中途半端でいい加減な受け取り方ではなくて、100%受け取っていく。出来ないからとしょげる必要はないのです。神様は出来ないのは分かりきっています。だから「私には出来ません。」と言えばいいのです。イエス様はこのことを味合わせたかったのです。だから非常に厳しいです。御言葉を受け取っても中途半端ではだめ。御言葉をそのまま受けとめられないのはあなた方に問題があるということ。このことをもう少しつけ加えておきますと、

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8章5〜7節)

私達の内側には神に従う力がないのです。従っていきたいという思いが全然ないかのように感じるほどです。でも1歩神の御霊に満たされていると、先ほどまでそう思っていたのに、今度は神様に何とか喜ばれることが出来ないかと一生懸命に考えているのです。私達はいつも神の御霊に導かれて歩む生き方を求めていくことが大切なのです。だから御言葉が受けとめられないならば、自分がずれていることを認めていくべきなのです。そして「主よ、あなたの御言葉に従えるようにして下さい」と祈る時に、いつの間にか私達の内に神の力が本当に働いて、以前は出来なかったことが出来るようになってくる。

あなたはプライドや人の目などにがんじがらめになっていませんか。例えば恐れに対して不自由ではないですか、孤独感はどうですか、あるいは妬みや嫉妬心はどうでしょうか。自分のプライドや人の評価や評判など、他にも私達はがんじがらめになっているのではないですか。私達はそういうものを正直に認めていく。解放されていく必要がある。自由になる必要がある。そのために御言葉をそのまま受けとめていきたいと思います。どういう風に御言葉を受けとめていくのか。色々な状況の中で、愛や慰めの言葉が必要としている人には愛や慰めに関する御言葉『神は愛である』などが気になりますよ。罪を示す時にはそれは罪であると色々なことが示されるでしょう、チャレンジが必要な時には主が共に戦ってくださるとか前に進みなさいとかそんな御言葉が不思議に心にとまっていくと思います。聖霊が皆さんの心にそうして下さるのです。

1人のビジネスマンがいました。会社が乗るかそるかの非常に厳しいところにあったそうです。御言葉を読むと繁盛とか祝福とかがいつも気になって仕方がなかった。その中で特に気になったのが

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。−万軍の主は仰せられる。−わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。−万軍の主は仰せられる。−すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。」(マラキ3章10〜12節)

この言葉が目にとまったのです。気になって牧師に「これはどういうことですか」と聞くと「与えられた物の10分の1は神様にお返ししなさい。そうすれば神様は祝福する」と聞いたのです。非常に厳しい状況なわけですが、御言葉に従ってみた。その後、日を経ずして神様は不思議なことをなさって下さった。大流行したある人形を売る代理店に抜擢された。本当に危なかった状態から回復したきた、ところがしばらく経つと段々とブームも収まってきます。その時にまたそのことを思い起こした時に、丁度皇太子息女の愛子様がその人形を持っているのがテレビで映ると再びブームに火がつき盛り返した。神様は本当に真実であると証しして下さっていました。

御言葉に従うには戦いがあったと思います。でも思いきって従った時に驚くべきことがおきた。色々な御言葉あります。それら思い起こしてそして自分が出来ると思うことを1歩踏み出してみる。神様はその時に本当に『真理はあなた方を自由にする』ことを味合わせてくださる。ともにこの恵みの中に生きる者とならせていただけたらと思います。

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