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「ペンテコステの恵み」

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2005年5月15日 日曜礼拝メッセージ
新約聖書使徒の働き2章1節〜4節、16節〜18節より
牧師 吉田耕三

「事実は小説より奇なり」という言葉を聞いたことがあると思います。アメリカのNASAと言えば科学文明の水位を集めたところでありますが、そのNASAで大変不思議な現象を元に色々なことが進んでいるのをご存知でしょうか。月に行こうとした時に、データを入れていくとどうしても1日足りないデータが出てきたそうです。ある人がふっと「聖書の中には1日太陽がそこに留まれという箇所がある。(ヨシュア10章12〜14節)」と言ったのです。試しにそれを入力したら、まだ20分程足りないと出て来た。もう1人が聖書の中に「自分の命が少し長くされることの印として日時計を少し戻して下さい。(第2列王20章9〜11節)」という箇所が出てくると言った。その分を入力したら、コンピュータは自動的に動き始めたそうです。一番文明の水位をいっているような世界が聖書の世界を土台とした計算で進んでいるのです。信じられないことが本当にあるわけです。今日のペンテコステも私達が信じ難いことが起きた出来事です。

奥義としてのキリスト

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(1〜4節)

「五旬節」とは大麦を獲り始めて50日目。過越しの祭りから50日目です。イエス様が死んでよみがえって50日目という日。その時に天からすごい音が聞こえてきた。音が響いてきたと思ったら舌のようなものが降りてきて、1人1人の上にとどまった。そうしたら、その人達が自分達が知らなかった言葉で突然神様の恵みを語り始めた。異言と言いますが、神様の力によりそのことが起きた。

私が聞いた牧師の話ですが、彼のお母さんはクリスチャンでしたが、お父さんはキリスト教を迫害していた。でもお母さんは出来うる限りお父さんの言うことを聞いていたそうです。ある時彼の子供が病気になり、うわ言で何かを言い始めた。その時にお父さんは固まってしまったのです。病気で寝ている孫の口から「神を認めて悔い改めなさい」というような日本語が出て来た。その子供は日本語を知りませんでした。お父さんは日本語が話せたので、その意味が分かった。それで奥さんも驚いて「それは神様だ。」と強く言い、これをきっかけとしてお父さんもイエス様を信じるようになったそうです。

そういうことが五旬節に起こった。この時以来大きく時代が変わったのです。イエス様の弟子達を見ると、本当に弱々しく情けない自己中心の者達です。イエス様がこれから十字架にかかる苦しいところに立っている時に「俺の方が偉い」とか「自分の方が上だ」と言って、師の心を理解しないような者達です。さらに「お前はイエスの仲間だろう。」と言われると「呪われてもいい。俺は違う。」と言う情けない弟子達です。ところがペンテコステ以来彼らが変わったのです。本当に謙遜に仕える真の愛の人に変わっていったのです。ヨハネの別名を「ボアネルゲ(雷の子)」といいます。こういう名前がつくとは、すぐにカンシャクを起こして怒るような人です。その彼が後に「愛の人ヨハネ」と呼ばれるようになったのです。人が変わることが出来る。それは努力によってですか。彼らの内に聖霊は下り、内側から作り変えられたからなのです。それは彼らだけではなく今の時代全ての者に聖霊が注がれているのです。

「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(16〜18節)

ユダヤ人でなかった者までこの霊が注がれる。私達は誰でも弟子達が味わった驚くべき変化を味わい体験し、その中に生きることが出来るのです。聖霊降臨の恵みを頂くことが出来ることをしっかりと覚えたいと思います。

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1章27節)

「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(コロサイ1章29節)

奥義とは長い間隠されてきた事柄です。芸術でも何でも奥義を知らせるのはよほど信頼した弟子でなければ知らせません。その奥義を私達に知らされたのです。それが私達の内に来られたキリストである。この方を知ることは奥義だというのです。そして私達はこの方によって本当に力強く変えられていくことが出来るのです。

聖書には色々な人が変えられたことが書かれています。聖書の中だけではなく実際にキリストに出会い変わった人というのはすごいですね。「親分はイエス様」という本がありました。元やくざの人達が見事に変えられた。数年前の市民クリスマスで力強いメッセージをして下さいました。彼はある時、悲しくて仕方がなかった。「神様、何故こんなにも悲しいのですか。」と言うと神様から「それはあなたが周りの人に与えてきた悲しみの重さだ。」と言われたそうです。何日間も苦しくて仕方がない。でもその中から彼は見事に救われて「この神様を信じて下さい。」と彼を通して多くの人が救いに導かれていった。これは神様の御霊です。奇蹟がその人の内に起きたからです。そしてそれは信じる全ての人に注がれているのです。その説明が使徒行伝2章に書かれているのです。

「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(使徒2章32〜33節)

聖霊が注がれるにいたった理由は、イエス様が地上に来て私達の過去の罪、現在の罪、将来犯すであろう罪も全部含めて身に受け、十字架に掛かって下さった。イエス様自身は何一つ罪を犯したことはないのに、むごたらしい罰を受けた。それは私達の全ての罪を身に受けたからであります。そして彼は地に下り、そこからよみがえった。これはこの方は真に罪のない方であったことを示している。聖書によれば罪からくる報酬は死であると書かれています。人間は罪の結果として死を体験している。イエス様が罪を犯していなければ死なないはずです。ところがイエス様は死んだのです。こういう肉体を持っていたのですから、罪を犯してもおかしくないはずです。でも本当に罪を犯していなかったことを証明するために、真に神様の子供であることをはっきりと分かるようにと死からよみがえった。それによりこの人は神の子であり罪のない人であったことが分かる。

では1つの疑問が出てきます。罪のなかった人が何故死んだのか。本来ならば死なないはずです。イエス様は私達の罪の身代わりになると口先だけで言ったのではないのです。本当に私達の罪を身に負ったから死んだのです。罪を一切を負って裁かれて下さった。でもそこからよみがえったということはその罪はもう処罰されたのです。私達はそれにより罪の赦しを頂くことが出来るのです。そして罪の赦しを成し遂げられて聖霊を受け、人々に聖霊を送ることが出来るようになったのです。イエス様は私達の罪を赦すために来て下さったのですが、聖霊は私達を内側から造り変えて下さるために来て下さり、その変化を与えようとして下さっているのです。

ですからイエス様を罪からの救い主、人生の主として信じたのであるならば、『すべてのひとにこの霊を注ぐ』と書いてあるように聖霊は来て下さるのです。「私は育ちが悪いから」とか「私は心が悪いから」とかは関係ないのです。イエス様を罪からの救い主として信じた人は、罪赦されて聖霊が宿り、内側から造り変えられていくのです。大ペテン師が誠実な人に、雷の子と言われた人が愛の人に、希望のなかった人、孤独な人が、喜びと感謝に溢れた人に変わっていくのです。これが奥義でです。私達は聖霊をしっかりと頂いているでしょうか。私達はこの力により変えられていけばよいのです。自分の力や努力によって変わるのではないのです。しかし聖霊を受けていることと満たされていることとは少し違います。私達がこの恵みの中に生きるためには聖霊を受けているだけではなく、満たされて歩むことが必要です。そうでなければ、そのような変化は起こり難いと思います。どうすれば満たされて歩むことが出来るか秘訣を見てみたいと思います。

イエス様といつも共に歩む

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7章37〜39節)

イエス様が地上にいた時にはまだ十字架に掛かって罪の赦しを成し遂げていないので、人々に聖霊を注ぐことは出来なかった。これはだれでもですが、敢えていうならば「渇いているなら」というのが条件であるかもしれません。私達に必要なのは次のこと『わたしのもとに来て飲みなさい』注釈には『すなわち「いつもわたしのもとに来て、いつも飲んでいなさい。」』と書いてあります。これが秘訣です。聖書を滅多に読まないとか、滅多にお祈りしないでは生ける水の川が流れ出るようになるのはちょっと難しいかもしれませんね。いつもイエス様の所に来る、いつもイエス様を信じる。信頼することが大切です。そうするとその人の心の内に生ける水が流れ出るようになるというのです。それにはイエス様の元にいつも行くことです。聖書では『絶えず祈りなさい(第一テサロニケ5章17節』という言葉が出てきます。絶えず祈るなんて無理だと思いますが、練習したら出来ますよ。祈りながら料理をする、祈りながら人の話を聞いたり出来るのです。是非してみて下さったらと思います。何をする時にもイエス様といつも一緒に親しく歩む。これが秘訣です。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1篇1〜3節)

朝も夜も御言葉を覚えていつもそれを思い出すのです。神様の素晴らしい約束の御言葉をいつも思い起こしている内に心が段々と強くなって元気になってきます。聖書の御言葉をいつも反芻し、「神様、どうかこの恵みにもっと浸らせてください」と祈ったらいいですね。そういう人は『その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』という恵み、御霊によって歩む人生になっていくというのです。私達がいつも御言葉に親しみ、いつも主の前に祈っていく時にどんな実が成るのでしょうね。クリスチャンになる実は第1に愛という実です。次は喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実が出てくるのです。これらの実があれば随分違うと思いませんか。どんなことがあっても平安がある。どんな苦しみがあっても喜びがある。こういう生き方に導かれたいものです。それにはいつも主を信じる。飲むとは具体的に言えば信じること、信頼すること、更に言うならお任せすること。苦しいこと、辛いこと、喜びも直ぐにイエス様の所に行ってそのことをお任せする。その時に、私達の内には御霊の実が成るようになっていくのです。

経済学者の隅谷三喜男は信州大学や恵泉女子大や東京女子大の学長をされた方です。ある時に病院で検査をした後に奥さんが病院から呼ばれ、ご主人が癌であることを告げられた。ご夫妻はクリスチャンで、癌の時には必ずそのことをきちんと言い合おうと前々から話し合っていたそうです。自宅に帰ってから癌であることを話した時に「余命は後どの位なのだ。」と平気で聞いたそうです。彼は「余命は1年」と聞いた時にも少しも動揺はなかったそうです。

隅谷氏はその後、残された時間をどのように有効に使うかを真剣に考えるようになった。途中で亡くなったとしても、やり残していることを順番にやっていこうと第1次5ヶ年計画を立てたそうです。死が近づいた時にかえって毎日が充実するようになった。今日しなければならないことを真剣にするようになり、非常に充実した生き方が出来るようになっていった。3度の手術をして、病気を抱えながら多くの大学の学長をされた。そして非常に充実して過ごしていく内に第1次5ヶ年計画が終わった。余命1年と言われたのに5年が過ぎてまだ召されていない。それで次に自分の成し遂げた業績の整理のために第2次3ヶ年計画を作った。第2次計画も終了し、遂に召されたのは2002年です。癌の宣告を受けてから17年間彼は生かされ続けた。その彼が自分は神によって毎日生かされていると礼拝を欠かさなかった。もう1つは神の前に出て神の言葉を聞く。聖書を開いて読む。もちろんそこには祈りもあったでしょう。その時間を彼は欠かさなかった。彼は死があった方が非常に充実した生き方が出来ると彼は言い残しているのですが、そんな生き方が可能になったのではないかと思うのですね。

マザー・テレサの起こした宣教団は素晴らしい働きです。彼女達はどんなに遅くなっても、その場所には泊らず、必ず自分達の拠点地に帰るのです。瀕死の病人をおいていかずにそこに居ればいいのにと思いますが必ず帰る。それは朝に神様との交わりの時間を持つからです。それがなければこの人達に仕えていくことが出来ないと彼女達は言っているのです。暑くて、汚くて、臭くて仕方がない所で、病気の人達に喜んで仕えていけるのか分からないと色々な人が書いています。その秘訣は神様との交わりの時間なのです。

聖霊は今や全ての者に注がれています。私だけは除外されているというのはあなたの勘違いです。自分の中に奥義として来て下さった御霊をしっかりと受けとって下さい。来ているのに来てないと思いこんでいると神様の恵みを体験することは出来ません。よく言いますが玄関に入れたきりで、本当は入れるべき部屋(苦しみや困難)に絶対イエス様を入れない。これは自分で何とか解決してからイエス様を入れようとしているからです。その困った汚い部屋を開けてそこにお迎えすることが大切なのです。そうするとイエス様が何とかして下さるのです。イエス様は来て下さっていても玄関に置きっぱなし。そのためにこの方が分からない、恵みが分からないのです。

イエス様を罪からの救い主として信じるか否かです。自分の性格や育ちや心は関係ない。問題はイエス様が十字架にかかって罪の赦しを成し遂げて高くあげられるかどうかだけなのです。今イエス様は聖霊を頂いて、地上の信じる全ての人に注ぎ出して下さっているのです。問題は私達がそれを受けとめて御霊に満たされて歩むことです。もちろん知れる罪があるならば「神様ごめんなさい。」と言うことはとても大切でしょう。それと共にいつもイエス様の所に行くことです。『わたしのところに来て飲みなさい』と言っているでしょう。「イエス様、助けて下さい。この問題はどうすることも出来ません。あなたにお任せします。」と委ねることです。これが私達の成すべきこと。その時に不思議に平安な義の実が結ばれていくのです。そして神の業がそこに起こる。私達も奥義としての恵みに共に与っていけたらと思います。

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